もう、傍を離れられない。
「蒼お兄ちゃん、帰ってくるの遅いね―……」
キュ、と莉乃のそばで丸くなっている子うさぎのレインが鼻を鳴らした。
数日前。
「わあっ!レイン!」
隣室から切羽詰まった感じの叫び声が聞こえ、莉乃は首を傾げた。
その部屋の主は蒼也で、間違いなく今し方聞こえた声の主も彼だ。
何なのだろう、とノートに走らせていたシャーペンを開きっぱなしのペンケースに無造作に突っ込んで、莉乃は廊下に出た。
この家に来てすぐの時こそ、毎朝恒例の行事であるらしい和人を叩き起こす声に驚いていたが、数日経てばもう慣れたものだ、最早その声が聞こえても何ら反応を示さなくなった。
とはいえ、今回は別。
もう和人は仕事に行き、家には二人だけ―――そう考えるとだんだん頬が熱を帯びてくるが―――いやいや、そうじゃなくて。
一人で部屋に居る筈の蒼也が、一人で騒いでいるのだ。
本当に一人だったらちょっとイタイかもしれない。
莉乃の部屋とは違って蒼也の部屋には元々鍵が付いていない為、莉乃は恐る恐る少しドアを開いた。
「・・・・・え?」
中の光景に、思わず声が漏れる。
小さな声だったが、ベッドの上に座って何やら作業中の蒼也には聞こえていたようで、ドアの方に振り向いた。
「莉乃ちゃん?どうかしたの?」
「ううん、ただ蒼お兄ちゃんの部屋から声が聞こえてきて・・・・」
「ああ、そっかゴメン、うるさかったね」
「それはいいの。・・・それよりね、その子・・・・」
蒼也が抱き抱えているのは、掌サイズで、真っ白で赤い瞳の子うさぎ。
「昨日貰ったんだよ。バイトの帰り、久しぶりに小学校に寄ったら、6年の時の担任がまだいてさ。学校のうさぎがたくさん子を産んで、里親探しするとかって言うから。ちょうどペット欲しかったし、協力、協力」
心底嬉しそうに子うさぎを抱き上げ、顔の横に持っていく。
早くも懐いているようで、子うさぎの方は抵抗する様子はない。
「で、名前がレインなの?」
あ、聞こえてたか、と蒼也は苦笑しながら頷いた。
手を伸ばしてくる莉乃にレインを渡す。
パタリとベッドに対して垂直に倒れた蒼也の隣に、莉乃はうさぎを撫でながら腰を下ろした。
「そうだ、莉乃ちゃん。僕、バイトで家に居ないこと多いからさ、もし良かったら時々相手してあげて貰えないかな?」
「いいの?」
「勿論。」
小屋をこの蒼也の部屋に置いておくのなら、自由に出入りすることになる。
どうもそんなこと考えていないらしい蒼也は、「ニンジンとキャベツが冷蔵庫にあったっけ」と部屋を出て行く。
莉乃はそれを見送ってから、室内をキョロキョロ見回した。
蒼也の部屋に入るのは、これが初めてだ。
男の子の部屋らしく青を基調としていて、シンプルながら落ち着く部屋。
少し目を引くのは、大きな本棚で、もう1冊も入らないのではないのかと言うほどぎっしり本が敷き詰められている。
えーと、何々。
上から3段は料理本や、掃除のコツとかみたいな家事の本。
でもそれから下のものは。「医学書?」
解剖生理学やら、病理学やら。とにかく多種多様な医学書が並べられていた。
漫画のようなものは一切無く、机の上にいくらか小説があるだけだ。
その小説ですら、疾病と戦う患者の物語。
何だか真面目過ぎる気がして、年相応な物があってもいいんじゃないのかな・・・・と思わず思ってしまう。
そうすれば、ふと蘇る一般的によく言われていること。
莉乃はこっそり、ベッドの下を覗いた。
ほら、男の子の部屋のベッドの下には教育に良くない本が隠されてるって言うし。
でもわざわざベタな場所には隠さないよね・・・・・。
まあ結局興味本位で見てみたが、そこには何も無かった。
―――――と。
「莉乃ちゃん?何してるのかな」
「―――!!」
突然声が掛かり、心臓が跳ねた。
そちらの方に目を向ければ、困ったような呆れたような感じに苦笑している蒼也の姿があった。
「えーと、こ、これは・・・・その!」
「うん?」
「こ、これが下に入っちゃって・・・!」
こっそり腕についていたブレスレットを外し、差し出す。
顔が熱い。
でも蒼也は鈍感にも莉乃が顔を真っ赤にして狼狽していることには気付いていないようで。
ああそっか、と蒼也は納得したようで、持ってきたニンジンとキャベツを莉乃に渡した。
「何だかこの家が自分の家みたい。もう3週間だもんね・・・・・」
あの日と同じようにニンジンを与えながら、膝を抱える。
蒼也はまだバイトだ。
未だ何のバイトなのか知らないけれど、いつもかなり疲労して帰ってくる。
力仕事なのかもしれない。
大抵、朝9時に出掛けて行って、帰りは9時~10時くらい。
和人の場合は朝7時に仕事に行き、7時には帰宅する。
でも当の和人は一昨日から海外出張でいないのだ。
「前は・・・・・いつも一人だったのに。何でかな・・・・・凄く淋しい。心細い」
両親のいない一年半を過ごすなら真田家がいいと言ったのは莉乃。
何年も前ではあったが、5度ほど両方の母親に連れられて二人は会い、遊んだことがある。
実の母親のことがトラウマとなっていた莉乃にとって、同年代の子と遊ぶのは初めてのことだった。
蒼也の母親が死んで、会わなくなったが一緒に遊んだことは忘れなかった。
もしかしたら、その頃からもう蒼也のことを・・・・・・。
そこまで考えて、恥ずかしくなって頭を振った。
でも、普段は一人だった。
家に閉じ込められ、食べ物も水も与えられなかった幼き日は勿論のこと、父親が再婚し新しい生活を始めてからもその闇を抱えた莉乃は人と関わることを避け、虐めを受けたりはしなかったもののいつも独りだった。
家に帰れば、両親は共働きでいない。
夕食はインスタントや冷凍食品。
両親は自分の為に働いてくれていることが分かっていた莉乃は、実母のような虐待を恐れて我が儘を言えずにいた。
何年もその環境下であったら、流石にもう一人に抵抗はなくなって。
なのに・・・・・。
何でかな。
たった三週間この真田家で暮らしただけで、前と同じような状況に耐えられない。
淋しい。
夏なのに、寒い。
暗くなるのが遅い季節ながら8時になればもう真っ暗になる。
暗いのが不安で怖くて、電気を家中つけたい衝動に駆られるけれども。
真田家の電気代・・・・・と考えたら、出来ない。
莉乃は真っ暗な室内で、小さく丸まった。
でもそれくらいなら、まだ耐えれる。
何よりも、何よりも耐え難いものが。
ここぞとばかり、近づいてくるのだ。
それは・・・・・。
「怖い」
口に出せば、目頭が熱くなっていく。
ぐらりと、“影”が揺らめいた。
「・・・・!!」
と、一階で、玄関の鍵が開けられる音がする。
レインを抱えたまま、莉乃は駆け出していた。
「ただいまー」
ドアを開け、靴を脱いだところで蒼也は階段を駆け下りてくる音がして立ち止まった。
切羽詰った様子で降りてきた莉乃は、驚いている蒼也に飛びついた。
「り、莉乃ちゃん!?どうしたの?」
蒼也の腰にきつく腕を回し、カタカタ震える莉乃に、蒼也は家に一人ぼっちにしていたことを思い出す。
幼い妹をあやす様に―――蒼也は実際に妹のように思っているが―――頭を撫でた。
「一人ぼっちにしちゃって・・・・・ごめんね・・・・。もしかして、怖かったの?」
小さく頷く莉乃から、突然強制的な同調が起こる。
でも、夢が見えない。
何か黒い闇の渦が、行く手を遮って。
これが何か、蒼也は知っている。
見たことがあるから。
母・咲良が亡くなったあの日に。
蒼也は、さーっと青褪めた。
莉乃には、バイトのことを知られないようにせねば、と思っていた。
だが、同調したことで。
離れることが、逆に危険だと触れて分かった。
もう、傍を離れられない。




