21話
謁見室の空気はまだカインの狂気によって凍りついたままだ。
イグニス公爵が政治的な混乱と王族の体面を計算しているののだろう。慌てて口を開いた。
「で殿下。アッシュ領への視察誠に素晴らしいお考えです。ですが時期尚早かと。まずは日程の調整を……」
だがそのイグニスの言葉を遮りソフィアお嬢様がカイン王子に向き直った。
「カイン殿下。アッシュ領へのご訪問心より歓迎いたします。領民たちの受け入れ準備もございますのでそれでは日程が決まりましたら――」
「……なにをいっているの?」
カインはお嬢様の言葉を遮った。
心の底から不思議そうに。
その声には先ほどの狂気はなくただ純粋な疑問だけがあった。
「準備?日程?」
カインは子供に言い聞かせるように続ける。
「ボクは今、アッシュ領の心臓であるソフィア嬢が機能する場所を見たいと言っているんですよ……ついでに脳もね」
カインはチラリと俺を見る。
そして反応する間もなく笑顔で言い放った。
「――今行きます」
『今』?
王族の移動だぞ。警備も儀礼も準備もすべて無視して。
この男正気か……!
カインはすでに立ち上がり扉に向かって歩き始めている。
その行動の異常な速さにイグニス公爵もレオンもついていけない。
「イグニス公。あなたの政治的な準備は後から馬車で追いかけてくればいい。ボクは先に行く」
彼は振り返りソフィアお嬢様にあの完璧な笑顔を向けた。
「ああそうだ。ソフィア嬢。ボクはあなたの馬車に乗せていってもらおう。あなたの視点でアッシュ領の話を道中ゆっくりと聞きたい」
……なんだと?
「で殿下!ななりませぬ!」
俺が口を開くより早くイグニス公爵が血相を変えて叫んだ。
スキャンダルへの恐怖だ。
「未婚のソフィアと殿下が二人きりで馬車に……!クライネルト家の恥になります!」
カインは心底面倒くさそうにイグニスを一瞥した。
「……ああそうか。人間とはそういう非合理的な慣習を気にするのでしたね」
彼はしばし考える素振りを見せやがて完璧な解決策を見つけたとばかりにレオンを見た。
「ならば問題ない。レオン」
「は!カイン様!」
レオンが歓喜に顔を輝かせ即答する。
「あなたも同乗しなさい。実の弟としてソフィア嬢のお目付け役を務めればイグニス公も満足でしょう?」
「ぐ……!」
イグニスは言葉に詰まった。
カインはイグニスの古い『常識』を逆手に取り最も厄介な『狂犬』を合法的に密室(馬車)へと送り込んだ。
カインの狂気的な即時実行により数十分後には王城の馬車寄せにアッシュ領へ戻るための準備が強引に進められていた。
用意されたのは俺たちが乗ってきたあの質素なクライスト家の馬車一台。
そして後続の護衛という名の監視用の馬車が一台。
カイン王子が完璧な笑顔でソフィアお嬢様をエスコートする。
レオンが俺を勝利者の目で見下しながら得意げに馬車に乗り込む。
俺はその馬車の外に立っている。
執事という身分。
それが今ここで絶対的な物理的障壁となっている。
俺は主と同じ馬車には乗れない。
王族と公爵家の人間が乗る馬車に使用人が同乗することなど許されないのだ。
ソフィアお嬢様が馬車の中から俺に向かって不安げな助けを求めるような視線を向けた。
その瞳が恐怖に震えている。
だが彼女は俺の視線に気づくとその恐怖を意志の力で捻り潰し
大丈夫と言わんばかりに小さく笑ってみせた。
気丈な鋼のような笑みだ。
……御見事。
俺は彼女のその魂の強さに完璧な皮肉という名の信頼を返す。
声を張らず彼女にだけ聞こえるように囁いた。
「……お嬢様。ご安心を。いかなる害獣も我々のホームではただの獲物です」
お嬢様は俺の言葉にわずかに頷きその顔に再び覚悟を宿した。
だがその時カインが馬車の窓から顔を出した。
俺たちの間の空気の流れを断ち切るように。
「どうしたんだい執事殿。君はそちら(・・)の馬車だよ」
カインの目は笑っていた。
「ボクたちの会話の邪魔になるからね」
俺はその男に完璧な笑顔で深々と一礼した。
「御意に殿下」
俺は後続の護衛用馬車に荷物のように押し込まれた。
窓からソフィアお嬢様が乗った『密室』が王都を出発していくのが見える。
重い車輪の音が俺の神経を逆撫でする。
……『邪魔』か。
あの怪物め。
俺とソフィアお嬢様が『繋がっている』ことそれ自体が気に食わないらしい。
なるほど。お前の本音は利権ですらない。
お前は彼女を『所有』し誰からも『隔離』したいだけか。
俺は遠ざかる馬車を窓枠が軋むほど強く握りしめながら
――その口の端が吊り上がるのを止められなかった。
……いいだろう。実にいい第2幕の開幕だ。
だがカイン。お前は最悪のミスを犯した。
お前は自分が手に入れたい宝石を
その宝石を誰よりも強く憎み破壊したがっている狂犬と
二人きりで狭く暗い箱に閉じ込めた。
……あの歪んだ愛がお前の欲しがっているモノに牙を剥かないと本気で思っているのか?
――さあ喜劇の始まりだ。
せいぜい密室で喰い合うがいい。
俺はこの特等席から
あなたがたの茶番劇をじっくりと拝見させてもらうぞ。
――そして馬車はゆっくりとアッシュ領へ動き出した。




