田中の夜
千鶴を自宅まで送り届けた田中は、帰りの車を走らせていた。
車内は静かだった。
先ほどまでの出来事が、頭から離れない。
千鶴の様子が、まるで別人のように変わったのだ。
あの口調、あの態度、そしてあの表情。
いったい、何だったんだろう。
病気なのか?
それとも、多重人格というやつなのか?
まさか……ドラッグ?
いやいや、そんなはずはない。
田中はハンドルを握りながら、あれこれ考えを巡らせた。
考えれば考えるほど、答えは見つからない。
結局、モヤモヤした気持ちを抱えたまま、田中は自宅に到着した。
時計を見ると、すでに夜10時を回っていた。
「ふぅ……。とりあえず、風呂でも入るか」
今は考えても仕方がない。
田中はひとまず、先ほどの出来事を頭の隅に追いやることにした。
浴室に入り、大きな湯船にゆっくりと身を沈める。
「おおー、気持ちいいなぁ」
足を伸ばし、湯船に体を預ける。
じんわりと体が温まり、張り詰めていた気持ちも少しずつほぐれていく。
「やっぱり、風呂はいいなぁ」
しばらく湯船につかっていると、不思議と気持ちが楽になってきた。
風呂から上がった田中は、冷蔵庫を開けた。
そこには、昼間、千鶴と買い物に行ったときに購入したビールが入っていた。
普段、田中は家で酒を飲むことはほとんどない。
しかし、このビールには少しだけ理由があった。
もしかしたら、千鶴が泊まっていくことになるかもしれない。
そんなことを想像して、二人で一緒に飲もうと思って買ったものだった。
もちろん、そんな展開にはならなかったのだが。
「まあ、せっかくだしな」
田中はビールを開けた。
一口飲む。
冷えたビールが喉を通っていく。
「うまいなぁ」
一人で飲むビールも悪くない。
ふと、千鶴との楽しかった時間が思い出された。
一緒に買い物をしたこと。
何気ない会話をしたこと。
隣にいるだけで、なんとなく楽しかったこと。
田中の表情が少し緩んだ。
そして、先ほどの出来事について、もう一度考えた。
千鶴には何か事情があるのかもしれない。
自分には分からない病気なのかもしれない。
でも、それならなおさら、きちんと向き合うべきではないだろうか。
「よし……」
田中は小さくつぶやいた。
「千鶴さんの病気のことは、ちゃんと向き合おう」
そして、心の中で決意した。
俺は、病気も含めた千鶴さんが好きだ。
それが田中の答えだった。
不思議なことに、先ほどまで頭の中を占めていたモヤモヤは、すっかり晴れていた。
「うん。今日はぐっすり眠れそうだ」
田中は満足そうにうなずいた。
その前に、トイレに行っておこう。
田中は廊下を歩き、家の中にあるトイレへと向かった。
扉を開ける。
そこには、見慣れない便座が設置されていた。
便座の脇には、見たことのないほどのスイッチが並んでいる。
「なんだこれ……」
田中はスイッチを眺めた。
「凄い多機能ウォシュレットだな。こんなの、使いこなせないだろ」
田中は感心しながら便座に腰を下ろした。
すると、思いのほか座り心地がいい。
「おおー! これ、いいね!」
思わず声が出た。
「やっぱり、金持ちは持ってるものが違うねぇ」
田中はそんなことを言いながら、すっかり便座を気に入っていた。
やがて、用を済ませると、いつものようにトイレットペーパーを手に取った。
ウォシュレットは使わなかった。
田中は丁寧にお尻を拭き、立ち上がった。
その直後、便座が静かに作動した。
田中は気にも留めず、トイレを後にした。
「さて、寝るか」
こうして、田中の長い一日は終わった。
これが、宮ヶ瀬ダムで発生した前代未聞の事件の始まりだった。




