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魔法の便器  作者: 好月
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冴えない男

「たーなーかー!!」


朝の九時十五分。


建設会社の事務所に、男の怒鳴り声が響き渡った。


「まぁーーだ報告書できねーのか? あぁぁん!?」


田中は、びくっと肩を震わせた。


「は、はいっ! ただいまやっております!」


勢いよく振り返った拍子に、机の上のボールペンが転がり落ちた。


「あっ」


拾おうとして、今度は椅子の脚に足をぶつける。


「いっつ……」


「何やってんだ、お前は!」


「す、すみません!」


田中は慌ててボールペンを拾った。


三十五歳。


建設会社に勤めて十年以上になる。


仕事が特別できるわけでもなければ、要領がいいわけでもない。


そして何より、気が弱かった。


「昨日までに出せって言ったよなぁ?」


「はい……」


「はいじゃねーんだよ! 俺はなぁ、お前のためを思って言ってんだぞ!」


上司は田中の机に書類を叩きつけた。


「そんなんじゃ、いつまでたっても一人前になれねーぞ!」


「申し訳ありません……」


田中は頭をかいた。


――絶対、俺のためじゃないよな。


心の中では、ちゃんと反論できる。


むしろ、心の中なら上司を言い負かすことだってできる。


問題は、それを口に出せないことだった。


「昼までに仕上げとけよ! 俺は午後から出るからな!」


「わ、わかりました!」


上司は満足そうに鼻を鳴らし、自分の席へ戻っていった。


田中は小さく息を吐いた。


そして、誰にも聞こえない声でつぶやく。


「……午後から出るなら、俺の報告書、午後まで待ってくれてもいいじゃん」


言った直後、周囲をちらりと見回した。


誰も聞いていない。


よかった。


田中は安心して、再びパソコンに向き直った。


三十五歳にもなって、こんなことで安心している自分が少し情けなかった。


     *


田中の同期は、もうほとんど会社を辞めていた。


転職して給料が上がった奴もいれば、独立して自分の会社を持った奴もいる。


たまにSNSで見かける同期たちは、田中とはずいぶん違う人生を歩んでいるようだった。


もちろん、田中だって辞めようと思ったことはある。


求人サイトを眺めたこともある。


退職届の書き方を調べたことだってある。


しかし、いざ自分が辞めるとなると、どうにも踏ん切りがつかなかった。


次の仕事が見つからなかったらどうしよう。


今より給料が下がったらどうしよう。


そもそも、この年齢で自分を雇ってくれる会社があるのだろうか。


考え始めると、悪い想像ばかりが浮かんでくる。


結局、いつも同じ結論にたどり着く。


――まあ、もう少し頑張ってみるか。


そして翌朝、また怒鳴られる。


我ながら、成長がない。


「……はぁ」


田中はため息をつき、パソコンの画面を見つめた。


報告書の完成まで、あと少し。


そう思っていたのだが、さっき上司に叩きつけられた書類を見て、ひとつ大事な項目を忘れていたことに気づいた。


「……あ」


田中は天井を仰いだ。


「終わった……」



     *


午後八時四十分。


ようやく仕事を終えた田中は、会社を出た。


空はすっかり暗くなっていた。


駅へ向かう途中、スーパーに立ち寄る。


弁当売り場には、値引きシールの貼られた商品がいくつか残っていた。


田中は慎重に見比べた。


唐揚げ弁当。三十円引き。


生姜焼き弁当。五十円引き。


「……五十円」


田中は生姜焼き弁当を手に取った。


たった二十円の差だ。


だが、二十円を笑う者は二十円に泣く。


田中は、そういう男だった。


レジで会計を済ませ、アパートへ向かう。


駅から少し離れた、古いアパート。


ところどころ剥がれた壁紙はロックバンドのポスターで隠している、玄関のドアも開け閉めするたびに小さな音を立てる。


それでも家賃が安いのはありがたかった。


「ただいまー」


部屋の明かりをつける。


一人暮らしの田中には当然返事はない。


田中は弁当をテーブルに置き、上着を脱いだ。


部屋の隅には、小さな飼育ケースが置かれていた。


中にいるのは、一匹のカメレオン。


田中が飼い始めてから、もう二年ほどになる。


「おーい。ごはんだぞー」


田中は飼育ケースの前にしゃがみ込んだ。


カメレオンは枝にしがみつき、じっとこちらを見ていた。


「なんだよ。そんな顔して。お前も俺の帰りが遅いって怒ってんのか?」


もちろん、カメレオンは答えない。


「いや、俺だって好きで遅くなってるわけじゃないんだぞ。今日なんか上司がさぁ……」


田中は会社であったことを話し始めた。


途中で、自分がカメレオンに愚痴をこぼしていることに気づく。


「……俺、何やってんだろうな」


カメレオンは、ゆっくりと首を傾けた。


「いや、聞いてくれるだけありがたいよ。」


田中は小さく笑った。


餌を用意し、ケースの中にそっと差し入れる。


カメレオンが舌を伸ばし、餌を捕まえた。


「おっ、食った食った!」


田中は思わず身を乗り出した。


「お前、食べるのうまいなぁ。俺なんか今日、昼飯食べる時間もなくてさ……」


しばらく、カメレオンの食事を眺める。


田中にとっては、仕事で嫌なことがあった日でも、この時間だけは悪くなかった。


誰にも気を使わなくていい。


誰かの顔色をうかがう必要もない。


ただ、目の前の小さな生き物を眺めていればいい。


田中は餌入れを片づけ、ケースの扉に手を添えた。


指先で縁をなぞり、軽く押す。


それから、もう一度カメレオンを見た。


「よし。じゃあ、俺も飯にするか」


立ち上がった拍子に、腰がテーブルの角にぶつかった。


「いっっったぁ!」


思わず身をかがめた拍子に、部屋の隅からカシャン、と小さな音がした。


古くなった飼育ケースが、わずかに揺れている。


「お前、今の見てた?」


田中は腰をさすりながら、カメレオンに目を向けた。


カメレオンは、何事もなかったかのように枝の上にいた。


当然、返事はない。


「見てないならいいんだ。忘れてくれ」


田中は何事もなかったかのように立ち上がり、生姜焼き弁当を電子レンジに入れた。


     *


食事を終え、風呂に入り、明日の準備を済ませる。


テレビをつけると、楽しそうな芸能人たちが画面の中で笑っていた。


田中はソファ代わりの座椅子に座り、ぼんやりと画面を眺めた。


明日も仕事だ。


明後日も、その次の日も。


きっと、何も変わらない。


会社を辞める勇気もない。


上司に言い返す勇気もない。


三十五歳にもなって、自分の人生ひとつ思い通りにできない。


「……俺って、ほんと情けないな」


そうつぶやいたとき、スマートフォンが震えた。


昔の同期からだった。


『久しぶり! 今度、みんなで集まらないか?』


田中は少し迷った。


自分以外の同期は、みんなそれぞれ前に進んでいる。


会えば、仕事の話になるかもしれない。


今の自分のことを聞かれたら、何と答えればいいのだろう。


それでも、久しぶりに会いたい気持ちはあった。


田中は返信を打った。


『いいね! いつにする?』


送信ボタンを押す。


ほんの少しだけ、気持ちが明るくなった。


「……まあ、なんとかなるか」


田中はスマートフォンを置き、伸びをした。


そのとき、部屋の隅から、カメレオンが枝を移る小さな音がした。


田中はそちらを振り返った。


「お前も、明日はいいことあるといいな」


カメレオンは、ゆっくりと田中の方を向いた。


田中は満足そうにうなずくと、部屋の電気を消した。


明日も、いつもと同じ一日が始まる。


田中は、そう信じて疑わなかった。

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