第31話 妖精の国への招待状
それは、いつものシステム通知とは明らかに違っていた。
スキルを覚えた時や称号を獲得した時に出る簡素なウィンドウではなく、薄い花びらのような光が縁を飾り、文字の背後では淡い緑と金色の粒が揺れている。
まるで「これは特別な知らせですよ」とでも言いたげな、少しだけ芝居がかった表示だった。
いや、実際に運営がそういうつもりで作っているんだろう。
プレイヤーの期待を煽るための演出。大規模イベント告知。たぶん、今この瞬間、世界中のプレイヤーが同じものを見ている。
私はまず、反射的にカイを見た。
カイはきちんと外向けの顔を保っていた。水色の瞳は静かで、口元も引き締まり、さっきまで週百万円セルという利益予測に内心で動揺していた犬っぽい青年とは思えないくらい、冷えた美形としてそこに座っている。
けれど、その視界の横から、私宛てのメッセージが恐ろしい勢いで飛んできた。
[イベントだ!!!!]
[ラウラ!!イベント!!!!]
[第一回大規模イベント!!!!]
[妖精の国!!!!]
[絶対行くやつ!!!!]
うるさい。顔は静かなのに、メッセージがあまりにもうるさい。
私は危うく笑いそうになったけど、しかし目の前にはレアがいて、机の上には利益予測の資料が並んでいて、そして私はラウラリア・ラ・ヘルとしてこの場に座っているので、なんとか表情を整えたまま静かに通知へ視線を戻した。
イベント名は、《妖精の国への招待状》。
その響きは正直かなり良かった。
招待状、という言い方がいい。強制参加ではない。攻略命令でもない。扉は開いているが、入るかどうかは君次第だという雰囲気がある。
プレイヤーの好奇心を刺激する。しかも妖精の国。現実とは異なる幻想的な領域。気まぐれで美しい世界。常識が通じるようで通じない場所。……うーん、これはずるい。運営、かなりわかってやっているな??
読み進めるほど、私の中で「行くかどうか」ではなく「どう行くか」という思考に変わっていった。
コイン収集。限定アイテム。妖精との交流。地形変化。道の揺らぎ。探索力、判断力、そして運。
従魔または仲間NPCを一人まで同行可能で、期間は二週間。通常では手に入らない特別なアイテムと未知の魔物、あるいはそれ以上の何か。
最後の一文に差し掛かったところで、私はゆっくりと息を吐いた。
これは絶対に何かある。何が、とはまだわからない。
隠し報酬か、特殊称号か、限定種族か、あるいは妖精との契約のような通常ルートでは触れられない特殊な要素か。
けれど、ここまであからさまに意味深な言葉を置かれて、何もありませんでした、というのはありえないよ。
DHOの運営がそんな素直なイベントをやるとは思えないし、そもそもこのゲームはこれまでの経験上、プレイヤーが「まさか」と思う場所にだいたい本当に何かを置いてくる。
「ラウラ」
カイが声を出した。表情は静かだったが、声の奥が浮ついている。
いや、浮ついているなんてものではない。走り出す直前の犬である。私はそれを見て、また少し笑いそうになった。
「行くだろ?」
答えは決まっていた。
「行くでしょうね」
「だよな!」
その一瞬だけ、カイの顔がぱっと明るくなった。
ギルドで初めて話しかけた時に見えた、あの犬みたいな笑顔だ。けれどそれは本当に一瞬だけで、すぐにまたすっと表情が落ち着く。
レアがいるからだろう。外向けモードを保っている。保とうとしている。だがもう遅い。私は見た。完全に見た。
そして、そのレアはというと、私たちとは少し違う反応をしていた。
「……妖精の国、ですか」
彼女は資料を持ったまま、ほんのわずかに眉を寄せていた。
さっきまでの元気で忠誠心の高い直属部下という印象から、少しだけ別の顔が覗いている。警戒。あるいは、知っている者の慎重さ。私はそれを見逃さなかった。
「レア、何か知っているのですか?」
そう尋ねると、レアはすぐに姿勢を正した。
「はい。伝承程度ではありますが、妖精についての知識はございます」
「聞かせてください」
私がそう言うと、レアは一度だけ小さく息を整え、それから慎重に言葉を選ぶように話し始めた。
「妖精は、美しく、気まぐれで、そして危険です」
その言い方は、思っていたよりもずっと重かった。
可愛いマスコットとか、限定イベントの案内役とか、そういう軽い存在ではないらしい。少なくともこの世界の住人から見た妖精は、もう少し厄介なものとして認識されているようだった。
「妖精は嘘をつかないと言われています。ですが、正しく伝えるとは限りません。約束を守ると言われています。ですが、こちらが望んだ意味で守ってくれるとは限りません。願いを叶えると言われています。ですが、代償が何かを先に教えてくれるとは限りません」
「……なるほど」
私は思わず口元を緩めた。
これは面白い。めっちゃ面白い。
少なくとも、ただコインを集めてアイテムと交換するだけのイベントでは終わらない可能性がある。妖精という存在そのものが交渉と解釈と契約の塊のようなものなのだとしたら、そこには私が最近ずっと触れてきたもの――制度、権利、言葉の使い方、立場の取り方――が深く関わってくる。
カイがじっとこちらを見ていた。
「今、絶対変なこと考えただろ」
「失礼ですね」
「いや、考えてる顔だった」
「妖精との交渉は面白そうだな、とは思いました」
「ほら考えてる」
「それは認めます」
私は素直に頷いた。
認めるしかない。だって実際面白そうなのだ。
妖精が単なる敵でも味方でもなく、言葉と契約で動く存在なら、戦闘能力よりも判断力や交渉能力の方が重要になる場面があるかもしれない。
もしそうなら、これはかなり私向きのイベントである可能性がある。もちろん、そう思わせておいて痛い目を見せにくるのがDHOというゲームなんだろうけど。
ただ、そこで私はすぐにもう一つの問題へ思考を戻した。
赤の塔だ。
ダンジョン経営は、今まさに軌道に乗り始めたところだった。
初期の評判は陰湿だの嫌らしいだの散々だったが、報酬設計と固有資源の追加で少しずつ評価が変わり始めている。
ギルド側の調査も進んでいるし、利益予測も出た。レアの報告によれば、赤の塔は新規ダンジョンとしてはかなり有望らしい。ここで完全に手を離すのは、正直もったいない。
「問題は、イベント期間中に赤の塔をどうするかですね」
私がそう言うと、カイの表情も少しだけ真面目になった。レアに秘匿する為か、メッセージで返事が送られる。
[閉めるのはもったいないよな]
[ですね。せっかく噂が広まり始めたところですし、ギルドからの調査も継続している。ここで停止すると勢いが落ちます]
[でも俺がイベントに行くなら、細かい構造変更はできない]
[カイがダンジョンマスターだからね]
[そう。遠隔操作にも限界あるし、妖精の国に入ってる間にどこまで繋がるかもわかんねぇ]
そう、DHOが普通のゲームなら「イベント中でも管理画面は開けます」で済むかもしれないけど、この世界は妙に現実めいている。
妖精の国が通常マップとは異なる領域なら、赤の塔との接続が不安定になる可能性だってある。
そうでなくとも、イベント中にダンジョン管理へ意識を割きすぎるのは危険だ。
妖精の国は地形も変わり、常識も裏切られる場所らしいんだから、片手間で挑めるようなものじゃないんだろう。
私はレアを見る。
レアはすでに、何かを言う準備をしている顔だった。
「……レア」
「はい」
「赤の塔について、任せられますか?」
私がそう言った瞬間、レアの顔がぱっと明るくなった。
でも、ただ喜んだだけではない。彼女はすぐに表情を引き締め、背筋を伸ばし、きっぱりと頷いた。
「お任せください」
その返答は、想像よりも力強かった。
「ギルドへの報告対応、素材流通の確認、利益集計、そのあたりであれば私が担当できます」
思っていたより、具体的だった。
いや、本当に有能だなこの子。
直属の部下として来た時点でそれなりに仕事ができるのだろうとは思っていたけど、今の返答は単に「できます」と言っているのではない。
何を管理すべきか、どこまで自分が担当できるか、どこから先はカイの権限が必要か、それをちゃんと理解した上で言っている。
カイも感心したようにレアを見ていた。
「え、普通にすごくない?」
「普通にすごいですね」
「いや、俺たちよりちゃんとしてる」
「それは否定できません」
「お二人とも!?」
レアが少しだけ慌てた声を出す。私は思わず笑った。
「褒めていますよ」
「そ、そうですか……?」
「もちろん。とても助かります」
私がそう言うと、レアはまた少しだけ赤くなった。
さっきの【魅惑の微笑み】事件ほどではないけど、やっぱり反応が素直。
とはいえ、今は遊んでいる場合じゃないな。私はその可愛らしい反応を心の中でそっと眺めるだけにして、すぐに話を戻した。
「では、赤の塔はレアに管理を任せる形にしましょう」
「あぁ、賛成だ」
[カイにはイベント開始前に最低限の自動運用方針を設定してもらう。たとえば、侵入者数に応じた宝箱補充の優先度、資源採取量が一定を超えた時の警告、攻略階層が進みすぎた時の連絡基準]
[お、いいな]
[あと、あまりにも進行が早い場合は、無理に止めるより報告を優先した方がいいと思います]
[何で?』
[下手にその場で対処しようとすると、こちらが意図的に動かしていると気づかれるかもしれないから]
[あー、なるほど]
カイは頷いた。
[自然なダンジョンの挙動に見せるのが大事か]
[うん。赤の塔は、表向きには領主家が発見し、調査管理している新規ダンジョンです。ダンジョンマスターがいると悟られるのは避けたい]
[つまり、俺の存在は引き続き秘密]
[もちろん]
[了解]
カイは軽く返したけど、その目は真面目だった。
こういうところが、本当に助かる。普段は犬みたいなのに、重要なラインは外さない。だから私はわりと安心して彼と悪巧みができるのだ。
そんな風に話がまとまりかけたところで、レアが控えめに手を上げた。
「あの、一つよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「イベントの同行者についてですが……ラウラリア様は、どなたをお連れになる予定でしょうか?」
そう、そこが次の問題だった。
イベント概要には、従魔または仲間NPCを一人まで同行可能とある。つまり、単独参加ではない選択肢がある。
そして私には、候補がいくつか存在する。
レア。マルコス。ラニア。場合によっては屋敷にいる戦闘職の誰か。あるいは、そもそも連れて行かないという選択肢。
だけど、どれも簡単ではない。
レアは優秀だ。妖精についての知識もある。事務能力もあるし、私への忠誠も高いだろう。だけど、彼女には赤の塔の財政管理を任せたい。
マルコスはおそらく非常に頼りになる。だが、執事長をイベントに連れて行くというのは、屋敷運営上どうなのか。ラニアも同様だ。
しかも、妖精の国がどのような場所かわからない以上、戦闘力だけでは判断できない。
「それなんですよね」
私は椅子に深く座り直した。
「正直、かなり悩んでいます」
「レアは?」
カイが言う。
レアが一瞬だけ期待したようにこちらを見た。だが、その表情はすぐに仕事の顔へ戻る。自分が残るべきだと理解しているのだろう。私はその聡さに少しだけ感心しながら、ゆっくり首を振った。
「レアには赤の塔を任せたいです」
「ですよね」
彼女は少し残念そうに、しかしきちんと頷いた。
「承知いたしました。留守中の管理や交渉は必ず務めます」
「頼りにしています」
「はい!」
返事が明るい。少しだけ寂しそうなのに、それでも嬉しそうでもある。
こういう反応を見ると、つい撫でたくなっちゃうな。いや、しないけど。さすがに今はしない。カイにまた性格悪いと言われる未来が見える。
「じゃあ誰だ?」
カイが問う。
「戦闘職の誰か?」
「それもありですが、妖精相手に戦闘力だけで選ぶのは不安ですね」
「交渉とかいるもんな」
「ええ。むしろ、言葉を扱える人が欲しい」
「マルコス?」
「強そうですけど、屋敷を空けさせるのはちょっと」
「ラニア?」
「同じく」
「父上」
「論外」
「即答かよ」
「父上をイベントに同行させるプレイヤー、嫌すぎるでしょう」
「それは見たいけどな」
「やめてください。妖精の国が別の意味で終わります」
カイが吹き出した。レアも小さく肩を震わせている。
いや、本当に冗談じゃない。父上を連れて行ったら、それはもう攻略ではなく視察か侵略である。
妖精の国側がかわいそうかもしれない。いや、妖精も妖精で厄介そうだから、一概にかわいそうとは言えないけれど。
その時、客室の扉が静かに開いた。
ノックはなかった。
私たちは全員、同時にそちらを見る。
そこに立っていたのは、噂をすれば何とやらだ。
「父上」
「うむ」
父上はいつものように堂々と部屋へ入ってくると、私たちの顔を順に見た。
カイは瞬時に外向けの顔へ切り替わり、レアは直立し、私は自然と背筋を伸ばす。
何というか、この人が入ってくると本当に空気が変わる。
領主というのはこういうものなのだろうか。それともこの人が特別なのだろうか。たぶん両方だ。
「妖精の国の話をしておったな」
「聞こえていましたか」
「屋敷の中で起きている面白そうな話を、わしが知らぬと思うか?」
「思いません」
「よろしい」
よろしいんだ。
私は少しだけ苦笑しそうになったが、何とか堪えた。
父上はそのまま私の正面に座る。
完全に話す気だ。しかも、かなり楽しそうな顔をしている。これは絶対に何か知っている顔じゃんか。
「父上は、妖精について何かご存じなのですか?」
「無論じゃ」
「教えていただけますか?」
「よかろう」
バルタザールは口元を緩めた。
「妖精とは面倒で、美しく、腹立たしく、そして利用価値のある連中じゃ」
……うわ、酷い言い草だな。
私は少しだけ身を乗り出した。




