第13話 三毛猫とのやり取り
意識がふっと浮かび上がるような感覚とともに、私はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の天井だ。
ゲームの中で見ていた、あの重厚な天蓋でも、淡い燭台の明かりでもない。白くて、少し味気なくて、でも確かに現実のそれだとわかる天井。
「……あー」
喉の奥から、なんとも言えない気の抜けた声が漏れた。
バイザーを通して切り替わるVRのログアウト自体は、別に初めてではない。動画やレビューでも何度も見ていたし、没入型VRの終了後に多少の違和感が残ることも知識としては知っている。
けれど、実際に体験してみると、知っているのと実感するのとでは全然違った。
まず、身体が軽い。
いや、正確には軽いというより、小さいに近いかもしれない。
ゲームの中での私は、ラウラリア・ラ・ヘルとして、明らかに今の現実の身体よりも背が高く、手足の長い、完成された「異国風王子様」の身体を持っていた。しかも途中で種族進化までしているものだから、単純な身長差だけでなく、姿勢の取り方、重心の位置、視界の高さ、指先まで含めた全身の感覚がかなり変わっていたのだ。
それが一気に、元に戻る。
ベッドに横たわった自分の身体は、当然ながら見慣れているはずなのに、いまは少しだけ収まりが悪い。
肩幅。腕の長さ。足の位置。髪が頬に当たる感触。
どれも自分のもののはずなのに、さっきまで使っていた身体の情報がまだ脳に残っているせいで、ほんの少しだけズレた衣装を着ているみたいな違和感があった。
「……これ、慣れるのかな」
ぽつりと呟きながら、私はゆっくり起き上がる。
首を回し、肩を動かし、手を開いたり閉じたりしてみる。
うん、動く。当たり前だけど動く。
でもやっぱり、ラウラリアの身体に比べると、少しだけ現実側の情報量が少ない気がする。
もちろんリアルの身体なんだから、感覚が鈍いとかそういう話ではない。ただ、向こうの世界があまりにも現実として完成しすぎていたのだ。
石畳の感触も、衣服の重みも、青い血を飲んだ時の熱も、なんなら天幕付きのベッドの沈み込みまで鮮明に思い出せる。
……いや、本当にすごいなDHO。
そこまで考えたところで、机の上に置いていたスマホが、ぶるぶると小刻みに震えているのに気づいた。
「ん?」
手を伸ばして画面を覗き込んだ瞬間、私は思わず一度まばたきした。
通知がすごい。
メッセージアプリのアイコンの上に表示された未読件数が、軽く笑えない数字になっている。しかも全部、例の三毛猫アイコンからだった。
「うわ」
思わず素の声が出た。
通知欄をざっと見ただけでも、
[生きてる?]
[おーーい]
[ラウラ??]
[もしかしてVR酔いした?]
[返事しろーーーー]
[え、何かあった?逆に怖いんだけど]
[今どこ??まさかもう死んだ???]
みたいなメッセージがずらっと並んでいる。
いや、まあうん。そうなるか。
私はスマホを持ったまま、ほんの少しだけ遠い目になった。
そういえば。本当にそういえば、なんだけど。
このゲーム、もともとはこいつに誘われて始めたんだった。
一緒にやろうよ、バイザーあげるからさ、ってあれこれ言われて、そこそこ気軽な気持ちでログインして、最初はちゃんと一緒に遊ぶ前提でいたはずなのに。
情報量が濃すぎたんだ……。
そして濃すぎるせいで、最初の友達と合流する予定という、ごく普通のスタート地点が綺麗に脳の外へ押し出されていた。
「……忘れてたな」
とりあえずメッセージアプリを開く。
未読の海が表示され、同時に最後のメッセージへ自動で飛ぶ。
そこで私は一度息を整えてから、既読をつけた。
その瞬間。
ほぼ間を置かずに、新しい吹き出しが飛んできた。
[なんで返事しないんだよ????]
「うわ、いた」
しかも待機してたなこれ。続けてさらに飛んでくる。
[いや普通に心配したんだけど!?]
[初回ログインで十時間近く無反応って何!?]
[メンヘラ彼女でももうちょい我慢するぞ??]
[っていうかヘルまで爆速で来たんだけど??]
[なんか言えよ!!!!]
圧がすごい。すごいけどちょっと面白い。
私は思わず口元を緩めながら、ベッドの端に腰掛け直し、スマホへ文字を打ち込む。
[ごめんごめん、生きてる。めちゃくちゃ濃いことになってたから]
[濃いことってなんだよ]
[いや、なんかNPCのイベントシナリオ踏んだっぽくて]
[踏んだっぽくて?]
[気づいたらずっとそっちやってた]
[は???]
返事が早い。
おそらくずっとアプリを開いたまま待機していたのだろう。暇なのか、というツッコミは一瞬浮かんだが、まあ初日だし、こいつのテンションなら普通にありえる。
私は少しだけ考えた。
どこまで話すか。
今日あったことをそのまま全部言うのは、さすがに避けたい。
別に三毛猫を信用していないわけではないけれど、領主の養子になったとか、貴族になったとか、高位種族になったとか、そのへんはゲーム的にもかなりレア寄りの情報な気がする。
少なくとも、初日で迂闊にベラベラ共有していい内容ではない気がした。
それに、なんとなく。
まだこれは、自分の中で咀嚼しておきたい。
ラウラリア・ラ・ヘルになったこともその立場もその先のルートも、今はまだ私だけが知っている状態で少し抱えていたかった。
なので私は、かなりぼかした。
[路地裏で倒れてるNPC見つけてさ。助けたらそのままイベント始まって]
[なんかその流れで専用っぽいシナリオ入ったから。今たぶん普通のプレイヤールートから外れてる]
送信した瞬間、三毛猫からの返信が一拍遅れた。
次に飛んできたのは、予想通りの一文だった。
[……流石ラウラ]
その後に、さらに続く。
[ほんと変なことに当たるの上手いよな]
[褒めてる?]
[七割くらい褒めてる]
[残り三割は?]
[なんで初日にそうなるんだよっていう呆れ]
私は小さく笑いながら返す。
[こっちだって好きで踏んだわけじゃないんだけど]
[いやちょっと好きで踏んでるだろ]
[それは否定しない]
[だろうな……]
画面越しに、三毛猫が頭を抱えている様子がなんとなく想像できた。
[で、今どこまで進んでんの?]
[まだ詳しくは言えないけど……しばらくはそのイベントで拘束されそう]
[あー]
[だから今すぐ合流は無理かも]
[マジかー……]
その後に、しょんぼりした顔のスタンプがぽんと送られてきた。
妙に丸っこい猫のキャラが、耳までしなしなに萎れている。
私はそれを見て、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
だって三毛猫、たぶん本当に急いで来てくれたんだろう。
ヘルまで爆速で来たというのも、誇張ではなく本当にそうなのだと思う。初日から友達と合流して一緒に遊ぶ気満々で、しかもこっちを誘った側なんだから当然といえば当然だ。
[いや、でもさ]
三毛猫からメッセージが続く。
[ラウラがそういう専用シナリオっぽいの引いたの、正直ちょっと笑う]
[褒めてるのか呆れてるのかどっちかにして]
[両方だよ]
[最低]
[最高って言え]
そこで少しだけ間が空いてから、今度は少し真面目な調子の文が来た。
[つーか、イベント踏んでるなら仕方ないわ。ヘル専用の隠しフラグとかも普通にありそうだし、下手にこっち優先して潰したらもったいないだろ]
[珍しくまともなこと言うね]
[珍しくは余計な]
[でもありがと]
[その代わりあとで話せる範囲で報告しろ]
[うーん]
[あ、今の間なんだ]
[いや、どこまで話せるかなって]
[全部は無理でも雰囲気は教えろ]
[善処します]
[政治家みたいな返しすんな]
部屋はもう静かで、外もすっかり夜更けの空気だ。
時計を見ると、時刻はとっくに深夜を回っていた。
「……1時」
思わず声に出してしまう。
VRに入っていた時間と、そのあとメッセージを返していた時間を考えれば当然なのだが、数字で見るとさすがに遅い。学校のある日だったらまあまあまずい時間だ。
しかも今日は、現実時間で言えば5時間だけど、ゲームの中では十時間近く、ほぼぶっ通しで高密度な体験をしている。
疲れていないわけがない。
実際、いまこうしてスマホを見ているだけでも、眠気がじわじわと首の後ろにまとわりついてきていた。
[ごめん、もう寝る]
[え、もう?]
[もうっていうか深夜一時]
[あ]
[流石に寝る]
[それはそう]
[明日……ていうか今日はわかんないけど。明日には何とかフレンドに会えないか試してみる]
[おっ、マジ?]
[多分、今のイベントの拘束次第]
[なるほどなー……]
それから少しして、三毛猫はこう送ってきた。
[じゃあ待つわ、無理すんなよ。初日で飛ばしすぎだろお前]
[自覚はある]
[あと変なNPCに何かされるなよ。プレイヤーもそうだけど、NPCにも変なことする奴はいるから]
そこで私の指が、ほんの一瞬止まった。
……するどいな?
いや、もちろん冗談だろう。ただの変なイベントに巻き込まれるなよの延長線上の雑な言い回しだ。本人にそんな確信はないはずだし、あるわけがない。
でもタイミングがタイミングすぎて、ちょっとだけ心臓に悪い。
私は一秒ほど黙ってから、できるだけ自然に返す。
[何それ]
[いやなんとなくお前ならやりかねないなって]
[失礼だな]
[否定しろよ]
[じゃあおやすみ]
[逃げた!!]
[おやすみ]
「おい!!寝ろよ!!!!]
[三毛猫もね]
[おやすみラウラ]
[はいはいおやすみ三毛猫]
最後に、今度は穏やかに眠っている猫のスタンプが送られてきた。
それを見届けてから、私はスマホの画面をそっと伏せる。
部屋は急に静かになって、私はベッドへ身体を横たえた。
さっきログアウトしたばかりなのに、もう一度眠る準備をするというのは少し変な感覚だ。異界の眠りから戻ってきて、今度は現実の眠りにつく。
二重構造みたいで、なんだか可笑しい。
けれど身体は正直で、布団に入った瞬間、重たい眠気が一気に押し寄せてきた。
スマホの画面にはもう新しい通知は来ていない。三毛猫も、さすがに寝るつもりなのだろう。
私は枕に頬を埋めながら、ぼんやりと明日のことを考える。
いや、もう今日か。時間的には完全に今日だ。
学校に行って、帰ってきて、またログインするのか。
ログインした先で、ラウラリア・ラ・ヘルとしての続きが待っているのか。バルタザールは、今度は何を教えようとしてくるのか。
そして、明後日くらいには本当に三毛猫と会えるのか。
考えることは山ほどある。
けれど、どれも嫌ではなかった。
むしろ、楽しみだ。
「……明日じゃなくて、今日も、明後日も面白そう」
そう小さく呟いて、私は目を閉じる。
ラウラリア・ラ・ヘルとしての一日目は終わった。
そして、麗としての一日も、ようやく終わる。
現実の眠気に意識を引かれながら最後に頭の中へ浮かんだのは、青の滲んだ琥珀色の瞳をした、鏡の中のもう一人の自分の顔だった。
その姿をぼんやり思い出しながら、私は今度こそ深い眠りへと落ちていった。




