044.滲む異変
やって来た異変は、目に見えるものだった。
年が変わる前の買い物帰り。御用伺いを兼ねて寄った北の薬屋では、相変わらず孫娘のマーガレットが店番をしていた。
冬だというのに静か過ぎる店内。マーガレットはいつも通りの平静を装っているが、カップに茶を注ぐその手元は何処か荒い。
クレールは礼を言うと、冷えた指先をカップに沿わせた。途端、指先から広がる熱が、胸中に巣食っていた凍て付きを自覚させる。
「……ねえ、喪に付している家が多くない?」
ぽつりと零れたクレールのわだかまりに、祖母の若い頃とよく似た目元に翳が落ちる。普段なら年頃の娘らしく蜜紅を乗せている唇から漏れる声は、幾分も苦々しい。
「そりゃ、変な病気が流行っているからね……うちのおばあちゃんも、冬を越えられるかわからないって言われてる」
「オリーヴィエが……?」
誰よりも健康に気を払っている老婦人が伏せっているということが信じられず、クレールは目を丸くした。だが街のあちらこちらで黒い旗が上がっている最中にする冗談ではないと、すぐに口を引き結ぶ。
「最初は感染病かと思ったんだ。観光客が多く出入りしていた雪祭り後から流行り始めたから。でも感染病にしては可笑しいんだよ。家で罹患しているのは、今のところおばあちゃんだけだし。隣の家も、奥さんだけが伏せっている。他の家族は今のところ問題なく動けていて……でもどの区も満遍なく患者が出ている」
「そうなの?」
「城の治療士が寄越して来た連絡も似たようなものなんだ。間違いない……うちの区は、他よりちょっと患者が多いらしいけれど」
言いながらマーガレットは、書付を行っている。ちらりと見えた紙面に書かれていたのは、この近所に住むマーガレットと同じ歳の娘の名と過去の薬歴、そして今日の日付が入った処方記録だ。
「何か、必要な薬草はある?」
静謐の森に入れる唯一への窓口は、この薬屋が担っている。もし効能が高い森の薬草が必要なら、依頼が集まっている筈だ。
雪祭りの終わったこの時期は背丈よりも高く積もっている場所があるが、街の人間が必要とするのならやぶさかではない。寧ろクレールにしか森の奥に入れないのだ、喜んで薬草を取って来よう。
灰青の双眸に浮かぶあまりにも真っ直ぐな真摯に、マーガレットは息を呑んだ。だがすぐに我に返ると、共有されていた街中の在庫状況に目を滑らせる。
「今は……魔術師様が早くから在庫を気にして下さっていたお蔭で、城も薬屋も治療所も解熱剤や鎮静剤の類は足りてるって。うちも今のところは間に合ってる」
「そう」
薬が足りているというのはいいことだというのに、少しだけの寂寥がクレールの胸中を過る。
肩を落としてちみちみと茶を啜る少女に、マーガレットは訝しさで首を傾げた。だがすぐに奇病を不安がっているのだろうと、己を納得させる。
「魔術師様と言えば、彼、雪祭りよりも前には王都から色々な薬を取り寄せていたらしいね」
「え?」
急に出て来た地名にクレールが聞き返そうと身を乗り出したその時、背後から鈴の音が聞こえた。
「こんにちは、マーガレット」
「こんにちは。今日はどうされました?」
覇気のない顔をした女は、近所に住む若い母親だ。他の住民たちと同じく白蛇を苦手とする彼女は、店内にいたクレールに気付いてぎょっとした。
だがすぐに沈痛な面持ちが露わになり、縋る目でマーガレットを見つめる。
「解熱剤がもうなくなりそうなの。まだ次の診察までは日があるのだけれど、他のお薬も一緒に追加をお願いできないかしら?」
「お子さんの分でしたね。ちょっとお待ちください」
マーガレットは書付を棚に片付けると、店の奥に下がっていく。
となると、残されるのはクレールと、彼女を苦手とする若い母親だけだ。
クレールは恐る恐ると言った体で伺って来る女に、持っていたカップを掲げて見せた。
「飲む? いくら近所とはいえ、外は寒かったでしょう?」
「い、いえ……薬を貰ったら、すぐに帰るから」
固い声音の女は、戻って来たマーガレットに気付くとあからさまに息を吐いた。それに気付かない振りをして、クレールはカップに口を付ける。
「はい。取り敢えず、前回と同じく五日分。解熱剤と、魔術師様が作られた症状を遅らせるお薬です。わかっていると思いますが、どちらも子供には強い薬なので痛がってもちゃんと間隔を開けて下さい。空腹時もできるだけ避けて」
「ええ、ええ。わかっています」
宝物を扱うような手付きで薬を受け取った母親は、ふと声を潜めさせた。
「治癒所は隣の区ももういっぱいらしいわよ。それで大通りの角のところに住んでいるアル君は、城で治療を受けているのですって……うちの子も城にお願いしたいのだけれど」
「城の治療室ももう重症患者でいっぱいだそうですよ。今広間も客室も患者用に変えているって」
そんな会話を聞きながら、クレールは薬屋を後にした。
奇病が流行っている。内臓から身体を焼き、全身を焦がす可笑しな病が。
現在治癒所にかかっている患者数は、街全体から見れば例年の風邪と変わらない程度。だが実際の罹患者はそれよりもずっと多いだろう。
何せただの風邪だと思っていたものがそうではないと気付いた頃には、既に内臓のいくらかが文字通り炭になっているのだというのだ。
普段のクレールなら、二日連続で街に出ることはしない。それに薬草を取ることしか能がないクレールが治療現場に行ったところで、何かができるとは思えない。
それでも街外れで大人しくしている気にもなれず、クレールは雪の降り荒ぶ中、水晶城を訪ねた。
「城の表側に来るのはいつ以来かしら……」
昨日の若い母親のように、蛇と言葉を交わすクレールを厭う者は多い。だから誰にも見つからないように、できるだけ息を潜めて物陰から城内を伺う。
「二階の治療室が解放された。新しい患者はそちらに運んでくれ」
「五号室に替えのシーツを持って行ってあげて。いくら皮膚がぼろぼろでも、血塗れのシーツよりはましだから……」
「だから薬は今、魔術師様たちが……」
「誰か来て! 患者さんが……!」
行き交う誰も彼もが忙しない。よく見れば政務官の制服を着た者までもが奔走していて、荘厳で優美な水晶城には似付かわしくない喧騒があちらこちらで反響している。
そんな彼らの中に微かに混ざる、焦げた臭い。慣れないそれは、酷く鼻に付く。
「何この臭い……これ、人間の身体からしていい臭いなの……?」
様子を伺うことに集中していたクレールは、だから背後に立った存在に気が付かなかった。
「何こそこそしているんだ?」
「ひゃっ!」
思いがけず跳び上がってしまったクレールが振り返った先、書類の束を抱えたディランが目を眇めて立っていた。




