四.変貌
成人式ですね。朝から妹は、振袖に着替えて髪の毛を整えてもらったりと大忙しです。
虫の鳴き声さえ聞こえず。届くのは時節、吹く風に揺れて奏で合う葉擦れの音。気が遠くなるほど続く鳥居を、行きとは違った意味で重たい溜息を溢した。ワッカ・カムイが再会を願う声がドアの向こうに消えた後、残されたのは耳が痛いまでの沈黙だった。
沈黙に耐え切れなくなったレグルスは、所在なさげに視線を走らせる。つかつかとブーツのかかとを鳴らすリコリスを視界におさめては、うっかり見てしまった肌色の双丘を思い出し、三十度ほど視線を泳がせた。
「なぁ、リコ」
「何かしら。お説教も疑問もついでに言うのなら謝罪もお腹一杯よ。何事も腹八分目が理想だと思うのだけど」
リコリスは今どき珍しい紙媒体の書物に顔を押し付けながら、不機嫌そうに答えた。レグルスは助けを求めるように視線を走らせたものの辺鄙なこの場所には人っ子一人いない。
「なぁ、なぁ、リコ」
ぴょんと木々の隙間から白い毛玉が飛び出した。レグルスは、未確認動物ジャッカロープに似た角の生えた兎を見つめながら、リコリスの背を慌てて追いかける。
「何? 早く心花を助けないとやばいの。口を動かす暇があるなら足を動かしてよ」
リコリスは、鬼への対処法について思考を巡らせるのに忙しく、さっきから変に話しかけてくるレグルスにぶっきらぼうに返答する。
レグルスは、この際、だれでもいいから、リコリスの興味を引ける人間が出てきてくれないかと心の中で叫んだ。神はレグルスを見捨てなかったのか、はたまたリコリスにさらなる試練を与えるためなのか、その人は白いユニフォームを着て現れた。
「そうか。そうだよな。なぁ、なぁ、なぁリコ」
「何よ」
心花を助け出すのにチームワークが必要なのに困難ではいけないと反省し、リコリスは本から顔を上げた。
「あ、あれ……あの人、どっかで見覚えがあるんだけどさ、何て名前の人だっけ。リコ」
「ここに、立ち入れるのはあたしと船長夫妻くらいよ。セキュリティーレベルは高いもの。そうじゃなきゃ、今ごろ、よくて入口まで巻き戻り、最悪丸焼きになっているわよ」
怪訝な声を上げながら、リコリスはレグルスの視線の先にあるものを追う。
「え。ふ、藤、さん?」
その瞬間リコリスの脳位に過ぎ去った感情は何だったのか。なぜ、ただの菓子屋「Angela」の一人息子である藤がこんなところにいるのだろう。
「おや。確か、リコリスさんでしたよね。先日は、せっかく訪ねてくださったのに、何のお役にも立てませんで、すみませんでした」
ハロウィン最終日の今日は、どの菓子屋も稼ぎ時で、大忙しのはずだ。もやっとしたものが胸の中に渦巻いた。腰を軽く浮かせて日常的な挨拶を交わす今の状況に棘のような警戒心を張り巡らせる。
「ああ。どっかで見たことがあるなと思ったら、確かリコと再会した日に『連続失踪事件』の件で尋ねた人だよね。彼は、やっぱり特別な役職に就いた人なのか」
「いいえ」
リコリスは顔を青ざめさせながら、首を振る。許可なき人間にとって殺傷性の高いトラップだらけの空間で平然と笑っている藤にレグルスも顔をこわばらせる。胸の中にどっと冷気が流れ込み、広がっていく。
「今日は、お二人だけなんですね……あ、もしかして、デートだったのかな。邪魔をしてすみません」
何度も軽く頭を下げる藤の首にふと目を奪われる。
「いえいえ。そういえば、藤さんにちょうど聞きたいことがあったんです。藤さんが失踪されていた時に負った傷って、裂傷じゃなくて刺突の痕でしたか?」
「そうだったよ。言っていないのに、よくわかったね」
リコリスはレグルスの腕を取り、相手の胸の中を探りながら会話を進めていく。抜け目のない目で、周囲を探り、認証されていない藤が鳥居の真ん中を無傷でいられるわけを尋ねる。
「藤さんは、どうしてここにいらっしゃるんですか? このようなところに用事でも?」
「あぁ。そうなんだ。とっても大事なお使いなんだ。ねぇ?」
藤は、下方にある何かに同意を求めるように視線を下げた。もふもふとしたぬいぐるみのような愛くるしい兎がいた。その白く美しい毛におおわれた長い二本の耳の間には、金色の角があった。
「―――っ、なんで」
白い兎がぴょんと人の背丈ほど飛び上がり、とてとてとレグルスたちの数歩前で立ち止まると貧乏ゆすりを始めた。




