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第3話 魔剣との契約(上)

「あははっ、見ぃつけたっ♪」


少女の声が、ガラス越しに響く。


その声は、まるで風鈴のように澄んでいた。だが、その響きには生命の温もりが欠けていた。機械仕掛けの音楽箱が奏でる、完璧だが空虚なメロディのような声だった。


次の瞬間——


バリィィィンッ!


窓ガラスが爆発するように砕け散った。


「っ!」


俺は咄嗟にベッドから飛び退いた。強化ガラスの破片が部屋中に降り注ぐ。腕を庇うが、鋭い欠片が頬を掠めた。じわりと血が滲む。痛みが走る。だが、それを感じている余裕はなかった。


その向こうから、桃色の髪をした少女が、まるで舞台に登場する主演女優のように、軽やかに踏み込んできた。


そこにいる彼女の姿は、あまりにも対照的で、現実離れしていた。


春の予感のような淡い桃色の髪、そして汚れ一つない白いワンピース。その極端に華奢な身体は、見た目だけを捉えるならば、世俗の汚れを知らない十代後半の可憐な少女に過ぎない。荒廃した光景の中に立つその姿は、あまりにも非現実的で、幻影のように浮き上がって見えた。陶器の人形が、突如として動き出したかのような違和感があった。


だが、少女を直視した者は、その印象が一瞬で凍りつくのを感じるだろう。


この鮮やかな外見とは裏腹に、少女の瞳は完全に死んでいたのだ。


感情の起伏を示す光も、生への渇望の欠片も、微塵もない。それはまるで、魂を抜き取られた人形の目。底なしの、冷たい虚無が広がり、過去に何があったかを問うことすら許さない。つい先刻、恐るべき殺戮行為を成し遂げたというのに、その透明な瞳は、自らの行為が持つ意味も、そこで失われたものの重さも、一切理解していなかった。


無知で、無垢で、そして恐ろしい兵器。人形が俺を眺めている。


魔剣ルミナス。


D級——序列としては下位に位置する。だが、忘れてはならない。彼女もまた、一千年前にとある魔物の手で鍛え上げられた、正真正銘の魔剣なのだ。生身の人間など、あの小さな指先一つで瞬殺できる。可憐な仕草の裏に、致死的な力が息を潜めている。


「おにぃちゃん」


たった一言。


その瞬間、何かが変わった。白いワンピースを纏い、死んだ瞳を持っていた少女が、わずかに——ほんのわずかに、人間らしい表情を浮かべた。静かな転換点。世界を塗り替える、奇跡のような言葉だった。


「ねえねえ、お兄ちゃん。一緒に遊ぼう?」


無邪気な声。子供が公園で友達を誘うような、屈託のない響き。


だが、唇の端には鮮やかな赤が滲んでいた。


誰のものか——問うまい。知りたくもない。


「ふざけんな!」


叫びながら、俺は桜庭へ視線を走らせた。


彼女はすでに拳銃を構え、躊躇なく引き金を絞っていた。冷静な判断だ。さすがは元軍医、戦場を生き延びてきた人間の反射神経だった。


パン、パン、パンッ!


乾いた銃声が狭いシェルターに響く。硝煙の匂いが鼻をつく。


だが——


弾丸は、ルミナスの手前で不可視の壁に弾かれた。空中で火花が散り、変形した弾頭が床に転がる。


魔力障壁リフレクション・フィールド


当然だ。魔剣に銃弾なんて通用するはずがない。人間の武器など、彼女たちにとっては子供の玩具に過ぎないのだ。


「効かない……!」


桜庭が歯噛みする。彼女の表情に、初めて焦りの色が浮かんだ。


「逃げるわよ、灰坂くん!」


彼女が俺の腕を掴んだ。その手は冷たく、しかし力強かった。


俺たちは部屋を飛び出した。


背後から、少女の笑い声が追いかけてくる。


「待ってよぉ、お兄ちゃん!鬼ごっこ?楽しいねっ!」


ドガァァン!


壁が破壊される轟音。瓦礫が廊下に降り注ぐ。


振り返らない。


振り返ったら、終わりだ。


廊下を走る。足音が不協和音のように響く。


桜庭が先導し、俺が後ろを追う。


息が切れる。喉が焼けるように痛い。


足が重い。まるで鉛を詰め込まれたように動かない。


それでも走るしかない。止まれば死ぬ。それだけは、本能が理解していた。


「こっち!」


桜庭が階段に飛び込む。


上だ。


上に逃げるしかない。


階段を駆け上がる。一段飛ばしで、必死に。


手すりを掴む手が滑る。汗で濡れている。心臓が胸を突き破りそうなほど激しく鼓動している。


「はぁ、はぁ……!」


肺が悲鳴を上げる。酸素が足りない。視界の端が白く滲む。


だが、背後からの足音はさらに近づいてくる。


軽やかな、スキップでもしているような足音。


こいつ——疲れないのか。


いや、そもそも人間じゃないんだ。疲労なんて概念がないのかもしれない。魔力で動く人形に、体力の限界なんてものは存在しない。


「あと少し!」


桜庭が叫ぶ。彼女の声にも、疲労の色が滲んでいた。


屋上への扉が見えた。錆びた金属製の扉。あの向こうは——


あそこまで辿り着ければ——


いや、辿り着いてどうする?


屋上は行き止まりだ。


逃げ場なんてない。


それでも——


「開いてる!」


桜庭が扉を蹴り開けた。古い蝶番が悲鳴を上げる。


夕日が、視界を染める。


血のように赤い空。雲が焼けている。


俺たちは屋上に飛び出した。


そして——


ガチャン。


背後で扉が閉まる。


桜庭が何か金属棒を扉に差し込んだ。簡易的なバリケードだ。こんなもの、数秒ももたないだろう。それでも、やらないよりはマシだった。


「これで……少しは時間が稼げる……」


彼女が荒い息を吐く。額に汗が浮かんでいる。


だが、その目は諦めていなかった。まだ、戦える目だった。


「灰坂くん」


桜庭が俺を見た。その瞳は、いつもの冷静さを取り戻している。


「あなたの刻印……今、どうなってる?」


「刻印?」


俺は自分の左胸に手を当てた。シャツの上からでも、その熱を感じる。


疼いている。


いや、疼いているなんてレベルじゃない。


焼けるように熱い。


まるで、心臓が二つになったような感覚。刻印が、独自の鼓動を始めている。


「近づいてる……魔剣が、近づいてる……」


「やっぱり」


桜庭が頷く。彼女は何かを確信したような表情だった。


「あなたの刻印は、魔剣を引き寄せると同時に——魔剣の魔力を抑制する。でも、それには条件がある」


「条件?」


「粘膜接触よ」


桜庭の瞳が、真剣に俺を見据える。


「体液を介した、直接的な魔力の交換。刻印を通じて、あなたの体内に魔剣の魔力を流し込み、循環させ、支配する」


「体液……?」


「唾液でもいい。血液でもいい。要は、あなたの身体の一部を、彼女の体内に送り込むこと」


桜庭が淡々と説明する。


「魔剣の鞘に精液を注ぎ込んだのと、原理は同じよ。ただし、今回は人型。だから——」


その言葉の意味を理解する前に——


ガンッ!


扉が激しく揺れた。金属が軋む音。


「お兄ちゃぁん、どこぉ?」


少女の声が、扉の向こうから聞こえる。その声は、まだ無邪気なままだった。


「鍵なんて意味ないのにぃ」


ミシミシと、扉が軋む音。金属棒が曲がり始めている。


もう時間がない。


「私が時間を稼ぐわ」


桜庭が銃を構え直した。弾倉を確認し、予備のマガジンを取り出す。


「あなたは——彼女を征服しなさい」


征服。


その言葉が、重く響く。


「桜庭——」


「喋ってる暇があるなら、覚悟を決めなさい」


彼女が俺の言葉を遮る。


「あなたが死んだら、私の研究も終わり。だから——死ぬな。そして、勝て」


それだけ言って、桜庭は扉の方を向いた。背中が、やけに小さく見えた。


そして——


バァンッ!


扉が吹き飛んだ。


金属の破片が宙を舞う。夕日に照らされて、それらはまるで燃える花びらのように舞い散った。


「見ぃつけたっ♪」


ルミナスが、屋上に降り立った。


桃色の髪が風に揺れている。夕陽を受けて、その髪は本物の桜の花びらのように輝いていた。


小柄で華奢な身体。


白いワンピースが夕陽に照らされて、透けて見える。


可愛らしい。


そう形容するのが相応しい外見だった。


だが——


「人間……久しぶり」


その声には、人間にはない冷たさがあった。感情のない、機械的な響き。


「桜庭、逃げろ」


俺は低く言った。


「でも——」


「いいから、逃げろ!」


怒鳴った。


桜庭は一瞬躊躇したが、すぐに踵を返して走り出した。彼女は軍医であって戦闘員じゃない。ここに留まっても足手まといになるだけだ。それを、彼女自身も理解している。


少女——いや、魔剣が、桜庭の背中を見た。


「逃がす」


その言葉と同時に、少女の手が動いた。


空気が歪む。魔力が収束していく様が、陽炎のように見えた。


次の瞬間、桜庭が走っていた通路の床が、爆発したように砕け散った。


「っ!」


桜庭が悲鳴を上げて転倒する。体勢を崩し、コンクリートの床に肩から落ちた。


クソッ。


俺は咄嗟に駆け出した。少女の注意を引くために。


「おい、こっちだ!」


叫びながら、ポケットから小型ナイフを取り出す。折りたたみ式の、刃渡り七センチほどの安物。役に立たないのはわかってる。それでも、何もしないよりはマシだ。


少女の視線が、ゆっくりと俺に向けられた。


「……お兄ちゃんから、変な匂い」


「は?」


「魔剣の匂い……でも、人間。……不思議」


少女が首を傾げる。


その仕草は、本当に無邪気な子供のようだった。だが、その目は死んでいる。感情というものが、完全に欠落している。人間の形をした、美しい殺戮兵器。


「やはりお兄ちゃんも、殺す」


淡々と告げられた。


まるで、今日の夕飯の献立を言うかのように。


少女が一歩、俺に近づいた。


その瞬間——左胸の刻印が、激しく疼いた。


「ぐっ……!」


焼けるような痛み。皮膚の下で何かが蠢いている。刻印が、生き物のように脈打っている。


だが、痛いだけじゃない。何か、別の感覚がある。


引っ張られるような。


吸い込まれるような。


そして——


少女の動きが、止まった。


「……?」


彼女が困惑したように立ち止まる。片足を上げたまま、固まっている。


「おかしい……身体、重い……」


魔力の波動が、明らかに弱まっている。彼女を包んでいた不可視の障壁が、薄れていくのがわかった。


桜庭が言っていた通りだ。この刻印は、魔剣の力を抑制する。


だが、それで勝てるわけじゃない。


弱体化したとはいえ、相手は魔剣だ。俺はただの人間。しかも戦闘経験はほとんどない職人崩れ。ナイフの扱いだって、素人同然だ。


勝ち目なんてない。


それでも——


「死にたくねえんだよ、俺は」


呟いて、ナイフを構えた。


少女が顔を上げる。


その瞳に、初めて感情らしきものが浮かんだ。


興味。


あるいは、好奇心。


「お兄ちゃん……抵抗するの?」


「当たり前だろ」


「意味ない……のに」


「意味があるかどうかは、やってみなきゃわからねえ」


少女が、小さく笑った。


初めて見せた表情だった。それは、壊れた人形が一瞬だけ人間の顔をしたような、不気味で、しかし美しい笑みだった。


「面白い……じゃあ、殺す」


ルミナスの姿が消えた。


いや、違う——速すぎて視認できないだけだ。


「くそっ——」


背後。


本能が警鐘を鳴らす。首筋に鳥肌が立つ。


振り向きざま、ナイフを薙ぎ払った。


キィンッ!


甲高い金属音が響く。


少女の小さな拳が、刃を弾き飛ばしていた。素手で。生身で。


ナイフが手から弾かれ、屋上の端まで飛んでいった。


「遅い」


至近距離。少女の吐息が頬に触れる。薄荷のような、不思議な香り。


次の瞬間——腹部に鈍い衝撃が走った。


「がっ……!」


身体が宙を舞う。


重力が一瞬消える感覚。そして、背中から地面に激突。肺の中の空気が一気に押し出された。呼吸ができない。酸素を求めて喉が痙攣する。


「あなた、弱い……でも」


少女が俺の上に馬乗りになった。


その身体は、見た目通り軽かった。だが、そこから発せられる圧力は、鉄の塊のように重い。


小さな手が、俺の喉元に伸びる。


「匂い……おかしい……気持ち悪い……」


彼女の表情が歪む。


苦しそうだ。まるで、何か毒を飲まされたかのように。


刻印の効果が、さらに強まっているのか。


だが、それでも彼女の手は俺の首を締め上げてくる。華奢な指が、喉仏に食い込む。


「苦しい……でも、殺さなきゃ……命令だから……」


命令?


誰の命令だ?


考える余裕はなかった。


視界が暗くなっていく。酸素が脳に届かない。耳鳴りがする。


このままじゃ、本当に死ぬ。


手が、地面を這う。コンクリートの冷たさを指先が感じる。


何か、何か——


だが、もう武器はない。


ナイフは遠くに飛んでいった。


石も、瓦礫も、手の届く範囲にはない。


俺に残されたものは——


刻印。


左胸で脈打つ、魔剣を支配するための力。


桜庭の言葉が、脳裏に蘇る。


『粘膜接触よ。体液を介した、直接的な魔力の交換』


『唾液でもいい』


唾液。


つまり——


「……ははっ」


俺は、喉を絞められながら、笑った。


まさか、こんな形で使うことになるとは。


「笑ってる……?」


ルミナスが、困惑したように俺を見下ろす。


「死にかけているのに……なんで……?」


「笑いたくもなるさ」


俺は、かすれた声で言った。


「こんな、バカみたいな方法しか残ってないんだからな」


そして——


俺は、残された力を振り絞って、ルミナスの首筋に手を回した。


「っ!何……?」


彼女が動揺する。


だが、その一瞬の隙を、俺は逃さなかった。


引き寄せる。


彼女の顔を、俺の顔に。


そして——


唇を、重ねた。

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