第1話 廃墟に残された男、鞘をオカす
世界が終わる音は、意外と静かだった。
爆音も悲鳴も、もう遠くで止んでいる。俺の周りには死体が転がっているだけで、風が吹けば焼け焦げた匂いが鼻を突く。血の匂いに慣れてしまった自分が、少しだけ怖い。
魔剣――人の姿を取る剣たち。彼女らは美しく、強く、神秘的で、人類の希望だ。
いや、『だった』というべきか。
過去形で語るべき存在に成り果てた。
ある朝を境に、すべての魔剣が狂った。契約者を、隣人を、愛する者たちを殺し始めた。理由は誰にもわからない。ただ世界は崩壊し、人類は絶望の淵に立たされた。
俺はその戦いの生き残りだ。
いや、「生き残った」というのは正確じゃない。「死に損なった」と言うべきだろう。
百人で挑んだ戦闘。生還者は俺一人。それも実力じゃない。偶然だ。たまたま最後の一撃を放つ位置にいただけ。運が良かっただけ。
倒した相手はC級魔剣。
C級。
下から二番目のランク。
それを倒すのに九十九人が命を死に捧げた。いや、「犠牲になった」というべきか。でもそんな美しい言葉で飾りたくない。彼らは死んだ。ただそれだけだ。
「……意味ねえじゃん」
声が震えた。
上位の魔剣はまだ生きている。B級、A級、そしてS級。どいつもこいつも化け物だ。C級相手に全滅寸前だった俺たちが、あいつらに勝てるわけがない。
計算が合わない。
努力が報われない。
正義が勝てない。
それがこの世界の現実だった。
俺は膝をついた。疲労が全身を支配している。魔力の残量はゼロ。体力もほぼない。それでも心臓は無慈悲に鼓動を続けている。
生きているのが苦痛だった。
「もっと楽しんでおけばよかったな」
ぼそりと呟く。
俺の人生は平凡だった。剣を作り、手入れをする職人。時々ダンジョンに潜って小銭を稼ぐ。魔剣に選ばれることもなく、英雄になることもなく、ただ日々を過ごしていた。
貯金をして、いつか車を買おうと思っていた。
遠い将来には家も欲しいと夢見ていた。
才能なんてなかった。努力しても天才の足元にすら届かなかった。それでも、自分なりに頑張ったつもりだった。
――もう全部無駄だ。
視線の先に、倒れた魔剣があった。
人間の姿は消え、ただの剣に戻っている。封印状態。これが彼女の『死体』だ。感情もなければ、魔力もない。ただの金属の塊。
「……そういえば」
ふと、狂った考えが浮かんだ。
魔剣は痛みを感じない。死んでも苦しまない。それなら、せめて――
屈辱を与えてやろう。
復讐なんて大層なものじゃない。ただの八つ当たりだ。それでも、何かしないと気が済まなかった。
鞘を拾い上げる。手に取ると、ずっしりとした重みがある。こいつが女の姿をしていた時の写真を、ポケットから取り出した。作戦会議で使った資料だ。
写真の中の彼女は、息を呑むほど美しかった。
長い金髪、整った顔立ち、豊満な身体。露出度の高い衣装が、その美貌をさらに際立たせている。まるで古い神話に出てくる戦の女神のようだった。
「……綺麗だよな、お前」
皮肉を込めて呟く。
その美しさで、どれだけの人間を惑わせたのか。どれだけの命を奪ったのか。そして今、その完璧な存在は、ただの剣になっている。
ポケットから小さな容器を取り出した。潤滑剤だ。ダンジョンで武器の手入れをする時に使うものだが、今は別の用途がある。
鞘の開口部に、たっぷりと液体を垂らした。
ぬるりとした感触が指に伝わる。
そして――気づいた。
「……温かい?」
鞘の内側は、不思議なほど温かかった。
金属のはずなのに、まるで生き物の粘膜のように吸い付いてくる。
魔力が残留しているのか。
それとも、俺の頭がおかしくなったのか。
耳を澄ませた。
静寂の中で――微かな鼓動が聞こえる気がした。
ドクン。
ドクン。
まるで心臓のように。
「……やめろよ」
誰に言っているのかわからない。
鞘に言っているのか。
自分に言っているのか。
それとも――
「……何やってんだろうな、俺」
自嘲の言葉が漏れる。
それでも手は止まらなかった。
いや、止められなかった。
ズボンのベルトを外し、下着を下ろす。冷たい空気が肌に触れた。
写真を見つめる。
彼女の笑顔を思い浮かべる。
――いや、笑顔なんて見たことない。戦闘中の彼女は、無表情で人を殺していた。感情の欠片もなく、まるで作業をこなすように。
それでも想像する。
もしこれが彼女の身体なら。
もし彼女が屈辱に顔を歪めるなら。
もし彼女が苦しむなら――
「っ……」
下半身が熱を帯びた。理性が否定しても、肉体は正直だった。
自分の浅ましさに吐き気がした。
それでも、止められなかった。
いや、止めたくなかった。
これは復讐だ。
これは、俺に残された唯一の抵抗だ。
肉棒を鞘の入口に当てる。
ぬるりとした感触。
そして――熱。
鞘が、俺を迎え入れるように脈打っている気がした。
幻覚か。
狂気か。
それとも――
ゆっくりと、押し込んだ。
「っ……!」
硬い。
当然だ。金属の筒に肉棒を突っ込んでいるのだから。
潤滑剤がなければ不可能だっただろう。
それでも――
痛みと快感が混ざり合った、奇妙な感覚が全身を駆け巡る。
鞘の内壁が、まるで生きているかのように俺を締め付ける。
ありえない。
これは金属だ。
死んだ魔剣の、ただの抜け殻だ。
なのに――
「くそっ……」
腰を動かし始めた。
ゆっくりと、リズムを刻むように。
パン、パン、という音が静かな廃墟に響く。
写真の彼女を見つめながら、俺は想像を続けた。
これが彼女の身体なら。
これが彼女の内部なら。
これが彼女への復讐なら――
「くそっ……くそっ……!」
涙が出そうになった。
惨めだった。
情けなかった。
仲間が死んだ場所で、俺は剣の鞘をオカしている。
それでも止められない。
腰の動きが速くなる。呼吸が荒くなる。意識が飛びそうになる。
そして――
「あっ……!」
達した。
鞘の中に、熱いものを吐き出した。
全身から力が抜ける。膝が笑う。そのまま地面に座り込んだ。
「……は、は、は」
荒い息が止まらない。
汗が額を伝う。
そして、急速に冷めていく。
賢者タイム、というやつか。
「最低だな、俺」
呟いた声は、誰にも届かない。
鞘を見下ろす。白濁した液体が縁から垂れている。汚い。醜い。そして、何の意味もない。
彼女は死んでいる。
感じることもない。
苦しむこともない。
俺が何をしようと、彼女には何も届かない。
「……意味ねえ」
もう一度呟いて、鞘を横に放り投げた。
乾いた音を立てて、鞘が地面に転がる。
空虚だった。
復讐にもならない。
慰めにもならない。
ただ、自分が少し壊れただけだった。
立ち上がろうとして、よろけた。足に力が入らない。それでも無理やり立ち上がり、服を整える。
やるべきことはある。
死体を片付けなければならない。
報告書を書かなければならない。
次の戦いに備えなければならない。
――次の戦い。
そんなものがあるのか?
C級一体で全滅寸前だったのに、次があると思えるのか?
「……わかんねえよ」
頭を振った。
考えても無駄だ。今は、目の前のことだけを処理しよう。一歩ずつ進むしかない。
荷物をまとめ始めた。使える物資を回収する。武器、防具、回復薬。仲間のポケットから、IDカードを抜き取る。重い。一枚一枚が、命の重さだ。
「すまなかった……」
小さく謝った。
君たちは戦って死んだのに、俺は剣をオカしていた。最低だ。でも、生きてるんだ。俺は生きてる。だから、せめて君たちの分も生きないと。
そう自分に言い聞かせる。
荷物を背負い、廃墟の出口に向かう。
瓦礫を避けながら、慎重に歩を進める。
外に出れば、また地獄が待っている。
魔剣たちが跋扈する世界。
人類が追い詰められた世界。
希望のない世界。
それでも、生きるしかない。
出口が見えてきた。
光が差し込んでいる。
あと少しだ。
あと少しで――
足を止めた。
いや、止めざるを得なかった。
目の前に、誰かが立っていたから。
瓦礫と死体が折り重なった廃墟に、静寂が落ちている。
折れた剣、砕けた統、血に濡れた試器の残骸が、もはや誰の手にも戻らないまま地に散らばっていた。
その中心を割るように、ひとりの存在が歩み出る。
彼女は――何も身に纏っていなかった。
布も、鎧も、守るための装いを一切持たず、ただ裸のまま、廃墟の中に立っている。
肌は生きている人間のそれよりも淡く、冷たい光を受けて、彫像のように静止していた。
血や泥が触れても、それを拒むことも、恥じることもない。
淡い金色の髪が、裸身の輪郭を隠すことなく背に流れ落ち、崩れた街の色彩の中で、そこだけが異様に浮かび上がっている。
そして、彼女の瞳は白い。
感情も、温度も映きない。
人のものとは思えない無な白。
その視線が向けられる先には、すでに倒れ、沈熱した者たちしか存在しない。
武器を持たない彼女の周囲で。
剣も槍も、銃も、まるで意味を失ったかのように横たわっている。
――彼女には、武装も、防御も、必要がないのだと誰もが理解してしまう。
裸であることは、弱さではない。
それは、この場において彼女が「最終形」である証だった。
金の髪、白い瞳、死と廃墟の中に現れたその姿は、人ではなく、世界が選び取った結末そのものだった。
「あ……」
声にならない声が漏れた。
その女性は、俺をじっと見つめていた。
表情は読めない。
ただ、その瞳には何かが宿っていた。
好奇心か。
敵意か。
それとも――
「…………」
彼女は何も言わなかった。
俺も何も言えなかった。
時間が止まったように感じた。
心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
そして彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「――人間」
低く、冷たい声。
それだけで、背筋に氷の柱が突き刺さった。
魔剣だ。
間違いない。
この圧倒的な存在感。
この異質な雰囲気。
人間じゃない。
「たった一人で、よく生き残ったものだ」
彼女が一歩、近づいた。
俺は一歩、後ずさった。
「逃げるのか?戦わないのか?」
「……っ」
逃げられるわけがない。
戦えるわけがない。
俺にはもう、何も残っていない。
魔力も、体力も、武器も、仲間も。
すべて失った。
「面白い匂いがするな」
彼女が鼻を鳴らした。
「血と、汗と……それから」
ぴたりと動きが止まる。
「命を零した後の、濁った匂いだ」
「!」
心臓が跳ねた。
彼女の視線が、俺の股間に向けられる。
「まさか……戦場で、自慰行為を?」
「ち、違――」
言葉が出ない。
喉が渇いている。
頭が真っ白だ。
彼女はゆっくりと、俺の横を通り過ぎた。
そして、廃墟の中を見る。
転がった鞘を見つけた。
「……これは」
彼女が屈んで、鞘を拾い上げる。
白く濁った液体が、まだ乾いていない。
「我が同胞の鞘か」
静かな声。
でも、その奥に何かが潜んでいる。
怒りか。
嫌悪か。
それとも――
「貴様……これに、己が種を放ったのか」
「…………」
答えられない。
否定できない。
事実だから。
沈黙が続く。
彼女は鞘を持ったまま、じっとそれを見つめている。
やがて、小さく笑った。
「ふふ……ははは」
笑い声が廃墟に響く。
低く、冷たく、そして――どこか狂気を孕んだ笑い声。
「愉快だ。実に愉快だ」
彼女が顔を上げた。
その表情には、人間が決して理解できない何かが宿っていた。
「お前の名は?」
「……え?」
突然の質問に、思考が追いつかない。
「名を聞いている。お前の、名前だ」
「……い、灰坂……骸」
「ハイサカ・ムクロ、か」
彼女が俺の名を反芻する。
不思議な感覚だった。まるで、名前を奪われたようだ。
「よかろう。覚えておく」
彼女は鞘を、丁寧に地面に置いた。
そして再び、俺を見る。
「今日は見逃してやろう、ハイサカ・ムクロ」
「な、何……?」
「だが次に会う時は、必ず殺す」
断言だった。
疑いのない、絶対の宣告。
「それまでせいぜい、足掻くがいい」
彼女が指先を僅かに動かした。
それだけで――
ゴオッ!
俺の足元の地面が、音もなく陥没した。
直径三メートルほどの円形の穴。深さは計り知れない。真っ暗な奈落が、ぽっかりと口を開けている。
もし俺があと半歩前に出ていたら、間違いなく落ちていた。
「勘違いするな、人間」
彼女の声が、氷よりも冷たく響く。
「貴様を生かすのは慈悲ではない。ただの気まぐれだ」
一歩、また一歩と、彼女が遠ざかる。
「蟻の行列を跨いで通るようなものだ。踏み潰すのも面倒だから、見逃しただけに過ぎん」
その瞳には、慈愛など欠片もなかった。
憐れみもない。
興味すらも、もう薄れている。
あるのはただ――圧倒的な強者だけが持つ、冷酷な無関心だけだった。
俺は、彼女にとって「虫」なのだ。
生きていようが死んでいようが、どうでもいい存在。
「一つだけ、教えてやる」
振り返らずに、彼女は言った。
「我々が堕落した理由を、お前は知らないだろう」
「…………」
「いずれわかる。そして、絶望するがいい」
足音が遠ざかる。
やがて、完全に消えた。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
膝が笑っている。
呼吸が荒い。
全身が汗でびっしょりだ。
「……生き、残った……?」
信じられない。
なぜ見逃された?
なぜ殺されなかった?
答えはわからない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
俺はまだ生きている。
そして――
「また会うのか……」
彼女の顔が脳裏に焼き付いている。
金色の髪。
冷たい瞳。
圧倒的な存在感。
美しくて、恐ろしくて、そして――
「くそ……くそっ……!」
叫んだ。
誰にも聞こえない叫び。
それでも叫ばずにはいられなかった。
世界は狂っている。
俺も狂っている。
すべてが狂っている。
それでも、生きるしかない。
足を動かした。
一歩、また一歩。
外へ。
光の方へ。
地獄の続きへ。
そして俺は知らなかった。
これが、すべての始まりだということを――




