教会のお仕事
自由都市の中央に立つ教会の朝は、石造りの聖堂に差し込む柔らかな光と規則正しい箒の音で始まる。
神殿勢力に所属して二年、治癒術師として自由都市に配属されて半年になる少女リリィは、心地よい寝具の中でゆっくりと瞬きをした。
階下からは、すでに見習いや神学校の生徒たちが冷たい水に手を赤くしながら廊下を磨いているであろう音が聞こえてくる。
「みんな、朝早くから大変だなぁ……」
ぽやぽやした様子でリリィは他人事のようにそう呟くと、両手を上に伸ばし小さく欠伸をした。
治癒魔法を使える者は稀少だ。 小さな村の教会などでは一人もいないことも多い。 五百人に一人しかいない魔法使いの中でも、数人に一人しか治癒魔法の適性がないことを考えれば、その希少性は明らかであろう。
その「才能」一つで、彼女は聖堂を洗い清めている彼らのような雑用を免除され、特権階級として扱われている。 もっとも、リリィ本人にそのような自覚はなく、ただ「魔法が使えてラッキーだった」くらいにしか思っていないが。
与えられた個室に据え付けられた鏡の前で聖職者としての身だしなみを整え、食堂で温かいスープとパンを胃に収めると彼女の「勤務」が始まる。
だが、リリィには最近、どうしても拭いきれない困惑があった。
(……今日も、またこれだわ)
目の前のデスクに積まれているのは、病人のカルテではない。 羊皮紙にびっしりと書かれた、商取引の「魔法契約」依頼書だった。
かつて王都の神学校で研修を受けていた頃は、朝から晩まで切り傷や病に伏せる人々への治癒魔法で忙殺されていた。 しかし、この自由都市に来てからはどうだろう。
治癒の仕事もちらほらとはあるものの、契約書の真正を証明し、スケジュールを定めて契約主に魔法を施す。 リリィ本来の管轄ではない契約魔法や識別魔法の仕事が圧倒的に多かった。
午前の仕事が終わり昼食後の休憩時間、中庭のベンチでリリィがそんな疑問を反芻していると、教会の主である老司祭がゆっくりとこちらに歩いてきた。 司祭は儀式などの重要な業務がないときには、こうして教会内を問題がないか確認して回るのが常だった。
「どうした、リリィ。そんな浮かない顔をして」
「あ、司祭様! お疲れ様です。……いえ、その、別に何か支障があるわけではないのです。業務は順調なのですが……。ただ、少し不思議に思うことがありまして」
リリィは素直に、王都時代との「仕事内容の差」について尋ねた。 なぜこれほどまでに、治癒の依頼が減り、事務仕事が増えたのか。
老司祭は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、サージョ・コメルツォのある方角を指差した。
「それはな、あそこの『サトシ殿』が売り出した酒精によるものだね」
「酒精……あのお酒の、すごく強いやつですか?」
「そうだ。もともと貴族の多い王都と違って、ここでは高額な治療を受ける人が少なかった。そのうえ、あれを薄めて傷口を洗い、器具を清める。それだけで、かつては手遅れになったような化膿も驚くほど抑えられるようになった。街の薬師が作る薬の純度も上がり、不純物も減った。だから庶民が重病にかかる前に治ることが増えてね、ここに来るのは一部の大商人やよっぽどの怪我をしたときくらいになった」
リリィの瞳が輝いた。
「それは素晴らしいことです! 病気で苦しむ人が減ったのですね」
だが、彼女はすぐに何かに気づいた様子で不安そうに眉を下げた。
「でも……そうなると、教会の、いえ私たちの存在意義というか、……お仕事がなくなってしまうのではないでしょうか?」
司祭はクスクスと喉を鳴らして笑った。
「案ずるな。病が減った代わりに、あのサージョは『信用』という新しい熱病を街に流行らせた。今や商売をするには魔法契約が不可欠だ。証書の真正、取引の保証……教会の権威による『証明』の依頼数は、以前の数倍に伸びておる。……ここだけの話だがな、おかげで教会の蔵は金貨でパンパンなのだよ。酒精による減収など、とうに埋め合わせている」
「増収……なんですね」
リリィは呆気に取られた。 サトシという男は、病を減らす一方で、教会を「神の家」から「治療院兼公証役場」へと変質させてしまったというのだ。
「だがな、リリィ。世の中がどれほど便利になろうと、酒精で治せぬ心の傷や、数字では測れぬ不安を抱えた時、庶民が最後に頼るのは我々だ。仕事が変わっても、奉仕の精神と祈りだけは忘れるでないぞ」
「はい、司祭様!」
リリィは元気よく応えると、再び積み上がった「契約書」の山に向き合うべく、軽やかな足取りで執務室へ戻っていった。
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