第二節 太守の祐筆
太守との謁見はものの数分、形式的な挨拶に終始した。
なんと言っても相手は東方帝国八君侯が第三席チケー・テアノス・ロコギ・キナダヤムその人である。太守というのは元来地方長官に過ぎない役職なのだが、聖地統治を任される彼はそもそもの位が違う。リンタルティ藩国の藩主、すなわち王なのだ。
エフォンマリンド帝国というのは帝都センポロフリ、ベルトランドゥル大藩国を筆頭に、これら藩国がおよそ四十余国も連なっている。つまり、皇帝はそれだけの王を従える存在なのだ。これに匹敵する権威となると、世界には西方ヴァイゼーブルヌ神聖同盟の総主教唯一人である。
そんな東方皇帝の親族が十人ばかり一斉に亡くなるようなことになれば、太守チケー・テアノスに帝冠が回ってくるというのだから、その偉さも知れよう。
そんなわけで、太守と対等に話をしようと思うのなら、エルヌコンス王セルイス五世を連れて来なければならない。故に、侯女プラニエや国交のほぼないグリシエヴ王女エウロディーデル程度では軽くあしらわれてしまった。
さらに後には、高額納税者らしき豪商たちが列を作っている。太守やその取り巻きたちは、むしろ彼らを優先させるべく、一行をすぐに下がらせた。なにせ、彼らは山のような貢ぎ物を持参しているのだから。
「閣下! ここに父上――父王からの親書が!」
と、エウロデューデルが声をあげるも、衛兵によってそそくさと脇へ追いやられてしまった。
「皆も何か言ったらどうなのかえ!?」
「うるさい、馬鹿」
大人しく従う他七名にも素直な怒りをぶつける王女に対し、リツカがぴしゃり。
「な、なな!? ば、ばかぁ? いま、妾を馬鹿と申したのか?」
当然のことながら、一国の王女であるエウロデューデルはそのような暴言とは無縁に生きてきた。馬鹿などと言われたのは生まれて初めてのことだ。うるさいだけなら、癇癪持ちの母に度々言われていたが。
「アンタちょっと黙ってなさい。これからが本番なんだから」
「いいや、黙らんぞえ! グリシエヴ第三王女たる妾に何たる罵詈か! 家臣さえおればこの場で無礼討ちにしてくれるところ、じゃ――本番? これからが?」
わっと声を荒げたエウロデューデルだったが、突然大人しくなった。リツカの言葉の端々が気になったし、他の誰もが現状を当然のように受け止めていたからだ。
リツカの眼鏡の奥――ただでさえ冷たい瞳が冷酷に見下す。
「まさか、太守と直談判できるとでも思ってたわけ?」
思っていた。当然そう思っていた。エウロデューデルだけは。
「ち、違うのかえ……?」
素直に訊いてしまった。
「最初からこちらの狙いは別……ほら来た」
リツカが顎で廊下の先を示した。そこには従者ひとりを従えた東方人の男。全身を覆う東洋風の身なりだが、金糸銀糸の刺繍が眩しく、貴族であることがわかる。
「皆様、少々よろしいでしょうか?」
東方人は柔和な笑顔を浮かべて、一行を誘った。
案内されたのは城内の一室。
西方や回廊諸国の灰色の石造りと違い、東方様式は砂色の石造り。壁掛けや絨毯も異国情緒溢れている。
それにもかかわらず、一行が入るまで無人だった城内の小部屋を見て、リツカはあの日を思い出してしまった。
エルヌコンス王都コンセーヴの王城。太陽の間から案内された城内の別室。
リツカはそこでプラニエの父――クロンヌヴィル侯爵ジュリアル・ダルタン・ランサミュラン=ブリュシモールから、彼女を託された。
その彼女はいま傍らに立ち、共に帝国相手にやり合おうとしている。
「聖地サントゥアンにようこそお越しくださいました」
一同が席に着くのを待って、東方人貴族は深々と頭を下げた。
役者のような端正な顔立ち。中年と呼ぶにはまだまだ早く、東方人らしく髪も黒々としている。よく焼けた肌には瑞々しさすら感じられた。
そして、眼を細めた笑顔。穏やかすぎて嘘くさいほどの。
「わたくし、太守閣下の官房長を相務めますインギリジ・アママレインゴ・ワキモイ・マトルと申します。以後、お見知りおきを」
再び、男は頭を垂れた。
「これは失礼を! 余は――」
「プラニエ・ファヌー・ランサミュラン=ブリュシモール様でいらっしゃいますね? 大丈夫です。存じ上げております故」
慌ててまたぞろ名乗ろうとしたプラニエをインギリジ・アママレインゴは制した。
「そちらが、エウロデューデル・クセン・キペットリア・グリシエヴ殿下。そちらが、リツカ・ヒューゲリェン殿」
従者たるルードロン、リック、ソワーヴ翁、ララ、ベリスカージを除き、インギリジ・アママレインゴは三人の名前を把握していた。敬称も正しく、身分も承知の様子。数分で終わった先ほどの謁見をしっかりと覚えているなど、並の役人ではあるまい。
事実、西方や回廊にはない官房という役所は政務全般に携わる。その長ともなれば、この場合は言うなればサントゥアン政庁の行政長官であり、エルヌコンスで言えば王の書記官長と紋章官を兼ね、さらに全国の代官を束ねるような高官である。
「なるほど。そちらはマトル藩主ワキモイ家の五男でいらっしゃるわけね」
リツカが言い放つと、インギリジ・アママレインゴは細い眼を開いた。
「おや、東方古語を解し、我が故郷のような小国をご存じとは北方人にしてはお珍しい」
「そちらこそ、回廊、西方、北方の名を覚え、すらすらと発音できるなんて東方人にしては珍しいことで」
プラニエは回廊人、エウロデューデルは西方人、リツカは北方人。そして、インギリジ・アママレインゴは東方人。実に国際色豊かな会談である。
それだのに、リツカの言葉が鋭さを帯びているせいで室内が少しひんやりとした。
「ははははっ! これはこれは、褒められているのか、腹の内を探らんとなさっているのか、わかりませんね! はははっ!」
大仰に手を叩き、インギリジ・アママレインゴは大笑いした。芝居がかったわざとらしさを残したまま。
「いえいえ、手前味噌で申し訳ありませんが、これでも太守の祐筆などと呼ばれることもありますもので。これくらいのことはできませんと、方々に申し訳が立たないというもの」
太守に代わり国際都市サントゥアンの政務を担う優秀な人材なのだろう。下手に出てはいるが、食えぬ男だとリツカは確信した。
「さてさて、皆様のご用件、多忙なる太守閣下に代わりまして、わたくしがお伺い致そうと思い、このような場を設けさせていただいたわけにございますが――」
詩人か講談師のように舌の回る男である。すらすらと話を続けた。
「――殿下、如何なさいます?」
そして、ぴしっと質問で終える。
「え? あ、ああ、妾か」
そも用件があるのはグリシエヴの使者たるエウロデューデルだ。
「う、うむ。それではそこもとに頼むとするかの」
「お待ちください、殿下」
懐から親書を取り出そうとするエウロデューデルをプラニエが止めた。リツカの目配せを受けての、予定通りの茶番である。
「な、なんじゃ?」
もちろん、エウロデューデルの知らない台本だ。
「それは皇帝陛下への親書でございましょう? その代理の太守閣下ならまだしも、そのさらなる代理に託すのは如何かと存じます。この部屋は公の場でもございませんし」
「む、むむむ! それもそうじゃが……」
悩んでしまうエウロデューデル。
なにせ、彼女がララと共に遙か西方より運んできたのは父王からエフォンマリンド皇帝への親書であり、西方同盟の攻勢から祖国を救う一矢なのだ。誰に託したらよいのか、幼き王女には判断できない。
「はははっ! 何も今ここでご決断なさることもありますまい」
リツカにとっても意外な言葉だった。この部屋に招いた男――インギリジ・アママレインゴ本人が決断を先送りにしていいと言うのだから。
「おそらく長い船旅の末にサントゥアンへ来訪なされたのでしょう。まずは旅の疲れを癒し、市内を観光して、ごゆるりとなさるとよろしゅうございます。おっと、わたくしとしたことが。まずは落涙大神殿に参拝しなければ天罰が下ってしまいますね。ははははっ!」
べらべらと舌の回る男だ。一体、何を考えているのだろう。否、何を企んでいるのだろうか。
「いやはや、気の利かぬことで申し訳ございませぬ。どうぞ、城外までお送り致しましょう」
結局そのまま、一行はサントゥアン・アンダードラ城から送り出された。強烈にして何も意味を成さない会談のせいもあり、誰もがぽかんと呆けてしまう。
「リツカさん、どういうことです?」
プラニエの不安げな問い。リツカも、その答えを見出せずにいた。
「あの男、何を知っていた? 何か、あたしの知らないことを」
その日、サントゥアン市街に号外が舞った。おそらく、太守の祐筆はそれを知っていて話を引き延ばしたのだろう。
インギリジ・アママレインゴ、食えない男である。
※誤字を修正しました。