第三節 盤上遊戯
西方同盟巡礼軍 回廊北西部で大勝
遂にウランドゥール修道院も同盟加盟か
レアンサブラン王 討死に
囚われの王太子 改宗へ
号外にはレアンサブラン敗退の見出しが躍っていた。アンダードラ城からの帰路、国際市場通りで読み売りがばら撒いていたものである。
「なるほど、レアンサブランが落ちたわけね」
ソワーヴ翁の案内する宿に入るなり、広げた号外を一読してリツカが呟いた。
「太守の祐筆――インギリジ・アママレインゴ、これを知ってのあの態度、か」
巡礼軍の打ったこの一手がどれほどの意味を成すか。太守の官房長はよくわかっていることだろう。
だが、それをまだ理解できていないプラニエは勢い込んだ。
「リツカさん、そんな! まだ王都も健在ですし、これはまだ国境の前哨戦――」
「何を馬鹿な」
リツカがぴしゃり。
「ヴァンサン平野のエルヌコンスとは意味が違うでしょ? それともなに? あんた、文字も読めなくなったわけ?」
「い、いえ、その……」
ここ数ヶ月で身につけつつあった勇ましさも聡明さもどこへやら。顔を青くするプラニエ。その貌の意味するところにリツカも気づいてはいるが、グリシエヴ王女の前で口にするのは躊躇われた。
そのせいか、どうしてもいつもの厳しい口調になってしまう。
「王が死んで嫡子は虜囚。この状態でレアンサブランの騎士が戦えるわけないでしょ? レアンサブランは落ちた。これはもう事実なの」
ため息に続く言葉は出ない。
リツカ自身、いつかレアンサブラン王国が陥落することは読めていた。だが、これほどまでに早く、よりにもよって今この時だとは予想だにしていなかった。なにより、早すぎるのだ。まさか、ウランドゥールの修道僧に千年の中立を捨てさせて迂回路を設けるとは剛毅や大胆というよりも歴史的とさえ言えた。
西方同盟巡礼軍にはよほど優秀な将帥なり軍師がいるらしい。まだ見ぬ対手は一体、どんな奴だろうか? 一度、ヴェーゲ大主教の幕僚名簿を調べてみる必要もあるだろう。
ともあれ、敵は大きな、そして決定的な一手を打ってきた。
「……つ、つまり、どういうことなのじゃ?」
リツカやプラニエがそれぞれ思うところあって押し黙っていると、エウロデューデルがおずおずと訊いた。西国の幼い王女には、まだ回廊地方の地図を思い描くことは難しいのだろう。
子供に説明するなんて面倒臭い。プラニエに答えさせようと思い、リツカは黙ってやり過ごそうとした。だが、いくらそっぽを向いて空惚けても彼女の声は聞こえない。そっと、プラニエの顔を見やる。
プラニエの青い瞳から輝きが失われていた。
やっぱり、この子……。
この場は自分で答えることにした。
「つまり……ひとつ、本来中立であるはずの修道院領を巡礼軍が通行した」
この本当の恐ろしさはレアンサブラン陥落にとどまらないのだが、それは先送りにする。
「ひとつ、それが決め手になって回廊北西のレアンサブラン王国が事実上陥落した」
王都サブラン・トルメジを起点とするロモバールン街道は南東へと伸び、キュイーズ共和国を経由し回廊一番の大国レユニース王国の都タデンピエールへと続く。これを危機と感じて回廊諸国が一致団結して、とでもなればエルヌコンス救国の一手ともなるがそうはいかないだろう。彼らが西方同盟と戦うときは東方帝国と馬を並べたがるに違いないのだ。
そして、現状では帝国にその意思はない。
「……それに、これで南北に分かれていた巡礼軍はいつでも合流できる」
まずはこれが恐ろしい。
「その合流した巡礼軍が真っ先に狙うのは、エルヌコンス王の籠城するマッサブレユ城塞に決まってるわけで――」
そこまで話せばエウロデューデルにも事態の大きさがわかったようだ。
「なん、じゃと……。ならば、貴国の危機ではないかえ、プラニエ殿」
グリシエヴの王女が世にも珍しい赤い瞳をプラニエに向けるも、そのエルヌコンスの騎士の耳に話は届いていないようであった。
「……プラニエ殿?」
返事はない。
訝しむエウロデューデルを遮るように、リツカは一気に話を切り上げた。
「とにかく、これを受けて大勢がどう動くか。特に、太守の祐筆の含みも気になるし。あんたはもう部屋で休みなさい。荷ほどきとかあるでしょ」
「う、うむ……」
エウロデューデルは「あんたとはなんじゃ、殿下と呼ばぬか」などとぶつくさ言いながらも部屋を出た。いろいろと不満はあってもリツカを恐れているのだろう。
一方、ララは無言で、ちらりとプラニエを一瞥。そのまま、エウロデューデルに続いた。やはり、プラニエの尋常ならざる様子に気づいているようだ。
扉が閉まると、部屋にはリツカとプラニエふたりだけ。
宿のこの部屋はリツカの個室であり、プラニエの家臣たち――ふたりの騎士とひとりの老執事もここにはいない。ベリスカージも宿へ着くなりぷらりとどこかへ行ってしまった。
しばしの沈黙。
夕刻になった今も国際都市サントゥアンの喧騒は止むことを知らない。赤い夕日と人々の声が窓から滑り込んで来る。
「リツカさん……」
ぽつりと、プラニエが呟く。
それには応えず、リツカはテーブルの上に大陸中央回廊を中心とした地図を広げた。
南西にはエルヌコンス王国。
本陣を王都コンセーヴに構えたヴェーゲ大主教直率の巡礼軍本隊も今や、ガレアンヌ川の支流パンサローヌ川を渡河し、王国中央のマッサブレユ城塞に迫っている。
リツカは黒軍の王の駒をマッサブレユに、白軍の王の駒をコンセーヴに置いた。
その北には南北ウランド山脈に挟まれたウランドゥール修道院領。
そこを経由した白軍の騎士の駒を、さらに北のレアンサブランへと進める。これが号外の伝えた戦況である。
「こんなの……」
リツカはようやく、応えた。
「いつか来る現実が、早まっただけ」
あえて、現実という単語を用いて。無情にも。
「ドケルサントの飛竜騎士をあれだけ叩いておいたからまだ余裕あるつもりだったけど、別働隊を北ウランド山脈の切通から迂回させるなんて巡礼軍の軍略は……そう、見事って言ってやってもいい」
「……ウランドゥールの修道僧が西方同盟に協力してるのは、間違いないんですよね?」
そこに希望がないことなど、プラニエだって理解している。
「そうでしょうね。武力かカネか、脅しか懐柔か知らないけど、修道院領内を巡礼軍が通行することを認めた」
「南ウランド山脈の切通も……」
「例外なく」
影を伸ばす白軍の騎士の駒をレアンサブランからウランドゥールへ進めるリツカ。しかし、巡礼軍北部兵団がそこに留まるはずはない。または、東進し、アンシュージ王国へ攻め入ってしまうと本隊との連携が取れなくなってしまう。彼らが向かう先、まだ見ぬ軍師が命じる進路はわかりきっている。
リツカは駒に南ウランド山脈を越えさせた。
レアンサブランの国境会戦同様、今度はコンセーヴの本隊とマッサブレユ城塞を挟撃するように進軍する。となれば、進路は自然と東寄りとなる。
そこはプロヴァール川の源流に近い、山間の土地。
地図には小さな文字でクロンヌヴィル侯領と記されている。
クロンヌヴィル侯爵ランサミュラン=ブリュシモール家が代々受け継ぐ領地。
プラニエ・ファヌー・ランサミュラン=ブリュシモールの故郷。
号外を目にしたときリツカはこの恐ろしさまで読み取った。
プラニエだって、本当はわかっていたはずだ。
おそらく、あの有能そうな太守の官房長インギリジ・アママレインゴもクロンヌヴィル侯女の名乗りで気づいたはずだ。
プラニエが、この数ヶ月堪えに堪えてきた弱さを、今なお吐き出すまいとしている。
「国元には、民が、兄が……だって、病弱なのに――」
溢れ出す感情が、少女に文法をなぞらせない。
「……リツカさん、私――」
あとはもう、言葉にならない。
プラニエ・ファヌーが十七の娘ながら、なぜ戦さ場に立つに至ったか。いま少しもう一度触れておこう。
西方同盟巡礼軍の侵攻に対し、若きエルヌコンス王セルイス五世は自身の本陣に武門の名家クロンヌヴィル侯爵家から当主のジュリアル・ダルタン・ランサミュラン=ブリュシモールを招聘した。彼が若かりし頃に挙げた武勲を亡き父王から聞き及んでのことだろう。
そのため、クロンヌヴィル侯爵の軍勢の過半は王と共にあり、エルヌコンス軍本隊を構成している。
だが、エルヌコンス王国を支える大貴族としてそれだけの出兵では済まなかった。侯爵の名代として一個の軍勢を率いる後継者が必要であった。このような場合、常ならば嫡男がそれを担う。
クロンヌヴィル侯ジュリアル・ダルタンにはふたりの子がいる。どちらも老いてからの子であり、若い。兄であり嫡子である侯世子アラヴェル・シンピアンは二十歳。妹のプラニエ・ファヌーは十七歳。
二十歳のアラヴェル・シンピアンは初陣には丁度いい年頃であるが、彼はその期待に応えることができなかった。生まれながらに病弱なのだ。
幼い頃から今も、クロンヌヴィル侯領城館の病床から起き上がることさえ稀であり、無理をすれば熱で倒れてしまう。
そこで侯爵の名代として一軍の大将となったのが、プラニエ・ファヌーである。出陣式に集った家臣や領民の中には晴れの出征だというのに、不憫な姫君のために涙を流す者もいた。無理を押して正門まで見送った兄アラヴェル・シンピアンは、妹の背中に向けていつまでも「すまない」と呟いていたという。
彼女の初陣となったヴァンサン平野の会戦や、三月のウサギ号乗船後の活躍、ルヴィシー丘陵攻防戦における武勲については本編第一部にその記述を譲ることとしよう。
峻険に囲まれた巨大な盆地である聖地サントゥアンの夜は早い。大地母神を守る霊柩山脈が夕焼けを遮り、大きな影を大地に落とすからだ。土地の者はこれを、眠る女神の平穏安息のためだと嘯く。
この部屋にも夜の闇が迫っていた。
「これも……」
リツカはようやく、応えた。
「いつか来る現実が、早まっただけ」
あえて、現実という単語を用いて。無情にも。




