19 紫陽花染織人
ブログ掲載:2012.7.29 テーマ:紫陽花
『シリーズ表集4 華 春子と不思議な物語 四年生、春と夏』という紙媒体に収録しています。
2012.11.18発行
雨の色は何色だろう。
ふと、赤い傘の向こうに見上げた空は、白く陰く濁っていた。
梅雨前線は七月にずれ込んで、雨の日が断続的に続いていた。
小学校のクラスでは、外でドッジボールができないと疎まれているが、春子自身はそれほど雨を恨めしく思ってはいない。
水はけの悪い細砂利の校庭に雨は広がり水溜りが湖のようにできる。草木の葉っぱはつやつやする。かたつむりがアスファルトを這う。
晴れ間がのぞくと、町は洗い流されたかのようで、改まった気配が漂う。
春子はそういった雨の情緒が、嫌いではなかった。
この季節になると、ただならぬ気配を発するものがある。
春子の家の中庭に、住宅街の家々の垣根越しに、学校の校庭の隅に、それは咲いている。
幽幻の雰囲気を持つ花、紫陽花だ。
赤や青、紫や白と、淡く色づき、もしくは濃く染め上るその花は、薄暗い雨の日に鮮やかに発光する。
雨が降らなくったって、季節がくれば咲くのだろうけれど、春子は紫陽花は雨の花なのだと思っている。
雨降りの日に、住宅街の紫陽花の青い花弁が、アスファルト上に数弁散っていた。それだけで、何の変哲もない道路に、異世界への入り口ができている。
それだけ、紫陽花の色は雨に濡れて、異質の情景を創り出す力を持っている。
ところで、春子は「脱妖怪」の孫という、異色の出自をもつ。
それゆえ、妖怪じみたものや、不思議な現象に遭遇することがよくある。
ある七月の下校時のことだ。
白く濁った空から、しとしとと優しい雨が降っていた。赤い傘を差した春子は、いつもの下校の路を歩いていた。
雨に濡れて灰色じみた住宅街は、だんまりを決め込んだみたいに静まっていて、ブロック塀に這うかたつむりだけが、路をゆく春子の出会いだった。
赤い傘は春子のお気に入りで、雨の日に重宝している赤い雨靴とお揃いだ。春子はアスファルトの窪みや道際に溜まっている水を避けながら、家路を歩んだ。
春子の家と学校は、片道五分程度の距離である。その間に、塀から道側へ乗り出して紫陽花が咲いている家がある。
春子はその花と自分の目線が年々近くなるのを密かに楽しみにしている。自分の身長が伸びているのがよく分かるのだ。雨の季節になると、発光するようなその色の異質さを愉しむのも、帰り道の楽しみである。
ところが、その日は先客がいた。
彼を見つけて、春子は立ち止まった。
その人は、背が高い。
つば広の帽子を被り、長いコートをスマートに着ていた。
その帽子もコートも、またウェーブした長い髪の毛も、奇妙な色合いをもっていて、赤のような、青のような、紫のような、白のような、淡かったり濃かったりするぼんやりとした斑模様が、全体に染まっている。
彼は雨に打たれるままで、帽子のつばから、ぽたり、ぽたりと雨の雫が滴っていた。そして奇妙なことに、左手にペンキの缶を、右手にハケを手にして、紫陽花の前に立っていた。
春子は、学校の先生から変な人を見かけたら逃げて通報するように言われている。
暫く彼の人物を観察した後、春子は一歩、後退りした。
と、彼の人物がくるりと振り返った。
「やあやあ、君が僕のスウィートハニーをこよなく愛してくれているというプリティな少女かい?」
一瞬、春子は外国語で話しかけられたのかと思った。
大柄な彼は西洋人のような顔立ちをしていて、これまた青や赤や紫や白が混ざり合ったような不可思議な色の目をしていたのだ。肌の色は抜けるように白く、アーモンド型の瞳に高い鼻。キリリとしまったその造作は、大変美しかった。
つまりは西洋人かと思って、しかも事実外来語混じりの発言だったので、春子は目を白黒させたわけだが、最初の衝撃から立ち直った春子は、徐々に目の前の人物が発した言葉が頭に浸透していき、何と言ったのか意味を理解して、怪訝な顔をした。
日本語だと理解したとて、さっぱり意味が分からなかったのだ。
相手はやけに明るい表情で、春子を見下ろしている。
春子は困りつつ、先生が言っていたことを思い出した。
知らない人に声をかけられたら、無視しなさい。
「ちょっとお待ちなさい、プチ・レディ」
回れ右して別路をとろうとする春子を、彼は呼び止める。
「挨拶もなしなんて、ひどい」
憐れっぽい声を出されて、つい振り返ったが、彼を再見して春子は違和感を覚えた。
見慣れた住宅街の塀と住宅と緑。アスファルトの道路。灰色の雨雲に項垂れたように、雨に濡れて暗く光るそれらを背景に、彼の存在は妙に明るく、鮮やかに、その色を発光させている。
まるで傍らに咲いている、紫陽花の花のように。
そこで春子は、やっと気付いた。
「こんにちは」
彼は恭しくお辞儀をした。
「ボン・ジュール、プティ・マドモアゼル」
何語だろう。春子は挨拶されたことだけ理解した。
彼はきっと妖怪ではない。生きているものだ。でも、特異な存在である。要は、普通の人間界の階層の人間ではない、という意味で、彼は不思議な人物なのだ。
「あなたは紫陽花に関係がある人なの?それとも紫陽花?」
彼はノンノンと言って、ハケとペンキの缶を持った両手を振る。
「わたしはホラあれ、『紫陽花染織人』」
あれって言われてもそんなの知らないし。
「染め粉とハケを持っているでしょ?」
と言って、自称『紫陽花染織人』はペンキの缶とハケを見せるように春子に差し出す。
近寄って見ると、ペンキの中身は雨にぐずぐずに溶けた赤や青や紫や白が混ざり合った染め粉で、ハケは使ったことがないような、真っ白なブラシをしていた。
それを持っている彼の、複雑な色合いのコートや帽子が、花弁のように繊細で柔らかな、縮緬を絞り染めにしたような素材であることに気付き、春子は雨に紛れて花の冷たい瑞々しさが傍にある感じを受けた。
ぽたり、ぽたり、と帽子のつばの端から雨の雫が滴り落ち、その度つば先が揺れるのが、花が雨を悦んでいるように見える。優雅に微笑む彼の顔を眺めていると、ここがどこだか忘れてしまいそうだ。
が、しかし、春子も人間の中の変わり種である。
異質な美しさにも、即物的であった。
「そのあじさいと何か関係があるの?」
背後に控えている、青紫の紫陽花の花を目に入れて、彼に訊ねた。
彼は嬉しそうに頷いた。
「そうなのです。愛しのマシェリなのです」
そっと花に手を添えて、異質の美男子が愛でる様は、はっとするほど美しい。
春子はふーんと思いながら、彼と馴染みの紫陽花を眺めていたが、赤い傘をくるくる回して雨を弾き飛ばしながら何とも言えない心地に浸った。結局、この『紫陽花染織人』が春子を呼び止めたのは何のためなのだろう。
紫陽花の花は、貴婦人のように凛として、糸雨を受けている。
彼は物言わぬ花を愛しげに見つめながら語る。
「長い間構ってあげられなくて悪いことをしました。何しろ世界には数千万の紫陽花がわたしを待ち受けているのです。そのひとひらひとひらの花弁を、優しく、愛をこめて染めなければならない。そうでないとやがて冷めていく恋のように、マシェリたちは色褪せてしまう。
この季節は二度と来ない。毎年毎年、美しく雨を迎えるには、天上の色を纏わねば、愛が褪せてしまう。わたしは『紫陽花染織人』の威信にかけて、マシェリたちに色を添えてその魅力を最大限に引き出さねばならないのです。雨に恋したマシェリたち、をね。
だから寂しい思いをさせて、色褪せさせてはならないと、世界中の紫陽花たちに会いに、そしてここに来たのですが」
その時、彼の瞳は青紫に見えた―――――彼は春子に魅惑の瞳を向けて、チャーミングに微笑んだ。
「相変わらず、綺麗だ」
春子だって、ドキリとするところだ。
「それはプティ・マドモアゼルのアムールを受けているからだと、わたしは君と出会った瞬間に悟ったよ」
もしかして、プティ・マドモアゼルとは春子のことか。アムールって、何だ。春子が暢気に首を傾げていると、彼の瞳が妖しく眇められた。
「まったく、妬けるね」
え、何が?
「焼けるね」だと思った春子がぽかんとして見上げると、彼はウインクして缶にハケを突っ込んだ。
「仕方ないから君にわたしの魅力をたっぷり実感してもらうことにするよ。『紫陽花染織人』のめくるめく『紫陽花色』の世界の、ね」
そう言って、彼はハケを振り上げた―――――
ぽたぽた、と落ちた水まじりの染め粉が、アスファルトに数滴光った。
あら?と思って見ていると、それは異質な青さをもった数弁の花弁だ。
と、落下する感覚があって、春子はその青さの中に潜り込んだ。
唖然として周囲を見回すと、見慣れた住宅街がある。道も塀も紫陽花もいつも通り、だが、真っ青な色一色で満たされていた。
思わず、傘を取り落す。雨は排除されて、そこにはない。
凪いだ色に染められて、春子は無に近い感覚を味わう。
と、あの複雑な色のコートの人影が、すっと住宅の門の隅から現れた。
「お次は赤紫」
缶から色を撒く。
地に落ちた赤紫に、あれよあれよという間に引っ張り込まれる。
今度は赤紫色に染まった世界にいた。葉っぱも赤紫。電柱も赤紫。あの馴染みの紫陽花も赤紫だ。戸惑いに、鼓動が早くなる。胸が熱くなる。
自分の手を見下ろして、「む」と愕然とする。
手の色も、ま赤紫だったのだ。
背後にぬっと立って、変わらぬ色彩の紫陽花染織人が、言う。
「ブランは如何?」
ハケを振ると白い染め粉が赤紫の色の中に散って―――
淡いピンクがかった、柔らかな白に染め上った。
「ふむ、この彩も重畳」
耳元で囁かれた気がしたが、振り向けば学校に続く道が白に染まってあるばかり。
わけが分からないし、兎に角状況把握がしたい。しかし、淡いピンクがかった白の中、春子は何事かを忘却したように、その場でくるくる回ってしまっていた。
くるくる回る視界に、紫陽花染織人が立っていた。
「さて、紫といきますか」
紫の世界に、春子は踊り込んでいた。
紫に染まった住宅街は、静かで暗い。
草木も、塀も、アスファルトも電柱も、沈黙して紫になり切っている。
春子も紫になっていることだろうが、なんとなく先程より落ち着いて、春子は立ち止まる。
と、紫色がにわかに蠢いた。
紫の粉が、一斉に洗い流されるように、ざあっと一つの場所に集約されていく。
草木からアスファルトから塀から門から春子の全身から。
そして、住宅街に雨が戻ってきた。
しとしと降る雨に降られて、暫し呆然としていたが、はっとして、春子は取り落していた傘を取り上げた。
周囲を見回すが、住宅街は元通り、雨に濡れていつもの色を取り戻している。春子は大きく溜め息をついた。
ふと見ると、紫陽花の花が身を乗り出す塀に、紫色の何かがあった。
よく見るとそれは紫色の文字で書かれたメッセージだった。
やりすぎだって
スウィートハニーに怒られちゃったよ☆
一体何だったんだ。
曲線の美しい細字の、その筆跡は、次の瞬間にはざっと紫色の粉になって、紫陽花の花に吸い込まれていった。
紫陽花は紫の色味を増して、艶々しているように、春子は見えた。
春子は青い傘越しに、白く濁った空を見上げた。
雨は何色なのだろう、と思った。
雨音と、水が流れる音に、耳を澄ます。
さきほどの出来事のせいか、雨降る街が青みがかって見える。
雨靴とお揃いのはずの傘が真っ青になっているという重大事に気付いたのは、春子が帰宅してからだった。




