第1部『death not』 第1話(前編)
九条探偵事務所に、重苦しい沈黙が落ちていた。
銀髪をオールバックに撫でつけた少女――所長の九条亜理栖が、目の前のそれをじっと見つめ、目を細める。
そのまま、ゆっくりと瞼を閉じた。
目を閉じたまま天を仰ぐ。
そして静かに呟いた。
「……死んでいますわ」
隣に立つスーツ姿の金田一美月が、眼鏡の奥の瞳を細める。
「分析します」
美月は一拍置き、厳かに告げた。
「死んでいます」
「うぅ……っ、ぐすっ……」
黄金崎紅麗亜は、愛らしいタレ目を涙でいっぱいに潤ませて泣いていた。
亜理栖が美月へ指示を出す。
「金田一さん」
「はい」
「ひとまず、ご遺体を安置いたしましょう」
「御意」
二人が神妙な面持ちで頷き合った、その時だった。
「所長! ご依頼です!」
赤髪のおさげを跳ねさせて、根岸千佳が飛び込んできた。
茶封筒を掲げたまま、室内の妙な空気に気づいてピタリと足を止める。大きなグリーン縁の眼鏡が、三人を見回した。
「……あれ? なんかお取り込み中でした?」
「いいえ、ちょうど検死が終わったところですわ」
亜理栖は何事もなかったかのように背筋を伸ばし、応接ソファへ優雅に腰を下ろした。
「金田一さん、安置は後回しよ。ご遺体はひとまず、その窓際に置いておきなさい」
「承知しました」
「えっ、あ、はい。お邪魔します」
千佳はパタパタと走ってきて、ローテーブルの上に茶封筒を置いた。
美月がソファの脇に控え、まだ目元を赤くした紅麗亜が亜理栖の隣にちょこんと座る。
「それで千佳さん、ご依頼というのは?」
「はいっ! 駅前のすずらん商店街の会長さんからです!」
千佳が封筒から取り出したのは、数枚の大きな写真だった。
テーブルの上に順番に並べていく。どれも商店街のアーケードの下で、法被姿の店主やエプロン姿の婦人たちがズラリと並び、笑顔でカメラに収まっている集合写真だ。
「商店街では毎年春に、こうやって全員で記念写真を撮ってるそうなんです。それで今年、過去の写真をまとめて記念誌を作ることになったんですけど……」
千佳は一番手前の、今年の春に撮られた写真を指さした。
「この後列の左端にいる男の人、見えますか?」
四人がいっせいにテーブルへ顔を寄せた。
ゴツン!
乾いたいい音が響き、亜理栖と美月と紅麗亜が同時に額を押さえてのけぞった。
「っ……痛いですわね!!」
「うぅ……頭が割れたかと思ったわ……っ」
「……頭蓋骨にヒビが入りました」
「あれっ? いま何かぶつかりました?」
千佳だけが、ケロッとした顔で自分のおでこを撫でている。
「あなたの頭ですわよ! なにで出来ていますの、その石頭は!」
「えへへ、よく鉄球って言われます!」
「褒めていませんわ! ……まったく、どれですの?」
亜理栖は涙目で額をさすりながら、少し距離をとって写真を覗き込んだ。
八百屋の店主のすぐ後ろに、一人の男が写っていた。背筋を伸ばし、整った顔立ちでまっすぐ正面を見つめている。
「ええ、よく見えますわよ。ずいぶん姿勢のいい方ね」
「ですよね。じゃあ次、去年の写真を見てください」
「あら、同じ場所にいらっしゃいますわね」
「次、一昨年の写真です」
「分析します」
額を押さえたままの美月が、眼鏡の奥の瞳を光らせた。
「同じ位置です」
「見ればわかりますわよ! なぜそんなドヤ顔で言いましたの!?」
「間違えました。再分析します」
「ええ」
「右から数えても、同じ位置です」
「当たり前のことを二度言わないでちょうだい!」
亜理栖のツッコミにも動じず、千佳がさらに写真をトントンと並べていく。
「で、その前の年も、さらにその前の年も、ずーっとここに写ってるんです」
どの年の写真を見ても、後列の左端に同じ男が立っている。
「いいことですわね。毎年欠かさず行事に参加なさるなんて、商店街の鑑ですわ」
亜理栖が満足げに頷いた。
だが、千佳は首を横に振る。
「ところがですね、所長。商店街の誰も、この人の名前を知らないんです」
「……はい?」
「会長さんが写真を見せて回ったそうなんです。お肉屋さんにも、魚屋さんにも、パン屋さんにも聞いたそうなんです。でも、みんな『あれ、隣の店の常連さんじゃなかった?』『誰かの親戚だと思ってた』って言うばかりで、誰一人として、どこの誰だか知らないんですよ」
「ひっ……」
紅麗亜が小さく息を呑み、両手で口元を覆った。
千佳が腕を組んでうなる。
「不思議ですよねえ。あ、所長、こういうのって、人数を多く見せるための『サクラ』ってやつですかね?」
「……サクラ」
亜理栖の視線が、写真の背景をさまよった。
写っているのはアーケードの屋根とシャッターばかり。花びら一枚散っていない。
(なぜここで桜が出てきますの……!? 春の写真だからですの!? いえ、待って、千佳さんがそんな単純な見間違いをするはずが……まさか探偵業界の専門用語!?)
自称天才探偵・九条亜理栖、十八歳。知らないとは死んでも言えない。
亜理栖は顎をわずかに上げ、呆れたように鼻を鳴らした。
「……ふっ。千佳さん、まだまだ甘いですわね。それは――ですノット!」
ビシッ、と人差し指を突きつける。
美月と千佳と紅麗亜の目が、コンマ一秒だけ合って、すぐに離れた。
(あ、所長、『サクラ』の意味を知らないな)
三人の胸の内で共通の合図が鳴る。だが、誰も口には出さない。
「さ、さすが所長です! じゃあサクラじゃないんですね!」
「も、もちろんですわ! 屋根の下ですもの、咲いているはずがありませんわ!」
(やっぱり植物の桜だと思ってる……!)
三人は揃って優しい笑顔を浮かべ、深く頷いた。
亜理栖は気分よく胸を反らし、写真を指先で軽く叩く。
「いいこと? 毎年欠かさず集合写真に写りながら、誰にも名前を知られていない。答えは簡単ですわ。この方は、極度の人見知りです!」
「人見知り、ですか」
「ええ。本当は商店街の皆さんの輪に入りたいのに、『おはようございます』の一言がどうしても言えないのよ。だからせめて年に一度、記念写真のときだけ後ろにそっと並んで、仲間になった気分を味わっているのですわ」
「わあ……なんだか切ないですね」
「でしょう? でもご安心なさい。このわたくしが直々に見つけ出して、皆さんに紹介して差し上げますわ!」
「分析します」
すかさず美月が声を上げた。眼鏡の奥の瞳が、鋭く写真を射抜いている。
「所長。周囲の店主たちが笑顔でピースサインを作っているなか、彼だけは一切の感情を殺しています。こんな目をする人見知りはいません」
「なっ……では何だと言いますの?」
「亡命してきた元・諜報員です」
美月は迷いなく言い切った。
「名前を捨て、過去を消し、このすずらん商店街に潜伏しているのです。しかし、かつての本国の仲間にだけ『私はまだ生きている』と伝える手段が必要だった。それが年に一度、地元の記念写真に写り込むことだったのです」
「な、なんだってーっ!」
千佳がテーブルに両手をついて立ち上がった。
「じゃあ美月ちゃん、この人、追われてるってこと!?」
「ええ。おそらく八百屋のタイムセールの裏で、今も孤独な情報戦を続けています」
「ちょっと金田一さん! どこの小説の話をしてますの!?」
亜理栖がツッコむと、美月はパチリと瞬きをした。
「間違えました。再分析します」
「切り替えが早いですわね!」
「では、商店街の誰かに何年も片思いをしているものの、相手が既婚者であるため、せめて一枚の写真のなかでだけ隣に立とうとしている悲恋の男です。タイトルは『レンズ越しの純愛』」
「タイトルまでつけなくてよろしい!」
亜理栖が額を押さえた、その隣で。
「ど、どうしよう……っ」
紅麗亜が、今にもこぼれ落ちそうなほど大きな瞳を潤ませて震えていた。
「どうしたの、紅麗亜?」
「だって、何年も誰にも気づかれずに後ろに立っているなんて……もしかしたら、商店街のお店の並びを少しずつ覚えて、街ごと乗っ取るつもりかもしれないわ……」
紅麗亜は小さな手を胸の前で握りしめ、みるみるうちに青ざめていく。
「今年は左端、来年は真ん中……そうやって少しずつ場所を奪って、いつの間にか商店街のお店が全部その人のものになって……お肉屋さんもパン屋さんも追い出されて、最後は街ごと更地にされちゃうかもしれない
わ……っ!」
「なぜ記念写真から街の消滅まで飛躍しますの!?」
「そんなの悲しすぎるわ……っ。亜理栖ちゃん、その人が街を奪う前に、わたしが商店街の土地と建物を全部買い取って、お店の人たちに無償で配っておくわね……っ! ううん、念のために駅前の再開発エリアごと押さえておいた方が……っ」
「お財布をしまっておきなさいな! 商店街の皆さんが逆にびっくりしてしまいますわ!」
「で、でも……わたしが何もしなかったせいで街がなくなったら……うぅ、わたしが消えて済むのなら……っ」
「なぜそうなるのよ! 誰も消えなくてよろしいと言っていますでしょう!? 泣かないでちょうだい、わたくしが必ず見つけ出して解決いたしますから!」
ポロポロと涙をこぼし始める紅麗亜に、亜理栖が慌ててハンカチを差し出す。
その横で、千佳はすでに玄関の方へ体を向け、靴紐をギュッと結び直していた。
「わかりました! つまり、人見知りで元スパイで不倫の片思い中で地上げ屋の男の人を捕まえればいいんですね!」
「全部混ぜるんじゃありませんわよ!」
「細かいことは捕まえてから聞けば分かります! 正面突破です! 私、今から商店街を端から端まで走って、この顔の男の人を片っ端から連れてきますね!」
「待ちなさい、千佳」
ドアノブに手をかけた千佳を、美月が呼び止めた。
「茶封筒のなかに、まだ写真が残っています」
「あ、そうでした!」
千佳はくるりと踵を返し、タタタッと軽やかな足取りでテーブルの前へ戻ってきた。
「会長さんが『もっと昔の写真も出てきたから、一応入れておくよ』って、古い分も預けてくれたんでした。
えーっと、これが十年前で、これが十五年前……」
千佳が封筒の底から、角の擦り切れた写真を次々と取り出して並べていく。
「あら、十年前の会長さん、髪の毛がフサフサですわね」
「分析します。十五年前はさらにフサフサです」
「会長さんの毛根を分析しなくてよろしい!」
「うぅ……このまま昔に戻ったら、会長さんが毛玉になっちゃうわ……」
「なりませんわよ! なぜ過去に向かって増えるのよ!」
わいわいと言い合うなか、千佳が最後の一枚――一番古い、色褪せた写真をテーブルの真ん中に置いた。
裏面に記された日付は、今からちょうど二十年前。
「これが一番古い、二十年前の写真です!」
四人が――今度は頭をぶつけないように慎重に――写真を覗き込んだ。
今よりも少し古風な看板が並ぶ商店街。店主たちはみな若々しく、眩しいほどの笑顔を浮かべている。
そして、美月の指が、写真の左端――後列の端でピタリと止まった。
「……所長」
四人の視線が、一点に集まる。
そこには、あの男が立っていた。
二十年前の写真だというのに、髪型ひとつ、シワひとつ変わらず、今年の写真とまったく同じ顔で。




