9-7 堕天使の要求
レンは自分で、夢を見ているんだと思った。柔らかい地面に横たわっていて、目を開けるとふわふわと天使が1人、宙を舞っていた。それはナターシャだとすぐに分かった。新暦書に挟まっていたメモにあった絵のまま、ナターシャは目を閉じていた。
「裏切られたのね」
頭の中に響いてくるような声はアルルに酷くよく似ていた。しかし動いているのはナターシャの口だ。
「私の子孫に」
「……何であんたがここに居るんだ。ここは何処だ」
「……違うわ。私がここに貴方を連れてきたの。貴方はグレイの血を引く魔術士……でも、私は貴方に興味があるの。それはアルルが貴方のことを一度愛した、その事実とは関係ない」
「フェアリーは俺達のことを嫌ってるんだろ。殺したいってずっと思ってるんだろ。そんなことは俺だって分かってるんだよ、でもアルルは違うって思ってたんだ」
ナターシャは目を閉じたままで、こちらの顔を見ているかどうかは分からない。しかし、レンは情けなく泣きそうになるのをぐっと堪えた。
「俺が油断してたってこと?俺が信じ過ぎてた?もう誰のことを信じれば良いのか分からない」
「……貴方は私に何だか似ているのよ、レン・グレイ。どこにも所属することができていない貴方は。貴方は黒の女王に忠誠を誓っている訳では無い。でも復讐の為にサングスターの人間を殺してきた。そんなことをしたくせにサングスターの魔術士と仲良くなって、信じ合う約束をした。フェアリーだって分かってるくせに、アルルに裏切られたことを酷く悲しんで絶望に浸っている。貴方は疎遠しているのよ。どこにも属していない。独りぼっち、ずっとずっと独り」
「俺は確かに独りかもしれない。でもあんたには、あんたを愛してくれる悪魔がいるじゃないか」
「私は堕天使。私には私を守ってくれる仲間なんて居ないの。アルトゥールは私のことを好きかもしれないけど、他の悪魔はどう思っていたか分からない。私もどこにも所属していないの。悪魔でもないし、天使でもない。貴方と同じ」
「やっぱりナターシャ・フェアリーには希望なんか無いんだな」
クスッとナターシャは笑った。その目は閉じたまま、口元だけが少し上がる。
「私は堕天使になった大天使なだけ。希望も絶望も両方持っている。両者は常に紙一重」
ナターシャの声がやはりアルルそのものに聞こえる。アルル、アルルは裏切った。お互いが敵同士の血であると分かった途端に裏切った。レンは本気で死んでも良いと思っていた。
ツバサにいきなり殴られた時、自分が今まで何をしていたのか分からなかった。久しぶりな感覚だった。憎しみに駆られて暴走した時の感覚だ。気づいた時には周りに人間が2、3人倒れて死んでしまっている時と同じだ。
「アサシンだった頃のことを思い出したの?貴方の殺し方は斬新で、一瞬で、常に"憎しみ"が込められていたわね。貴方はアルルにも"憎しみ"を感じて、感情に任せて殺そうとした」
「本当は……本当は、そんなことしたくなかった。本当は……何で……何でなんだよ」
レンはその場にくずおれた。宙を舞っていたナターシャがくずおれたレンの前に着地した。ぽたぽたと地面に雫が零れる。ナターシャは黙って立っているだけだった。堕天使の手がレンの頭に触れる。途端に悪寒がして、気持ち悪い鳥肌がレンの体を走った。
「気の毒で可哀想な魔術士。ねえ、貴方はもううんざりしているんでしょう?自由に恋をして、自由に生きたい。一族の血とか、どうでもいい。だって貴方は疎遠しているんだもの。だったら約束してあげる。もし、私のことを封印から解いてくれたら、石の中から出してくれたら、私は黒の女王に謝りましょう。そうして、許してくれるように頼みます。もうこんなイタチごっこはやめよう、とアルトゥールにも提案します。そうすれば、貴方はもう誰からも追われない。仲間のサングスターの魔術士とも、これからも共に生きていける。どう?」
レンは涙を少し拭うと顔を上げてナターシャのことを睨んだ。ナターシャはしゃがんでレンのことを覗き込んでいたが、目は閉じたままで口元だけが笑っていた。風が吹いていない空間のはずなのに、堕天使の髪は静かになびいている。
「あんたの封印が解けたら、必ずアルトゥールと再会するだろう。天使と悪魔は愛し合ってはいけない。それは今だって変わらない掟のはずだ。だから簡単にあんたの封印は解けないはずだ」
「今までの貴方、だったら難しいことだったかもしれない。でも今の貴方ならできるわ。私の封印を解くにはフェアリーの血が必要なの。気難しい大天使様が決めたから、サングスターの魔術士はなかなか実行できなかった。だけどレン・グレイ、貴方なら」
「フェアリーの血?」
「ええ。私の石は悪魔界のオウバルA、アルトゥールの玉座に置いてある。その石の表面にフェアリーの血をたっぷり捧げてくれれば良いの。貴方はグレイだから、オウバルAに侵入することすら困難に感じるけれど貴方にはサングスターの仲間が居るわ。血を入手するのは簡単よ。貴方を裏切ったアルルを、今まで通り殺せば良いの、貴方の手で」
「……」
「そんなことできない?でもさっきは貴方、現に殺そうとしていたじゃない。だからまた彼女に会えば出来るでしょう?」
「……」
「さっきも言ったけれど、私と貴方は似ているの。私が好きなのはアルトゥール。他の悪魔にもサングスターの魔術士にも興味が無いわ。だから私はいくら血が繋がっているとは言え、アルルの味方に必ずしもなるとは限らないの。私の封印を解いてくれたら絶対に幸せにしてあげる」
「……絶対に幸せになるとは言い切れない」
「そうかしら。だってアルルはもう貴方のことを愛していないんでしょう?」
レンはもう何も言葉を返すことがなかった。ただ地面を向いて涙だけを流し続けた。
もう少しだけ、信じていたい。あと少しだけ。




