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裕紀が知ったのは始業式の日だった。
起こり得ることの一つとして認識はしていたが、現実になるはずはないと信じていた。由利恵は自分を裏切らない。最後には応えてくれると、そう。
二年生の廊下を歩く裕紀に四方から視線が飛んでくる。自分の顔が美形に分類されるのは知っているが、今向けられているのは好意ではなく好奇だ。彼らは事態を面白がっている。
由利恵がいるA組を無視してE組に向かい、そのドアを思いきり開いた。
「鈴村大地ってどいつだ」
近くにいた男子生徒が「来たっ」とうれしそうにした。クラス全員がショーを待つ子供のように目を輝かせている。そんな中だったので、ちらりとこちらを流し見ただけですぐに視線を外した少女はとても目立った。
「おい、鈴村大地ってどいつだ」
床を踏み鳴らす勢いでやって来た裕紀を見て頼子はため息を吐いた。
「先輩に対してずいぶんと横柄な態度だね」
「たった一つ年が上なだけのやつのどこが偉いんだ」
「ま、その通りだね。だけど人に物を尋ねるときの態度がそれで良いとは思わないよ?」
「鈴村大地はどの人ですか。教えてください、先輩」
見事な棒読みだ。
頼子は背後の席を指差した。そこにはうつ伏せになって爆睡している大柄の男子生徒がいた。机に掛けているスポーツバッグはラグビー部のもので、名札には几帳面な字で〝すずむら だいち〟とひらがなで書かれてある。
どうするのだろうと頼子を含めたクラス全員が見守っていると、裕紀は大地の肩をつかんで勢いよく前後に揺さぶった。
「おわっ!? なんだ、地震か!」
よだれを散らしながら飛び起きた大地を裕紀はすかさず観察した。
一言で言えば彫の深い顔だった。目鼻立ちがくっきりしており、頬骨もやや出ている。あごのあたりには髭の剃り跡があり、切ったらしく赤い線が浮いていた。体つきは学ランの上からでもがっしりしているのが分かった。太くて一直線の眉は強面を演出しているが、垂れ気味の目が雰囲気を和らげている。
「あんたが鈴村大地?」
上級生の教室で、しかも視線を一身に集めているのに、なんの力みもなく裕紀は言った。
「ん? そうだけど君はだれ?」
「俺のこと知らないの」
由利恵と同じ学年に自分のことを知らない人間はいない。彼女が中等部二年と三年のときは毎日のようにべったりひっついていたのだ。
「うん。こんなきれいなやつ、一度見たら忘れないよ」
へらりと口説き文句のようなことをのたまう。軽薄な台詞なのに大地の人好きのする笑顔のためにそう感じない。そうやって由利恵に取り入ったのだと思うと腹が立つ。
「俺は近藤裕紀」
「ああ! 由利恵ちゃんのおとうとか! 君のことはよく聞いてるよ。すごく大事な人だって」
思いがけない言葉に頼子も裕紀もぎょっとした。
「あんた、由利恵の彼氏なんじゃなかったの」
「そうだよ」
「だったらなんで平気なわけ? 彼女が自分以外の男を大事な人だなんて言ってるのに」
「君はおとうとだろ」
「本当のおとうとじゃない」
「でも由利恵ちゃんは、君のことをおとうとにしか見てないって言ってたよ」
クラス全員が固唾を飲んだ。裕紀が由利恵に恋しているのは自明のことだったが、由利恵が裕紀をどう思っているかはずっと不明だった。だから春休み直前、由利恵と大地が付き合いだしたというニュースは衝撃をともなって瞬く間に広がった。
春休み、家での由利恵を思い返して唇をかみしめた。うわの空で、やたらとメールを気にしていた。生徒会関連だと思って追及しなかったことを悔やむ。
「裕紀が来てるって聞いたけど」
不意に涼やかな声が聞こえた。由利恵が教室内を見渡し、すぐに大地を見つけ、そしてそのそばに立つ裕紀に視線を止めた。
「由利恵」
走り寄る姿はひどく頼りなげだった。なんのてらいなく由利恵の腰に腕をまわし、その肩に顔をうずめた。少し気まずそうに由利恵は大地を見たが、大地は特に気にした様子もなく笑っている。
大物だ、と頼子は思った。普通の男ならば不快になる場面なのに。
「もう、用事もないのに二年生の教室に来ちゃダメでしょ?」
「用事ならあった。由利恵、あの男と付き合ってるの」
裕紀がこの教室にいる時点で聞かれることを予想していたのだろう、由利恵はためらうことなくうなずいた。そして裕紀が何かを言う前に腕から逃れてしまう。
「さ、自分の教室に戻ろう。一年生はオリエンテーションがあるでしょ」
裕紀の背中を問答無用でぐいぐい押していく。こっそり振り返ると大地に向かって口を小さく動かした。おそらく「ごめんね」と言っているのだろう。
二人が去ってもざわめきが収まらないなか、大地はカバンを探ると紙包みを取り出した。購買の焼きそばパンだ。大口を開けてかぶりつく。すさまじいマイペースっぷりである。
「鈴村くん、まだお昼前だけど」
「今日は午前だけだから。午後から部活があるんだけど、昼に食ったら胃のなかのもん全部戻しちゃうんだ」
「そっか、ラグビー部ってハードだもんね」
大地は咀嚼しているため返事をしない。よく噛むことにしているようだ。ようやく飲み込んでから口をひらいた。
「俺の部活知ってるんだ? えーと……」
「城下頼子。部活はカバンに書いてる」
「あ、なんだ。てっきり俺の個人情報がだだ漏れなのかと思っちゃった」
似たようなものである。彼は高等部からの外部入学生なのでどうしたって目立つ。だが中等部までのことを知らないからこそ、由利恵と交際することになったのだ。頼子から言わせてもらえば勇者である。
「こんなこといきなり聞いてあれなんだけど、あんなやつがおとうとだなんて嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ。由利恵を好きになる気持ちはよく分かるし」
気持ちの良い笑顔だ。大地なら由利恵を大切にするだろうと素直に思えた。
そう考えたとたん、自分の表情がゆがむのが分かって慌てて前を向いた。タイミング良く先生が入ってきて、大地が残っていたパンを頬張る気配がした。
四月の部活動は新入生を勧誘する絶好のチャンスである。どこの部活もふだんの五割増しで笑顔と優しさをばらまいている。
頼子の所属している陸上部も例外ではなく、三年生が手八丁口八丁でなんとか取り込もうと躍起になっている。
人気があるのは短距離や派手な棒高跳びである。ただでさえ女子部員が少ないのに、3000mを走りたがる者はいない。おかげで種目説明に駆り出されることはないが少し寂しい。
とりあえずいつものようにストレッチで身体をほぐしていると校舎から大きな荷物をかついで走ってくる部長が見えた。彼は砲丸投を専門としているが、もちろん手にしているのは玉ではない。遠目でもそれが何かが分かって頼子はため息を吐いた。
走るフォームだけは美しいままに部長はやってきた。
「部長、なに持ってるんですか」
「さすがヨリヨリ、めざといな。これは我が部のリーサルウェポンだ!」
「人間兵器ですか」
彼の肩でじたばたと暴れている。いったい誰だろうと思って見ていると、勢いよくのけぞったので顔が前を向いた。
「あ。近藤裕紀」
思わずフルネームで呼ぶと裕紀は盛大に顔をしかめた。
「なんであんたがここにいるんだ。嫌がらせかよ」
いつもいつも嫌なときに遭遇する。裕紀はかなり本気でそう思った。
「そんなわけないでしょ。私は陸上部なの」
「ふん」
たしかに頼子はロゴの入ったジャージを着ている。だからと言って気を許せるわけではない。
「どうして連れてきたんですか?」
剥き出しの敵意にかまわずに頼子は部長に尋ねた。
「彼が間違えた場所にいたから案内してあげようと思ったのだよ」
「間違えてない! 俺はあそこに用があったんだ!」
「ラグビー部に?」
「そうだ!」
頼子はピンと来た。おおかた鈴村大地の偵察でもしようとしたのだろう。
「君は陸上をやめてラグビー部に入るつもりなのか!?」
部長が悲鳴じみた声をあげた。顔が近くてうるさい。裕紀は手足を振り回したが、未だに地面に降ろされる気配がない。
すると頼子が部長の背中を軽く叩いた。
「部長、万が一落として足に怪我でもしたら大変ですよ」
「そうだった!」
まるで宝物を扱うがごとく、衝撃も無く地面に立たされた。これはこれで微妙だ。
「おとうとくんはラグビー部に入るつもりなの?」
「その呼び方はやめろ。それに俺がどこに入ろうがあんたには関係ないだろ」
「んー、まあそれはそうなんだけど、陸上部としてはやっぱり気になるよ」
なにしろ大会三位入賞者だ。磨かないうちから光っている原石である。
「もったいない、とか言いたいのかよ。けど俺が陸上をやってたのも、由利恵が速いのが格好良いって言ってたからだ」
「なるほど。それで近藤さんの彼氏がラグビー部だから、自分も真似しようと。なにそれ、格好悪い」
「は!? なんであんたにそんなこと言われなくちゃいけないんだ!」
「だってそんな理由でふらふらやること変えるのって、女からしてみれば重いしウザいもん。それにおとうとくんの場合、ラグビーでは絶対に結果を残せないのがわかりきってるし」
言い切られて裕紀は目を丸くした。何なんだ、この女は。
「……理由は」
「フォア・ザ・チームって言葉を知ってる? 理解できる?」
裕紀は思わず首をかしげた。簡単な英語だ。
「チームのために、って意味じゃないのか」
「そうそう。おとうとくん、チームのためにプレイできる? ラグビーは陸上とちがって団体競技だよ?」
「それは……」
たしかにバスケも野球もサッカーもバレーも、複数でするスポーツはすべて苦手だ。運動神経は良い方だが、だれかと組んだとたん足を引っ張ることが多々あった。
ラグビーの詳しいルールは知らないが、年始にテレビで見たことがある。
ボールを持った者をゴールに行かせるため、もしくは行かせないため、何人もが固まりとなって押し合いへし合いしていた。
自分がそのなかの一員となる姿を想像したとたん、一気に気持ちが萎えた。
それを見計らって頼子は畳みかける。
「格好いいと思ってもらいたいなら自分が一番得意な分野にしたら? もちろん、結果を残せなくても挑戦している姿を素敵だと言ってくれる子はいると思うけど」
特に裕紀の場合は多いだろう。なにせこの顔だ。真剣に打ち込む姿だけで惹きつけるのは確実である。
「…………」
頼子の言葉に説得力はあったが、素直にうなずくのはしゃくだ。それでも陸上を始めたのは確かに由利恵がきっかけだった。
同級生の子が速くてすごかったと、珍しく興奮気味に話していた。彼女は走り全般が壊滅的なので、なおさらうらやましかったのだろう。
そうだ、自分はまだ由利恵に走る姿を見てもらっていない。
「陸上部に入ります」
「おお! 歓迎するよ! さっそくメンバーに紹介しよう!」
肩をわしづかまれて連れて行かれる裕紀の姿を頼子は見送った。
部長が望んでいたのでとりあえず誘導してみたが、裕紀は陸上部でもうまくいくタイプには見えなかった。




