1
高等部の寮を見たとたん、頼子は全身の力が抜けていくのを感じた。
辛うじて最後の気力を振り絞って自室にたどり着いたが、肩に掛けていたスポーツバッグを放りだすとベッドへ倒れ込んだ。安っぽくきしむ音と慣れ親しんだシーツの感触に安堵する。
帰ってきたことを実感する。
春休みはまだ五日も残っているが、部活や進級の準備で忙しいからと引き止める両親を振り切った。
その横に立つ、寂しそうな笑みを浮かべる人物の面影を強引に振り払う。
次に会うのは四ヶ月以上先の夏休み。
(それまで私は自由だ────)
そのまま寝てしまった翌日、皺だらけのブラウスとピンク色のフレアスカートを見下ろすと溜息が出た。脱ぎ捨てた服を洗濯かごに無造作に放り込む。買ってもらったから着たが、好みではなかったし、そもそも自分にはがっかりするほど似合わない。
ベリーショートの髪型と凹凸のない身体は今でも男子に間違えられるのだ。
ジーンズと無地の長袖に着替えると空腹を訴える胃袋に従って食堂に向かう。
全寮制の食堂はかなり広いのだが春休み中の、さらにまだ朝早い時間であったために人影はまばらで好きな席が選び放題だ。
今日の朝食セットのメニューはソーセージとベーコン、スクランブルエッグにトマトスープだった。夕飯を食べていなかったのでトーストは二枚にする。
お盆を持ったまま窓際に向かうと一人の女生徒が目に入った。
去年、隣のクラスだった近藤由利恵だ。
高等部の生徒で彼女のことを知らない人間はいないだろう。なにしろ中等部のころから生徒会に所属して学校行事を多岐に渡って采配し、成績も常にトップクラス、その上容姿も可憐なのだ。
背中に広がる髪は艶やかで、見ただけで指通りが良いことが分かる。肌も日に焼けて茶色くなっている自分とは違って透き通るように白く、同じ〝女子〟とカテゴライズするのがおこがましく感じられる。
「近藤さん、おはよ! 前に座っても良い?」
「あ、おはよう、城下さん。どうぞどうぞ」
由利恵の朝食は和食セットだ。焼き鯖をメインに出汁巻玉子、ほうれん草のお浸しや味噌汁などが並んでいる。
「近藤さんってもう寮に戻って来たんだね」
「生徒会の仕事があるから。城下さんこそ早いじゃない」
「部活ー。アスリートに休みはないのだ」
「たしか陸上部だっけ?」
「うん」
一学年六クラスで各三十人ほど、さらに中高一貫教育なので、ある程度の情報は行きわたっている。
「陸上部って練習が多いことで有名だもんね。県大会の決勝にもよく残ってるし」
「速い人が多いから。まあ私は遅いからいつも予選止まりなんだけどね」
男女問わず強いのは短距離で、長距離に分類される3000mの頼子はなかなか結果を残せないでいた。
「そんなことない! 中学生のときに大会を見に行ったことがあるけど城下さんすごく速かったじゃない! スタートしたスピードのままあんなに長い距離を走るなんてびっくりしたよ!」
「あれは1500mだったからだよ。今は倍の距離だから、あのスピードで走ったら間違いなく死んじゃう」
想像しただけでも気が滅入って、眉尻が情けなく下がってしまった。
「あははは」
由利恵はおかしそうに肩を揺すって笑った。その声まで可愛い。
「でもそんなこと言ったら、おとうとさんのほうがすごいじゃない。始めてたったの一年で100m11秒フラットで大会三位。もっと速くなるよ。高校でも続けるんだよね?」
「んーと、どうかなあ……」
由利恵の表情がぎこちなくなる。この流れでうかつにも話題にしてしまったが、ここで申し訳なさそうにすればこちらも意識していることが伝わってしまう。
頼子は何でもない顔を装って話を続けた。
「どちらにしろ、うちの部からしつこく勧誘に行くと思うけど許してね。それはそうと、もう二年生のクラスの名簿は見たの?」
「ううん、まだ。生徒会と言ってもそういうことは事前に知らされないから」
「そっかあ。二年生のクラスがそのまま三年生に持ち上がるからすっごい気になるんだよねー。そう言えば四年間、近藤さんと同じクラスになったことってないよね」
「言われてみればそうだね。そろそろ一緒になるかな?」
「その時はよろしくね」
「こちらこそ!」
取り戻したなごやかな空気はしかし、食堂全体に響き渡る声によって簡単に消えてしまった。
「由利恵!」
少年が出入り口で大きく手を振っている。それを見とめた由利恵は口元を強張らせ、だがすぐに柔らかな微笑へとすりかえた。
あまりにも自然すぎて、むしろ不自然に思えるのは頼子に先入観があるからだろうか。
それに対し、駆け寄ってくる少年は心底嬉しそうで、腰をかがめると由利恵の肩にまとわりついた。犬の尻尾が生えていたならば千切れんばかりに左右に振っているだろう。
「裕紀、もう学校に戻ってきたの? 入学式は四日後だから明後日だって言ってなかった?」
「だって由利恵がいない家にいたって意味ないじゃん。それにようやく一緒の校舎になるんだし」
頼子は牛乳を飲みながら二人を眺めた。
裕紀と呼ばれた少年は由利恵の一つ下のおとうとである。さすが血縁関係なだけあって裕紀の容姿もかなり際立っている。
まだ頬は丸みを残しているが、釣り目が幼さを感じさせない。頼子が中等部に在学中に何度か見かけたことがあり、あのときは少女めいていて「女男」などとからかわれていたようだが、今はそんなことはないだろう。と言うよりも彼の人気ぶりは高等部にも伝わっている。
だが顔の美醜よりもその体格に興味があった。身長も高く、目測だけでも170センチはある。成長に筋肉が追い付いていないので細い印象を受けるが、長い手足と高い位置にある腰骨は将来を期待させる。
ぜひともその走りを見てみたい。
頼子の観察するような視線はもちろん裕紀も気付いていて、お返しとばかりに値踏みする。
小柄だ、とまず思った。細いが全体的にトレーニングにより絞った肉付きをしており、肌の色から運動部に所属していることが分かる。雰囲気も顔も中性的で、それが相手に警戒心を抱かせない。
人を疑うことを知らない由利恵ならばあっさり気を許してしまうだろう。
「なあ由利恵。こいつだれ?」
不機嫌な声だった。その目は威嚇するように睨んでくる。明らかな敵対心に頼子は首を傾げる。なにかしただろうか。
考えを巡らせていると裕紀は見せつけるように由利恵の頬に手を寄せ、己の胸元に導いた。
「由利恵は俺のだからな」
「裕紀!」
頼子は噴き出しそうになった。なるほど、そういうことか。彼と違って自分の二つ名「男女」は相変わらず健在のようだ。
あざ笑うように唇が歪んだのを裕紀は見逃さなかった。苛立ちが腹の奥底から燃え立つようだ。
この一年間、校舎にはばまれた自分たちはなかなか顔を合わせることが出来なかった。近くで守ることが出来なければ、由利恵という美しい花に虫が群がるのは必然のことだった。
目の前にいるこの男のように。
「目障りだ。さっさと消えろよ」
怒気をはらんだ声音とすがめた瞳はその整った顔立ちとあいまって怜悧さを際立たせる。
だがそんな彼を由利恵は遠慮なく叩いた。
「城下さんになんてこと言うの! あやまって!」
「……え? 城下、さん?」
由利恵の剣幕と思いがけない単語に裕紀はうろたえた。学校生活における一般的な呼称は男子が〝くん〟で女子は〝さん〟だ。つまり、目の前にいる小柄な男は、男ではないということになる。
信じられない気持ちで視線を移すと、「城下さん」は肩をすくめた。
「どうも、城下頼子です」
その声は低くはないが、女子特有の高さや甘さもなかった。
裕紀のなおもいぶかしむ視線が顔から下、端的に言えば胸元に行くのがわかった。体型の出にくいゆったりした服だが、もともと胸のふくらみはそれほどない。ちなみに由利恵は正反対で、世の男たちが喜び勇んで飛び込みたくなるような大きさだ。
「胸の大小で性別を判断するのはやめようね」
失礼を指摘されて裕紀もさすがにばつが悪くなる。自分だってよく女に間違われて不快な思いをした。素直に頭を下げる。
「すみませんでした」
「うん、気にしてないから。でもこれからは気を付けた方が良いよ。近藤さんは生徒会メンバーだし、君が問題起こすとおねえさんが困ることになるよ」
「由利恵はあねなんかじゃない!」
裕紀の感情が一気に振り切れた。頼子が眉をひそめたのは怒鳴られたからではない。
彼への嫌悪ゆえだ。
「やめて、裕紀」
その先を咎める口調だったがかまうものか。
「俺の好きな人だ。愛してるんだ」
頼子ではなく、由利恵に向けて告げた。何度も言葉にし続けた想いは拒まれても褪せることなく、いっそう鮮やかに色づいていく。
ずっとずっと大事で、この人以外はいらない。
「裕紀……」
なまじ顔が良いだけに、裕紀の表情も言葉も胸に迫るものがある、と頼子は思った。由利恵も返す言葉を無くしている。込み上げる不快感は相変わらずだが、それをスープとともに飲み下した。
「あのさ、おとうとくん、そういうのは良くないと思うよ」
「おとうとって言うな。俺たちは本当の兄弟じゃない」
「知ってる。従姉弟でしょ」
幼少時、両親を事故で亡くした由利恵は兄夫婦に引き取られた。その子供が裕紀であり、彼は一つ上の美しい従姉にずっと恋心を抱いている。
有名な話だ。そしてそれゆえに、この新学期に起こるであろうことはそれなりに噂されていた。
「近藤さん、話してないんだ?」
何を、と言わなくても伝わったらしい。由利恵は小さくうなずいた。他人事だが頼子は心配になってしまう。
二人の視線での会話に裕紀は苛立った。せっかく高等部に上がって、これからずっとそばにいられると思っていたのに何か嫌な予感がした。この一年間の焦燥はすでに限界まで膨らんでいる。
急にきれいになった、由利恵。その意味を考えたくない。
「ごちそうさま。じゃあ私は行くね」
微妙な雰囲気の二人を残してさっさと食堂を出る。彼らがどうなろうと自分にはまったく関係ないのだ。




