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メンタルとは本当にすべてを左右する。
その日を境に伸び悩んでいたタイムが一気に元に戻った。さすがに11秒をコンスタントに切るのは今後のトレーニング次第だが、気負っていたものが消えた。
それによって部員の嫉妬も戻ってきたが、以前のように暗くまとわりつくものではなかった。
憧れも妬みも己を成長させる糧になるのだ。
「頼子」
部活後、寮の前で呼び止められる。裕紀は生意気にも呼び捨てにするようになった。せめて先輩をつけろと言ったのだが、尊敬していないから無理だと言われた。
「なによ、裕紀」
だから自分も呼び捨てにすることにした。可愛らしく〝くん〟など付けてやるものか。
目の前に立つ頼子を裕紀は眺めた。やっぱりそこまでではない、と思う。だが物は試しだ。
「ちょっとじっとしてて」
「え? え! ちょっと何すんの!」
いきなり抱きしめられた。
抗議を込めて腕を叩いたが放す気配がない。これが他の男子なら問答無用で鍛えた脚力で蹴りを入れている。そうしないのは裕紀が青少年にありがちな激情を自分にぶつけるはずはないと信じていたからだ。
なので思惑をもって背中を撫でられた瞬間、頼子は硬直した。
脳が押さえ込んでいた出来事をすぐさま追体験させる。
可愛いと、大好きだとささやきながら背中をなぞる兄と、ふるえることしかできなかった自分。
こみ上げた吐き気に膝を折る。様子がおかしいことに気付いた裕紀はすぐに頼子から距離を取った。
嘔吐感とふるえが収まるまで二人は黙ったままだった。
「……なんでこんなことするの。私は近藤さんじゃないのに」
「由利恵じゃなくてもできるんだって確認したかったんだ」
「なにそれ、遊び人みたい」
「少なくとも由利恵以外だと頼子にしかできない。けど頼子はだれが相手でも無理みたいだな」
「好きな人だったら平気だよ」
「だから、その相手でも無理だっただろ」
なにを言っているのだろう。怪訝に思っていると裕紀は事も無げに言った。
「頼子は俺のこと好きだろ」
「は」
「気付いてなかったわけ」
あんな目で自分を見ていたくせに自覚がなかったのか。裕紀は人の視線にはかなり敏感だと自負している。由利恵以外の好意はわずらわしくて、少しでも感じたら遠ざけていた。
そうしなかったのは頼子だけだ。
「私が裕紀を……好き」
言われて初めて気付いた。
思い返せば、彼が由利恵のために走ったあのときから惹かれていた。
その事実に唖然とする。しかも本人から指摘されるなんて間抜けすぎる。
「それで、俺としてはまだ由利恵が一番なんだよ」
「知ってるよ!」
恋を自覚したとたん振られるだなんてあんまりだ。涙目になってしまう。
「けどなにかしたいと思うくらいには、頼子のことも好きだ」
「……なにかって、なによ」
「さっきみたいなこと」
背中の感触を思い出して身震いする。
「そういう反応されると困る。頼子がそういうふうになるのって、あいつとちゃんと話してないからだろ。だからこじらせるんだ」
「何が分かるの」
「俺だから分かるんだよ」
姉弟そろって似たようなことを言う。
「一緒に頼子の家に行ってやるよ」
「か、簡単に言わないで!」
「簡単なことだよ」
言葉通りの軽さだ。
頼子は髪をつかもうとして、そこが短いことに気付く。触られたくなくて切ったのだ。女として見られることが耐えられなかった。
夏休みも冬休みも、極力学校にいるようにした。それができるように忙しい部活に入った。
逃げる場所として陸上部を選んだのだ。
朝早くに出発し、バスでふもとの駅に行き、そこから電車を乗り継いでの片道三時間。
海が見える町が頼子の故郷だった。
懐かしい一軒家を前に頼子は立ちすくんだ。ここまで本当に簡単だった。裕紀がいたおかげで移動時間も半分以下に感じられた。
「お帰りなさい、頼子ちゃん」
義理の両親は笑顔で迎えてくれた。その後ろにいる兄もほほえんでいる。
「まあまあ、もしかしてその男の子がお友達?」
「初めまして。近藤裕紀です。頼子先輩にはいつもお世話になっています」
礼儀正しく挨拶した。
「頼子ちゃんがお友達を連れてくるって聞いて楽しみにしてたのよ。さあ上がって」
「お邪魔します」
きちんと靴をそろえて入る。もっと傍若無人かと思っていたので頼子は言葉もない。
ちょうどお昼時だったのでダイニングテーブルには料理がずらりと並んでいた。クリームシチューにコーンがたっぷりのサラダ、柔らかなパン。頼子の好きなものばかりだ。
「うふふ、まさか男の子をだなんて思いもしなかったわ。ねえ、本当は彼氏なのではないの?」
「お母さん!」
しかし裕紀は照れくさそうに笑った。だれだこいつ、と頼子は本気で思った。
「お付き合いするなら、どうしてもご両親に挨拶してからでないと」
「まあまあまあ! どうしましょう、あなた!」
「うむ」
義父は渋い顔を崩さないが、裕紀に対して好印象を抱いているのが長年の経験から察せられた。
「頼子ちゃんも大きくなったのね。お兄ちゃんのお嫁さんになるって言っていたあの子が」
感慨深そうに義母が言うと、兄はおだやかにうなずいた。
「僕は今でもそのつもりだよ。彼が嫌になったらいつでも戻っておいで」
頼子は曖昧にうなずいた。裕紀はその様子を見ながら、良い家だと思った。両親が頼子を大切にしているのは伝わってくるし、この兄も難はあっても無理強いはしていないようだ。
けれど頼子は萎縮していた。か弱く、良い子であろうと頬をひきつらせて笑っている。
これと同じものを裕紀は見たことがあった。
「頼子と僕が結婚したら本当の家族になれる」
子供のころ、由利恵に言ったことのある台詞だった。
裕紀は苦いものを静かに飲み込んだ。
「頼子先輩は今でも家族でしょう?」
裕紀の顔を見つめた。するとこちらに視線を向け、ほほえんでくれた。
「そうね、お兄ちゃんと結婚しなくても家族だわ」
「ああ、私たちの大切な娘だ」
こらえられなかった。涙が膨れ上がってそのまま頬を濡らした。裕紀が目元をぬぐってくれるものだからますます止まらない。
兄の視線は変わらなかった。
けれど自分は変わった。本当にこんなにも簡単なことだったのだ。




