02.推しに納税できないのなら
寝起きの頭を抱えたまま、窓ガラスの中の美少女と見つめ合っていた、その時。
不意に、彼女の頭の中で、ぱちんと何かが弾けた。
そして次の瞬間、堰を切ったように、“もう一つの記憶”が流れ込んでくる。
シャーロット・エヴァレット。
エルデン王国、エヴァレット伯爵家の一人娘。
好きな食べ物はマドレーヌで、刺繍は苦手。ダンスはそこそこ。
そして——夢中で推している、赤い瞳が印象的な舞台役者がいる。
「待って。これ以上思い出してはいけない気がするっ……!」
しかし彼女の頭は、律儀にも昨夜の分まできっちりと再生を続けた。
観劇の帰り。
推しを一目見ようと、渋るメイドを引きずり劇場の裏手に回ったシャーロットは、見てしまったのだ。
薄暗い路地で、推し(男)が、見知らぬ誰か(男)と、それはもう濃密な密会をしている現場を。
衝撃のあまり後ずさった足がドレスの裾を踏み、頭から派手に転倒。
どうやらそのまま気絶して、屋敷に運び込まれたらしい。
「やっぱり黒歴史だった!!」
しょうもないこの体の持ち主は、世界は違えど間違いなく自分だ。
そう確信を抱いた彼女だったが、大事なのはそこではない。
大事なのは、記憶の中に、聞き覚えのありすぎる固有名詞が並んでいることだ。
——エルデン王国。
それは、紗代が人生の余白すべてを捧げていた、あのWebマンガの舞台と同じ名前だった。
王太子ユリウス・オーレリアン、生後間も無く行方不明になったものの、六年前に奇跡的な帰還を果たした王女レジーナ。
そして、大公家嫡男であり、王国軍総司令官——アーサー・ブランドン。
彼女の最愛の推しであり、スマホを額にめり込ませる原因となった、あの男だ。
「……この世界で、推しが息をしている……?」
シャーロットは、呆然とその場に座り込んだ。
推しがいる。
同じ空の下に、実在するのだ。
王女の帰還から六年ということは、時系列的には、おそらく原作開始の少し前。
原作を繰り返し読んだ紗代の記憶によると、原作開始時点で王女は帰還から七年が経っていたはずだった。
ちなみに、エヴァレット伯爵家という家名に、彼女は心当たりがなかった。
つまり彼女は、名もなきモブ令嬢に転生したらしい。
しかし、彼女は思った。
モブで結構。むしろ好都合である、と。
……彼女は推しの部屋の壁になりたいタイプのオタクだった。
◇◇◇
目覚めた直後は神に感謝していたシャーロットだったが、感謝の念が逆恨みに変わるのに、大した時間はかからなかった。
「どうして私は伯爵令嬢なの……!?」
シャーロットは、自室のベッドに突っ伏して、この世に絶望していた。
もし平民に生まれていれば、推しの領地であるブランドン大公領に即座に移住した。
そしてそこで領民として、納税する。
——つまり、合法的に推しに課金ができたというのに。
「……こうなったら、大公領の平民と結婚するしかない? いや、でもそんな面倒なことを引き受けてくれる男性に心当たりなんてないし……」
まさに八方塞がりだ。
しばらく枕に顔をうずめて己の身分を呪っていたシャーロットだったが、やがてむくりと起き上がると、妙に据わった目でつぶやいた。
「……札束で、殴ろう」
シャーロットは考えた。
ないものを嘆くのではなく、あるものでなんとかしよう。
今までだって、ずっとそうして推し活をしてきたじゃないか、と。
「肖像画って、一枚いくらで描かせられるのかしら」
公式グッズがないなら、自給自足でなんとかすればいい。
例えば、伯爵家お抱えの画家に依頼して、等身大の推しの肖像画を自室に飾るのはどうだろうか。
おはようからおやすみまで、静かに見守ってくれる推し。なんて素敵なの!
そう考えた彼女は、自分を全力で褒めちぎった。
そうと決まれば、行動あるのみだ。
まずは本当に推しが存在するのか確かめるため、推しが常駐している王城に行かねばなるまい。
「……お嬢様!? いけません、まだ安静にしていないと!」
「気分転換に外の空気を吸わないと! さあ行くわよ!」
包帯頭のままメイドを引きずり屋敷を飛び出した令嬢に、使用人たちの悲鳴が上がる。
しかし、推しのことしか頭にない彼女の足が止まることはなかった。
◇◇◇
半ば強制的に馬車を走らせ、城下の広場に着いた時、あたりは妙にざわめいていた。
聞けば、国境警備から戻った王国軍が、王城へ凱旋するのだという。
「王国軍!?」
シャーロットはその単語を聞くなり、メイドの制止を振り切り人垣をかき分けると、最前列へと体をねじ込んだ。
やがて、蹄の音が近づいてきた。
王国軍が帰城したのだ。
先頭は、一際大きな黒馬。
その背に——推しが、いた。
漆黒の軍服からわずかにのぞく、眩しいほどに白い肌。
遠目にも分かる長身と、がっしりとした体格。
風になびく艶やかな黒髪の下で、凍てついた黄金の瞳が、民衆の歓声にも揺らぐことなく、真っ直ぐに前だけを見据えていた。
「……っ!」
シャーロットは、呼吸を忘れた。
スマホ越しに何百回と拝んだ推しが、動いている。
正確にいえば、動いているのは推しを乗せている馬だが。
とにかく、次元を超えて、今まさに目の前に推しが存在しているのだ。
気づけば彼女は、両手を組んで拝んでいた。
傍から見れば、王国軍の無事を喜び神に感謝する、愛国心あふれる貴族令嬢以外の何者でもない。
実際は私欲に満ちあふれたただのオタクだが、幸いなことにその場にそれを知る者は誰もいなかった。
やがて推しの姿が見えなくなっても、シャーロットはしばらくその場から動くことができなかった。
尊すぎて、胸がいっぱいになってしまったのだ。
先ほど息を止めていた分まで、推しと同じ空気を吸おう。
そう思ったシャーロットがふわふわした頭で深呼吸をした、その時だった。
風に煽られて飛んできた一枚の紙が、彼女の顔面に張り付いた。
「んぎゃっ!」
突然酸素の供給を止められた彼女は驚き、慌てて紙を引き剥がして投げ捨てようとして——手が、止まった。
その紙は、王太子補佐官試験の募集告知だった。
それだけならなんの興味もなかったのだが。
『合格者は王城に常駐し、ユリウス王太子殿下の補佐を務めるものとする』
この一文を読み、シャーロットの脳内で閃光が走った。
王太子ユリウスは、推しの幼馴染にして、親友だ。
原作で、推しの一番近くにいた。
そんな男の補佐官ともなれば、推しの生息域で息をすることができるだけでなく、何か推しの役に立てる機会があるかもしれないと、彼女は閃いたのだ。
納税どころの騒ぎではない。
これはきっと——
「……天啓だわ」
神よ、感謝します。
彼女は告知の紙を胸に抱きしめ、涙を一筋流した。
そして、思った。
“推しを幸せにする”という崇高な使命のために、神がこの道を示されたのだ、と。
シャーロットは、そう強く信じ込んでしまった。
◇◇◇
その日の夕食の席にて。
エヴァレット伯爵夫妻は、頭を打った直後ですら落ち着きのない娘をたしなめるつもりでいた。
しかし、先手を打ったのはシャーロットだった。
「お父様、お母様。私、王太子補佐官になります!」
娘の宣言に、伯爵はワインを吹き出し、夫人はグラスを落とした。
無理もない。
王太子補佐官試験といえば、国中の秀才が集う最難関試験だ。
歴代の合格者は全員が男性で、建前上性別に制限はないが、そもそも令嬢が受験すること自体、前代未聞である。
「シャーロット、お前、頭を打ったせいで——」
言いかけた伯爵は、娘の目を見て口をつぐんだ。
新緑のような緑が、なぜかギラギラと燃えたぎって見える、あの目。
推していた役者の舞台に向かう時と、同じ目だったのだ。
「……せっかく落ち着くと思ったのに」
「ああ……また始まったな……」
夫妻は顔を見合わせると、新しく用意されたワインを勢いよく喉へと流し込んだ。
そんな両親の心境など知る由もないシャーロットは、その日から猛勉強を始めた。
何しろ、女の身で合格を掴み取るには、並の点数では足りない。
文句のつけようがない、圧倒的な結果——男性受験者を一人残らず蹴散らすような点数が必要だと考えたのだ。
過去の試験問題をありったけ取り寄せ、法律や歴史、経済や外国語などを片っ端から頭に叩き込む。
寝食を惜しんで一日中机に向かい、狂ったように何かを書き殴り続ける令嬢を、使用人たちは本気で心配した。
何かが取り憑いたのではないか、という意味で。
そんな中、伯爵夫妻だけが、生暖かい目で娘を見守っていた。
「あの集中力を、少しでも結婚に向けてくれたらなぁ……」
「あなた、それは高望みがすぎるわ……」
そして、数ヶ月後——。
エヴァレット伯爵家に、王城から一通の書状が届いた。
試験の結果は、合格。
それも、ただの合格ではない。
歴代最高得点——史上初の、満点合格を叩き出したのだ。
かくしてシャーロットは、初の女性王太子補佐官の座を射止めることに成功した。




