01.彼女の推し
十回を超える巻き戻りの果てに、シャーロット・エヴァレットは悟った。
目の前でメンヘラムーブをかましているこの男——もとい王太子ユリウスを含む、“死亡予定キャラ”を全員救わなければ、推しが幸せになる姿を見ることができないということを。
——そしてその事実は、彼女を絶望へと突き落とした。
「……ねえ、シャーロット。君は強いから、きっと大丈夫だよね」
王太子執務室。
うずたかく積まれた書類の向こうで、この国で最も高貴な血を引く美青年が、どこか遠くを眺めながら儚げに微笑んだ。
エルデン王国王太子、ユリウス・オーレリアン。
眩いばかりに金色に輝く髪に、晴れた日の海のように青い瞳という、王族の特徴を色濃く継いだ美貌。
穏やかな気性と完璧な立ち居振る舞いで、理想の次期国王と名高い青年である。
しかし、シャーロットだけは知っていた。
この男に、致命的な欠点があることを。
「恐れながらユリウス様。まったく大丈夫ではないので、こちらの書類にご署名をお願いします」
「いや……きっと君なら、僕がいなくても——」
「いてください。ユリウス様のご署名がないと、今年の建国祭のパレードは中止になりますよ」
そんなことになったら、推しの晴れ姿が見られなくなるじゃない! というシャーロットの胸の内など、当然ユリウスは知るよしもない。
無理やりペンを持たされたユリウスは、厳しい表情を浮かべるシャーロットを見つめてから、ふと口元を綻ばせた。
「ふふ。君といると、たまに自分が王太子だということを忘れそうになるよ」
「……不敬な補佐官ですみませんねぇ」
なんでもいいけど仕事をしてくれ、と大きく顔に書いたシャーロットに、ユリウスは再び笑い声をあげた。
ようやく手を動かし始めた目の前の残念な美貌の持ち主に、シャーロットは気づかれないように視線を向ける。
顔色は悪く、目の下のクマは濃い。
昨夜もろくに眠れていない上に、また朝食を抜いたのだろう。
——ユリウスは、病んでいる。
それも、随分と年季の入った病み方だ。
完璧な王太子の仮面の下にいるのは、油断するとすぐに死にそうになるメンヘラ。
ユリウスを敬愛してやまない国民が知ったら、卒倒するに違いない。
「……前途多難だなぁ」
ポツリとこぼした独り言にユリウスが首を傾げたが、シャーロットは黙殺した。
◇◇◇
シャーロット・エヴァレットは転生者だ。
前世の彼女——紗代は、どこにでもいる会社員だった。
命を削るほどの激務ではないが、当たり前に嫌な上司もお局様もいる、ごくごく普通の職場。
そこで彼女は、やりがいも特別高い給与もないが、そこそこの安定性を享受しながら、飽きるほど同じ毎日を繰り返していた。
そんな灰色の毎日の中でも、紗代はそれなりに幸せだった。
なぜなら、スマホの中にだけは、彩りに満ちた世界が広がっていたからだ。
——そう、広告がきっかけで読み始めた、とあるWebマンガの世界が。
生後まもなく誘拐され、貧しい村でみなしごとして育った、美しき悲劇の王女。
そしてそんな王女を影から支える、王国軍総司令官であるヒーローの物語。
ヒーローであるアーサー・ブランドンは、漆黒の軍服がよく似合う、長身の軍人だ。
戦場では凍てついた視線一つで敵を黙らせる、絶対王者。
感情など持ち合わせていないように見える冷徹な男が、しかし、清廉な王女の前でだけ跪くのだ。
まるで従順な騎士か、敬虔な信者のように。
初めてアーサーが跪くシーンを見た瞬間、紗代の心臓は見事に撃ち抜かれてしまった。
以来、彼女の生活の余白はすべて“推し”で埋まったわけだが、一つだけ、重大な問題があった。
公式グッズが、ないのだ。
アクスタはもちろん、ステッカーもフォトカードも、紙の単行本すらない。
あるのは、週に一度の更新のみ。
しかし、百円にも満たない課金額では到底貢いだとは言えないし、スマホを開かないと推しと会えない。
日常の中でも推しを感じさせてくれ、頼むから——それは初めての推し活で彼女が直面した、最大の問題であった。
そこで彼女は、疲れた頭で考えた。
グッズというのは、概念の問題では? と。
始めは、ピアスだった。
推しの瞳と同じ色の、イエローダイヤモンドのピアスを購入し、毎日着けた。
すると不思議なことに、理不尽な要求を通そうとする営業の顔面にマウスを投げつけたくなっても、ピアスに触れると心が穏やかになったのだ。
そこから、彼女の身の回りの物は、推し一色となった。
推しの軍服をイメージした配色の服、いわゆる概念コーデで出社するのは当たり前。
指輪もネイルも推しカラー、ついには推し香水まで作ってしまった。
ちなみに、推しの軍服は真っ黒なため、同僚には「お葬式?」と言われたが聞き流した。
そんな推し活生活の果てに、運命の日は訪れた。
——最終話の、更新だ。
推しは必ず、王女と結ばれる。
あれだけ人生を捧げたのだから、あの尊い二人は末永く幸せになるのだ。
紗代はベッドに寝転がり、日付が変わると同時に厳かな気持ちで画面をスクロールし——叫んだ。
「……誰だよ隣国の王子って!!」
王女は確かに結婚した。
しかしその相手は、なんと、ぽっと出の隣国の王子だった。
王女のためにすべてを捧げた男が、すぐ隣にいるというのに。
挙げ句の果てに、当の推しは失意のまま国を去り、消息不明。
読者に——というより紗代にとって、地獄のような結末だった。
「ふっざけんなよっ!」
深夜テンションも相まって、怒りが臨界点を易々と突破した紗代は、仰向けのまま勢いに任せて手元のスマホを全力で放り投げた。
これが、よくなかった。
スマホはエアコンに当たったと思ったら、素晴らしい角度で跳ね返り——紗代の額に、直撃した。
予想外の衝撃に、視界が真っ白になり。
彼女の意識はぷつりと途絶えた。
◇◇◇
目を覚ました時、彼女がまず感じたのは、心からの安堵だった。
生きている、良かった。死因がスマホは流石に嫌すぎる、と。
そして次に感じたのは、違和感だ。
意識を失う直前まで、確かにベッドに横たわっていたはずなのに、なぜか目の前に天蓋があるのだ。
コスパ重視の彼女のベッドに、そんな貴族めいた代物はついていない。
「……え?」
紗代は跳ね起きると、辺りを見回した。
猫脚の家具に、重厚なカーテン。ついでに言うと、カーテンも壁紙も、寝具すら圧が強い真紅で統一されている。
どこからどう見ても、見覚えのない部屋だった。
彼女は混乱しながらも、外の景色を確かめようと、窓に駆け寄った。
そして、窓ガラスに映り込んだ人影を見て、固まってしまった。
驚きに見開かれた、まるで新緑のような色をしたパッチリと大きな瞳。
緩くウェーブを描く淡いブロンドの髪には、包帯が見え隠れしている。
恐る恐る、自分の頬に触れてみる。
すると、窓の中の少女も、手を頬に当てた。
「こっ、これは……!」
どう見ても日本人ではあり得ない顔立ちに、いかにも貴族のご令嬢といった部屋。
これは、あれだ。読んだことがある。
あのWebマンガが掲載されているアプリで、山ほど履修した展開だ。
だが、それにしても——
「……誰?」




