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日本からの手紙  作者: 程猟
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シンソウ

研究室のデスクに向かっても、現在の研究課題にはどうしても集中できなかった。結局、休暇願いを出して研究室を後にしたものの、まっすぐ家に帰る気にもなれず、キャンパス内のカフェに入った。ノートPCを広げ、宮原の手帳と並べて、集めたすべてのデータを分析し始めた。


資料を読み進めるうちに、ある悍ましい仮説が頭をもたげる。……ああ、説明が前後してしまったが、この分析の最中に、恋人がやってきた。かつての教え子だ。教え子との交際を不謹慎だと責めないでほしい。大学においてこの手の関係はどこでも珍しくないし、そもそも物理学者などという手合いは、純真な学生くらいにしかまともに相手にされないのだから。何はともあれ、関係は極めて順調だった。こちらは彼女の容姿にすっかり骨抜きにされており、向こうはこちらの語る摩訶不思議な物理現象に目を輝かせる。実を言えば、彼女は大のオカルト好きでもあった。


あの日、突然「今すぐ会いたい」と言い出したのも彼女だった。女性特有の脈絡のない思い付きというのは、一生かかっても理解できそうにない。とはいえ、こういう時は黙って従うのが身のためだ。誘いに応じてカフェで合流すると、休暇を取った理由を尋ねられた。嘘をつくのが苦手なため正直に打ち明けると、かえって知的好奇心を刺激してしまったようだった。アトランティス文明の遺物とやらを自分も調べてみたい、と言い出したのだ。


一瞬躊躇すると、彼女はくすくすと笑い、本当に呪いや古の神様を信じているのかとからかってきた。ちょうどその時、注文したコーヒーが出来上がったとカウンターから呼ばれ、私は席を立った。数十秒後、カップを手に戻ると、すでに彼女の姿はなかった。机の上には、私のUSBメモリが抜かれたノートPCと、「データ、ちょっと借りるね!」と書かれた付箋だけが残されていた。

慌てて追いかけようとしたが、キャンパスの雑踏に消えた後だった。これが、すべての破滅の引き金になるとは知る由もなかった。


彼女を見送った後、胸に渦巻く悍ましい仮説を携えて、医学分野も内包する人間科学研究科へと足を向けた。かねてより親交のあった心理学教授、吉田先生を訪ねるためだ。興味本位で講義を何度か聴講したことがあったが、名声ばかりを追い求める有象無象の学者とは違い、真摯に学問と向き合う実直な人物だった。講義の際、一般人ならまず考えもしないような突飛な質問をぶつけたことで、気に入られたらしい。その後、学内の行事で個別に話す機会に恵まれ、それ以来、折に触れて意見を交わす関係が続いていた。


研究室のドアを叩き、挨拶もそこそこに、単刀直入に切り出した。


「精神病が、感染することはあるでしょうか」


先生は目を丸くして凝視し、長い沈黙の後、こう返してきた。


「遺伝の間違いではないかね?」


「いいえ、感染です。風邪のように、人から人へうつるという意味です」


「通常、それはあり得ない。精神病は形ある病原体によって引き起こされるものではないからね。ただ、例外として『感応精神病』というものがある。精神病患者との親密な接触、あるいは盲目的な崇拝や迷信によって、周囲に同じ症状が引き起こされる現象だ……」


「患者の遺した『文章』を読んだだけで、感応することは?」


「それは……理論上、否定はできないが……」先生は言葉を切り、こちらを探るように見つめた。「一体、何があったんだね?」


さすがは心理学の権威だ。こちらの表情だけで、尋常ならざる事態が起きていることを見抜いていた。そこで、宮原の不審死から手帳のコピー、そしてアトランティスの遺物を巡る連鎖自殺のタイムラインまで、知り得たすべてを包み隠さず打ち明けた。


先生は険しい表情で考え込んでいたが、やがて重い口を開いた。


「松田教授と院生の自殺については耳にしていたが、これほど多くの不審死が地続きになっていたとは。よければ、その資料を預からせてもらえないかね。少し専門的な見地から精査してみる。追って連絡しよう」


この分野における第一人者だ。専門外の人間が抱え込むより、先生に委ねる方が賢明なのは明らかだった。異論はなく、すぐにデータを手渡した。


それから約三週間後、先生から呼び出しを受けた。


「小出君、預かった資料はすべて読んだよ」


先生の声はひどく低く、かつての活力がすっかり失われていた。当時は結果を知りたい一心で、その異変に深く気を留めることもなかった。


「先生、どうでしたか? 何か分かりましたか」


「彼らは確かに自殺している。強要された形跡も、脅迫された痕跡もない。みずからの意志による死だ」


驚きはなかった。ただ無言で続きを促す。


「全員、鬱病によるものだ。自死の瞬間、極めて重篤な鬱状態にあった」


「法医の鑑識結果とも一致しますね」


「その通り。だが知っての通り、精神疾患はインフルエンザや赤痢のような感染症とは違う。外部から病原体が侵入するのではなく、本人の精神的均衡が崩れることで発症する。だが、人類がこれほど長く研究を続けながら、本質的な発症メカニズムは未だ闇の中だ。……以前話した、感応精神病のことは覚えているかね?」


「ええ、覚えています」と私は答えた。


先生は机の上の資料を睨みつけるように凝視したまま、絞り出すような声で言った。

「小出君、あの資料だ。あれが一連の自死の起点に違いない。一見すれば失われた文明のフィクションだが……あれは『認知の罠』だ」


「どういう意味ですか?」


「手帳の記録を見て、君も気づいたはずだ。直接資料を読んだ者だけでなく、あの資料に触れてすらおらぬ松田の妻や法医たちまでが死んだ。物理的な接触経路が繋がらない」


「ええ、そこが最大の矛盾です」


「いや、経路は繋がっている」先生は手に持ったペンを、執拗なほど一定のリズムでカチカチと鳴らした。「彼らが接触したのはアトランティスの原物ではなく、死者が書き遺した『日記』や『遺書』だ。つまり、感染した脳が出力した『テキスト』そのものが、次の感染源になっている」


「文字はただの記号です」私は反論した。「質量もない記号が、どうして脳を自死に至らせるほどの鬱病を引き起こすのですか?」


「人間の脳も、認知というコードで動く一種の生体受信機だからだよ。あのテキストは、そのOSをハッキングするウイルスコードなんだ。潜り込み、寄生し、そしてシステムを内部から崩壊させる」


「ハッキング……ですか?」


「ああ。脳に侵入したコードは、ホストに強烈な『創作の衝動』を植え付け、自己複製を外部へ出力させようとする。実は、あれに目を通して以来、私は毎日日記を書く衝動に抗えずにいる。……まあ、かすかな抑鬱感はあるが、薬も処方しているし理性は極めて正常だ。何より私は心理学者だからね、この手の精神的な自己暗示への対処法は熟知している。私のことは心配いらないよ。ただ、問題は、ウイルスとしてのライフサイクルが完了したホストがどうなるか……。私はね、アトランティスという超古代文明が滅び去った真の原因も、これだったのではないかと睨んでいるのだよ」


先生はペンをカチカチと鳴らす手を止め、不気味なほど虚ろな目を私に向けた。


「最後は……恐ろしいほどの冷徹さで、淡々と自死への手順を『実行』してしまうのではないか。意識は驚くほどクリアなままで、死ぬことこそが唯一の、最も論理的な選択肢なのだと、己の脳に思い込まされてしまうような……そんな感覚かもしれない。潜伏期は人によって様々だろうが、一度その引き金が引かれてしまえば、もう自力では止められないのかもしれないね」


その言葉が、私の脳裏を撃ち抜いた。


梨絵だ。彼女が私のUSBメモリを持ち帰ってから、すでに数週間が経っている。普段通りに明るく過ごしている彼女が、もし、あの終わりの引き金を引く直前だとしたら――?


身の毛もよだつようなパニックが脳を支配した。私は震える声で失礼を告げると、研究室を飛び出した。走りながら梨絵に何度もダイヤルする。だが、呼び出し音だけが虚しく響く。


生きた心地もしないまま車に飛び乗り、彼女のマンションへと死に物狂いでアクセルを踏み込んだ。

たどり着いたその刹那、視界の端で、隣の高層ビルの屋上から人影が宙を舞うのが見えた。


アスファルトに叩きつけられたその体に駆け寄ると、果たして、それは梨絵だった。体を起点に、鮮紅の血がじわじわと路面に広がっていく。


その後のことは、まともな記憶がない。後から聞いた話では、私は狂ったように彼女を抱き起こし、名前を絶叫し続けていたそうだ。


正気に戻った時、そこは警察署の取調室だった。一人の刑事が梨絵のことを訊ね、間を置かずに入ってきた別の刑事が、吉田先生の件を問い詰めてきた。先生も死んだ、と。やはり自殺の疑いだった。


先生の仮説を警察に話すことはしなかった。信じてもらえるはずもなく、下手をすれば殺人容疑をかけられるのがオチだからだ。


アトランティスの小説の原典が今どこにあるのか、知る由もない。ただ、古村なお子が住んでいたマンションの管理人によれば、彼女は生前、アメリカにいる学者の知人へ何らかの荷物を送っていたそうだ。


海の向こうまでは、手が出せるはずもない。できることと言えば、身の回りにある、この「死の病原体」を媒介し得るすべての痕跡を消し去ることだけだった。手元のデータは根こそぎ消去し、宮原の手帳のコピーも灰にした。ネットに詳しい学生を頼み込んで、梨絵のブログをハッキングして完全に閉鎖させた。警察が押収した宮原の手帳の原本も、噂では厳重に封印され、書庫の奥深くに眠っているとのことだ。


私自身、いくつかの遺書に目を通し、アトランティスの物語もごく一部だが読んでしまった。だが、現時点で鬱の兆候は微塵もなく、感染は免れたと確信していました。だからこそ、こうして君に手紙を書くことができたのだと……そう思っていました。


しかし、今、この手紙を書き進めながら、私は底知れぬ恐怖に直面しています。


なぜ、宮原はあの手帳を私に送ってきたのでしょう。私たちは決して親しい友人ではありませんでした。ただの、偶然居酒屋で出くわしただけの同級生です。今なら分かります。彼の意志ではなく、彼の脳内の「言葉」が次のホストを求め、最後に目の前にいた私を選ばせたのです。


では、なぜ私は今、九年も連絡をとっていなかった君に、この手紙を書いているのでしょう。


私の脳が、かつての記憶を漁り、君という「オカルトを信じる男」を次のターゲットとして選別したからではないのか。この手紙を書きたいという私の意志は、本当に、私のものなのか。


手が止まらないのです。恐ろしい衝動が、このペンを走らせています。


程くん、お願いです。もしこの手紙が届いたら、読まずに燃やして


いや、遅すぎましたね。君はもう、ここまで読んでしまったのだから……


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