第9話 商人の正体
裁判に勝ったら、お客が増えた。皮肉なものだ。
王都の裁判で「使用人三十八名が自ら辞めて元主人についてきた宿」の話が広まったらしい。商人たちの間で「その宿の料理が絶品だ」「元侯爵夫人が切り盛りしている」と噂になっている。
銀木犀亭は連日、部屋が埋まるようになった。六部屋しかない小さな宿だが、予約が二週間先まで入っている。
「繁盛ですね、奥様」
ベルタが宿帳をめくりながら言う。
「繁盛、というか、急すぎて追いつかないの」
人手が足りない。十四名で回しているが、客が増えるとオスカルの厨房は戦場になるし、ベルタの采配にも限界がある。
もっとも、嬉しい悲鳴ではある。開業当初は野良猫しか来なかったことを思えば。
◇◇◇
クラウスが、また改善提案を持ってきた。
「朝食の提供時間を三十分前倒しにしたほうがいい。商人は朝が早い。日の出前に出発する者も多い」
「それは確かに」
「それから、二階の客室の窓枠が傷んでいる。このままだと冬に隙間風が入る。修繕の見積もりを取ったほうがいい」
「見積もりまで?」
「ああ、近くの大工に聞いてみた。銀貨十二枚でやってくれるそうだ」
待ってほしい。
「クラウスさん、あなたは宿泊客ですよね」
「ええ」
「なぜ大工に見積もりを」
「散歩のついでに」
散歩のついでに窓枠の修繕見積もりを取る宿泊客。
「それに、帳簿の付け方が少し非効率です。日次の売上と経費を別帳簿にしたほうが月次集計が楽になる」
「ちょっと待って」
「はい」
「商人の知識でそこまでわかるものですか」
クラウスの口が止まった。
耳が赤くなっている。
「いろいろな宿を見ますから」
「いろいろな宿を見る商人が、帳簿の改善案まで出すの?」
「出します」
「本当に?」
「本当です」
嘘が下手だ。この人は嘘が壊滅的に下手だ。耳が赤い。語尾が消える。帳面を握る手に力が入っている。
でも、追及しなかった。
追及しない理由は自分でもよくわからない。この人の正体を知ったら、今の関係が変わるのが怖いのかもしれない。
信じたい。信じて裏切られるのが怖いだけで。信じたいのは、本当なのだ。
◇◇◇
翌日、宿の裏庭に出ると、クラウスが何かを植えていた。
「何をしているんですか」
クラウスが土だらけの手を隠そうとして失敗した。膝にも土がついている。
裏庭の花壇に、小さな苗が並んでいた。
「これ、菫じゃないですか」
「ええ。春になったら咲くかと思って」
菫。紫色の小さな花。わたしが好きだとは言った覚えがない。
「わたしが菫を好きだって、誰に聞いたの?」
「ベルタさんに」
ベルタ。余計なことを。いや、余計ではないのだけれど。
「お客様に庭仕事をさせるわけには」
「庭仕事ではなく、趣味です」
「趣味で宿の庭に花を植える?」
「植えます」
この人の「植えます」「出します」「本当です」の押し通し方には、ある種の頑固さがある。
土を払ったクラウスの手が視界に入った。白い手にペンだこ。今日は土の汚れが加わっている。
「クラウスさん」
「はい」
「あなた、本当は商人じゃないでしょう」
風が吹いた。銀木犀の葉が揺れる。
クラウスの表情が変わった。ほんの一瞬、何かが剥がれたような顔。
「なぜ、そう思うのですか」
「手がきれいすぎる。帳簿の知識が深すぎる。建築のことに詳しすぎる。法律家の知り合いが貴族としか思えない人だった」
全部言った。
クラウスが黙った。裏庭に秋の虫の声が響いている。
「ご明察です」
「でも、今は聞かない」
クラウスが目を見開いた。
「聞かないの?」
「人にはそれぞれ事情があるから。あなたが話したくなった時に、聞きます」
クラウスが何か言おうとして、口が開いて、閉じて、もう一度開いて、結局出てきたのは別の言葉だった。
「あなたは、すごい人だ」
「合理的、じゃなくて?」
「いえ。すごい、です。合理的より、ずっと」
クラウスの耳が赤くなった。顎のラインまで色が広がっている。この人、ここまで赤くなれるのか。
◇◇◇
夜、宿帳を整理していると、クラウスの滞在記録が目に入った。
もう二ヶ月以上いる。「未定」と書かれた滞在期間は、いつの間にか長くなっていた。
宿帳を閉じて、窓の外を見た。
クラウスの部屋の灯りがまだついている。帳面に何か書いているのだろう。
「書記官の手」と最初に思ったのは正しかった。あれは書き慣れた人間の手だ。
正体を知りたくないわけではない。知りたい。知った上で、今の関係が壊れないといいと思っている。
でも、それは贅沢な望みだろうか。
わからない。答えはまだ出ない。
窓の外で、銀木犀の花がひとひら落ちた。冬が近い。




