第8話 裁判と引き継ぎ書
王都の裁判所は、十年前に通った家政学院の隣だった。
馬車を降りて、見覚えのある石畳を踏む。学院の校舎は変わっていない。あの頃のわたしは十六歳で、家政学の教科書を抱えて、いずれは立派な侯爵夫人になるのだと信じていた。
「奥様、こちらです」
ベルタが袖を引いた。
裁判所は反対側なのだ。家政学院に引き寄せられて、曲がる方向を間違えかけた。方向音痴に懐かしさが加わると最悪だ。
「十年経っても治りませんね」
「うるさいわ」
この軽口で、少しだけ肩の力が抜けた。ベルタはそれを知っていて言っている。
◇◇◇
裁判所の廊下で、クラウスが紹介してくれた法務官と合流した。
ヘルマン・ヴェーバーという初老の紳士。小柄で温和な顔つきだが、目つきだけが鋭い。クラウスの「商人仲間の知り合い」にしては、佇まいが堂に入りすぎている気がした。
「ヴェーバーです。お話は伺っています。ご安心ください」
「よろしくお願いします」
「証拠書類は揃っていますか」
「はい。使用人全員の辞表の写し、辞表の提出日を記録した帳簿、わたしの離縁届の写し」
ヴェーバーが書類を確認しながら頷く。
「辞表の日付が離縁届より後であること。これが最大の論拠です。ミュラーさんが離縁を成立させた後に、各使用人が個別に退職している。計画的引き抜きであれば、離縁より前に接触している証拠が必要ですが、そのような証拠は存在しない」
「はい。わたしは使用人に退職を勧めたことはありません。むしろ止めました」
「それを証明できる手紙はありますか」
「ベルタ宛てに出した手紙があります。『皆さんは侯爵家に残ったほうがいい』と書いたもの」
「完璧です」
ヴェーバーが微笑んだ。
◇◇◇
法廷は小さな部屋だった。
原告側にマルガレーテ・ヘルデンの代理人。被告側にわたしとヴェーバー。傍聴席にベルタとオスカル。
クラウスは来ていなかった。「商人が裁判所にいるのは不自然ですから」と言っていた。その配慮が、なんとなく商人らしくない。
マルガレーテの代理人が口を開く。
「元侯爵夫人エレーヌ・ミュラーは、離縁に際し、侯爵家の使用人三十八名を計画的に引き抜いた。これは王国労働法第二十七条に定める雇用関係の不当侵害にあたる」
肋骨の下あたりが重い。法廷の椅子が固くて、腰が痛む。
代理人が続ける。
「被告は侯爵家在籍中に使用人との個人的関係を構築し、離縁後にその関係を利用して大量離職を誘発した」
個人的関係の構築。使用人一人一人の名前を覚えて、体調を気にかけて、家族のことを聞いたことが「計画的な引き抜きの準備」だと言うのか。
「なお、被告には離縁時の持参金返還義務も生じており、持参金の未返還も含め、金貨三百枚の賠償を求めます」
持参金。そう、あれも未解決だった。ヴィクトルは持参金の返還を渋っている。逆手に取ってこちらの負債に組み込もうとしているのか。
◇◇◇
ヴェーバーが立ち上がった。
「裁判長。被告側は以下の証拠を提出いたします」
書類が机に並べられる。
「第一に、使用人三十八名の辞表の日付。すべてが被告の離縁届提出日より後であり、離縁前に退職の打ち合わせが行われた形跡はありません」
「第二に、被告がベルタ・シュルツ氏に宛てた手紙。離縁直後に『皆さんは侯爵家に残るべき』と明記しており、引き抜きの意図とは正反対の内容です」
「第三に」
ヴェーバーが新しい書類を取り出した。
「被告が離縁に際して侯爵家に提出した引き継ぎ書です」
引き継ぎ書。あの百二十頁。
「この引き継ぎ書には、年間行事カレンダー、使用人の人事評価、予算配分表、取引先リスト、屋敷の修繕計画が含まれています。仮に被告が使用人の引き抜きを企図していたのであれば、引き継ぎ書を作成する動機がありません」
法廷が静まった。
マルガレーテの代理人が「引き継ぎ書が提出された証拠は」と問う。
「侯爵家の執務室に設置されている受取帳に、被告の引き継ぎ書が記録されています。日付は離縁届と同日。なお、引き継ぎ書が閲覧された形跡はありません」
つまり。わたしが百二十頁かけて書いた引き継ぎ書を、ヴィクトルは一度も開かなかった。
「さらに、持参金の返還については、被告側から正式に請求書を提出しております。未返還の責任は侯爵家側にあり、被告の負債として計上することは不当です」
わたしは立ち上がった。
「裁判長。一言、よろしいですか」
許可が出た。
深呼吸した。声は震えなかった。
「引き継ぎ書はお渡ししました。読まなかったのは、そちらです」
法廷が静まり返った。
◇◇◇
判決。請求棄却。
使用人の離職は各自の自発的意志に基づくものであり、被告による計画的引き抜きの証拠は認められない。持参金については、侯爵家側に速やかな返還を命じる。
法廷を出ると、ベルタが目を赤くして立っていた。オスカルが腕を組んで、天井を見上げていた。目尻が光っているのは、きっと灯りのせいだ。
「勝った」
「はい、奥様。勝ちました」
ベルタの声が裏返った。
裁判所の廊下を歩く。靴音が響く。でも、今は一人じゃない。
外に出ると、秋の陽射しがまぶしかった。
クラウスが裁判所の門の前に立っていた。来ないと言っていたのに。
目が合う。クラウスが口を開きかけて、閉じた。それから、不器用に笑った。
「おかえりなさい」
変な言葉だ。ここは裁判所の前で、帰ってきた場所ではない。
でも、悪くなかった。
「ただいま」
そう答えた時、ふとクラウスの上着のポケットから何か光るものが覗いた。金色の紋章。見覚えのない紋章だ。ヘルデン家のものでも、ミュラー家のものでもない。
一瞬だけ目に入って、すぐにクラウスがポケットに手を入れて隠した。
わたしは見なかったことにした。人にはそれぞれ事情がある。
でも、あの紋章。商人の持つものではなかった。




