第7話 涙と温かいスープ
侯爵家のパーティーは散々だったらしい、と聞いても、嬉しくはなかった。
リンデンを訪れた商人が、王都の噂を運んできた。先週のヘルデン侯爵家の夜会。
「料理は冷めていて、食器は曇り、庭は手入れされていなかったそうですよ」
商人は面白おかしく話す。ベルタが給仕をしながら、表情を変えずに聞いていた。
「新しく雇った料理人は二日で辞めたとか。リリアーヌ様が皿の並べ方に激昂されて」
オスカルが厨房の奥で包丁を研ぐ音が止まった。一瞬だけ。すぐにまた、しゃり、しゃりと規則正しい音が戻る。
商人が帰った後、食堂を片付けながら考えた。
侯爵家が困っている。料理が出せない、庭が荒れている、客が早々に帰る。
わたしがいた頃は、そんなことは一度もなかった。
それは事実だ。でも、「ほら見たことか」とは思えない。なんだろう、この感覚。虚しい、というのが近い。八年間の仕事が認められたのではなく、なくなって初めて存在に気づかれた。それは認められたのとは違う。
◇◇◇
裁判の準備が進まない。
兄のルートヴィヒが法律書を数冊送ってくれたが、どれも難解で、該当する条文を探すだけで半日が潰れる。
「王国労働法第二十七条、雇用関係の不当な侵害」
読み上げてみても、頭に入らない。
クラウスが食堂でお茶を飲みながら、時折こちらを見ている気がする。気がするだけかもしれない。この人はいつも帳面に何か書いていて、視線の先が読めない。
「クラウスさん」
「はい」
「法律に詳しかったりしますか」
「いえ。ただ、知り合いに法律に詳しい者がいます」
「商人仲間に?」
「ええ、まあ」
歯切れが悪い。でも、これ以上聞くのは失礼だろう。人にはそれぞれ事情がある。
◇◇◇
転機は、夕方に来た。
夕食の仕込みを手伝っていたベルタが、ふいに手を止めた。
「奥様」
「なに」
「少し、お話ししてもよいですか」
ベルタがエプロンで手を拭いて、わたしの向かいに座った。いつもはそんなことをしない人だ。給仕する側であって、座る側ではないと自分で決めている。
「訴状のこと、ずっと気にされているでしょう」
「ええ、まあ」
「奥様のせいではありません」
「それは」
「わたしたちが選んだんです。奥様が引き抜いたんじゃない。わたしたちが、自分の足で歩いてきた」
わかっている。わかっているのだ。頭では。
「奥様は八年間、一度も弱音を吐かなかった」
「弱音を吐いている場合じゃなかったから」
「旦那様に無視されても、太夫人様に嫌味を言われても、リリアーヌ様に陰口を叩かれても、いつも笑って『大丈夫』とおっしゃった」
やめてほしい。その話はやめてほしい。
「奥様が泣いたところを、わたしは一度も見たことがありません」
「泣かなかったわ」
「ええ。だから」
ベルタの目が潤んでいた。この人が泣くのを見るのは、記憶の限り二度目。一度目は、ベルタの母が倒れた時。
「だから、今は泣いてもいいんです」
◇◇◇
その言葉を聞いた瞬間、何かが壊れた。
——ふざけるな。
いや、違う。誰にも怒っていない。怒りじゃない。じゃあ何だ。
頑張った。ずっと。ちゃんと。笑って。引き継ぎも、全部。使用人の給料も、行事の準備も、来客の接遇も。認めてほしかったわけじゃない。嘘だ。認めてほしかった。八年間。ずっと。
「大丈夫」って言い続けた。大丈夫じゃないのに。一度も大丈夫じゃなかったのに。
涙が出た。
止まらなかった。
テーブルの上に突っ伏して、エプロンで顔を覆って、声を殺そうとしたけれど殺せなかった。
ベルタが背中をさすってくれていた。何も言わずに。
どれくらい泣いたかわからない。
◇◇◇
泣き止んだ頃、厨房の扉が静かに開いた。
オスカルが、湯気の立つ皿を持って立っていた。
かぼちゃのスープ。オスカルの得意料理。クリーム色の滑らかなスープに、黒胡椒が三粒。
「泣いた後は、腹が減るもんです」
その声があまりに普通で、少しだけ笑えた。
目が腫れているのは自覚している。鼻も赤い。とても人前に出られる顔ではない。
でも、スープの匂いを嗅いだら、本当にお腹が空いていた。
匙を取って、一口。
温かい。かぼちゃの甘さと、ほんの少しの塩気。オスカルが三十年の腕で作る、何の変哲もないスープ。
「美味しい」
「当たり前です。わしが作ったんですから」
オスカルがそっけなく言って、厨房に戻っていった。
ベルタがハンカチを差し出してくれた。受け取って、鼻をかんだ。侯爵夫人だった頃には考えられない行儀の悪さだが、もう侯爵夫人ではないのだ。
「ベルタ」
「はい」
「ありがとう。なんか、すっきりした。ちょっとだけ」
「ちょっとだけで結構です」
ベルタが微笑んだ。
◇◇◇
翌朝、食堂のテーブルにクラウスが座っていた。
昨夜のわたしの目が赤かったことに気づいただろうか。気づいたとしても、何も言わない人だ。
ただ、わたしの席に薬草茶のカップがすでに置かれていた。湯気が上がっている。クラウスが淹れたのだろう。
「ありがとうございます」
「いえ」
クラウスは帳面に目を落としたまま、「知り合いの法律家に連絡を取りました。来週には返事が来るかと」と言った。
何も聞いていないはずなのに。いや、訴状の話は食堂で話したから聞こえていたのか。
「お客様にそこまでしていただくわけには」
「商人仲間に法律に詳しい者がいるだけです。気にしないでください」
クラウスの耳が赤い。
帳面の上で、万年筆を握る指に力が入っている。
不思議な人だ。




