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使用人が全員ついてきたので、夫の屋敷には誰もいなくなりました  作者: 秋月 もみじ


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第6話 訴状


朝食の支度をしていたら、訴状が届いた。パンが焦げた。


正確には、パンを焼いている最中に玄関の鐘が鳴り、出てみると王都の裁判所から使者が来ていた。封蝋を見た瞬間、こめかみの奥で血管がどくんと脈打った。ヘルデン侯爵家の紋章。八年間、何百回と見た蝋印。


厨房に戻ると、パンの底が黒くなっていた。


「もったいない」


焦げた部分を削り落としながら訴状を読む。本来なら行儀が悪いが、そんなことを気にしている場合ではなかった。


◇◇◇


訴状の差出人は、侯爵太夫人マルガレーテ。


内容は「元侯爵夫人エレーヌ・ミュラーによる使用人の計画的引き抜きに対する損害賠償請求」。


読み終えて、膝から力が抜けた。


計画的引き抜き。


わたしが使用人たちを唆して、意図的に侯爵家から連れ出した。そう主張されている。


使用人の雇用契約はヘルデン侯爵家と締結されており、その契約関係を破壊する行為は、王国の労働法に抵触する。損害賠償額は金貨三百枚。


金貨三百枚。子爵領リンデンの半年分の収入に匹敵する。


パンの焦げた匂いが鼻につく。匂いが急に鮮明になって、胃の底がぐらりと傾いた。


◇◇◇


使用人たちを食堂に集めた。


全員の顔を見回す。オスカル。ベルタ。フリッツ。ヨハン。アンナ。リーゼ。ハンス。皆が不安そうにわたしを見ている。


「侯爵太夫人から訴状が届きました」


場が静まり返った。


「わたしが皆さんを引き抜いた、という訴えです」


「馬鹿な」オスカルが低い声で言った。「わしらは自分の意志で辞めたんだ」


「そうです。でも、法的には、使用人の雇用契約はヘルデン家と結ばれていたもの。集団で辞職して元雇用者の妻のもとに集まったとなると、引き抜きと見られる可能性がある」


ベルタの顔色が変わった。


「奥様は何も悪いことをされていないのに」


「ええ。でも、法律はそう単純ではないの」


沈黙が降りた。テーブルの上の朝食が冷めていく。


わたしは自分の手を見た。指先が冷えている。これは見落としていた。使用人たちが自発的についてきたことに感謝ばかりしていて、法的なリスクを考えていなかった。


「みんな」


顔を上げた。


「皆さんは、侯爵家に戻ったほうがいい」


「奥様」


「わたしのことは気にしなくて大丈夫。訴えはわたし個人に対するもので、皆さんが戻れば」


「奥様」


ベルタが遮った。声が震えていた。けれど、目は据わっていた。


「わたしたちは、自分で選んだんです」


オスカルが頷いた。フリッツが腕を組む。ヨハンが「そうだ」と呟く。


「わたしたちの決断です。奥様が謝ることではありません」


ベルタの言葉を聞いて、何か言おうとした。ありがとう、と。あるいは、それでも、と。


言葉が出なかった。


喉がつかえて、目を伏せるしかなかった。


◇◇◇


クラウスが、食堂の隅のテーブルにいた。


宿泊客だから朝食の場にいて当然なのだが、この話を聞かれてしまったことに今更気づく。


目が合った。クラウスの表情は読めない。帳面を閉じて、何か言いかけて、やめた。


代わりに、立ち上がって厨房に入っていった。


しばらくして戻ってきたクラウスの手には、薬草茶のカップが二つあった。一つをわたしの前に置く。


「お客様に、給仕させてしまいましたね」


「気にしないでください」


それだけ言って、クラウスは自分のテーブルに戻った。


温かいカップを両手で包む。薬草茶の湯気が立ち上る。


この人は不思議だ。何も聞かない。何も言わない。ただ、薬草茶を淹れてくれる。


窓の外は雨。灰色の空が、低く垂れ込めている。


◇◇◇


夜、一人で訴状を読み返した。


蝋燭の灯りで文字を追う。法律の専門用語が並んでいて、素人のわたしには細かいところがわからない。


ただ、ひとつだけわかることがある。


このままでは負ける。


使用人たちの自発的な離職であることを証明しなければ、「引き抜き」として賠償を命じられる。法律の知識がない。弁護士を雇う金もない。


訴状を閉じて、窓の外を見た。


雨が止んでいた。雲の切れ間から月が覗いている。銀木犀の花が、雨に濡れて光っている。


「どうしよう」


声に出して言ってみた。答えは返ってこない。


ベルタの声が頭の中で響く。「わたしたちは、自分で選んだんです」。


わかっている。わかっているのだけれど。


わたしのせいだ。いや、わたしのせいではない。でも、わたしがいなければ、みんなは職を失わなかった。辞めると決めたのはみんな自身。でも。


思考がぐるぐる回って、出口が見えない。


蝋燭の炎が揺れた。溶けた蜜蝋が、燭台の皿に小さな水たまりを作っていた。

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