第5話 旅の商人と銀木犀亭
開業して一週間、訪れたのは野良猫と、道を間違えた行商人だけだった。
行商人は一泊して「悪くない宿だが、場所が辺鄙すぎる」と正直な感想を残して去った。それはわかっている。リンデンは王都から馬で三日、幹線街道からも少し外れた小さな町だ。
「お客が来ないわね」
「来ますよ。オスカルの料理を食べれば、帰りたくなくなる」
ベルタは涼しい顔で掃除を続けている。この人の楽観は、八年間見てきたが衰える気配がない。
二週目に入ると、近隣の商人が二組泊まった。口コミが少しずつ広がっているらしい。三週目にはリンデンの町長が夕食だけ食べに来て、オスカルの燻製鱒を絶賛した。
軌道に乗り始めている。というのは言い過ぎか。まだ赤字。でも、悪くない手応え。
◇◇◇
問題は別のところにあった。
「奥様、また迷われましたか」
「迷ってない。近道を探していたの」
「裏山で近道を探して、反対側の谷まで行かれるのは近道とは申しません」
ベルタの声が背後から飛んでくる。
裏山に薬草を取りに行っただけなのだ。宿の客に出す薬草茶の材料。道は一本しかないはずなのに、気がつくと見知らぬ獣道に入り込んでいた。
これは昔からだ。侯爵家の屋敷でも、東棟に行こうとして西棟にたどり着いたことが何度もある。使用人たちが交代で案内してくれていたのは、好意だと思っていたが、あれは「放っておくと迷子になる奥様」への対策だったのかもしれない。
結局、薬草は見つけたが宿に戻れなくなった。
林の中で途方に暮れていると、街道の方から人の気配がした。
「あの、すみません」
振り返ると、見知らぬ男が立っていた。旅装束に大きな革鞄。商人のようだ。
「この辺りに宿はありませんか。銀木犀亭という名前だと聞いたのですが」
「あ、それ、わたしの宿です」
男が目を丸くした。
「宿の方が、宿の場所を?」
「道に迷っていたんです」
正直に言うと、男が一瞬呆れた顔をしたあと、口元を隠すように咳払いをした。笑いをこらえている。
「では、一緒に探しましょうか」
結局、この男のほうが道を見つけるのが早かった。街道沿いの案内標識を辿って、ものの十分で宿にたどり着いた。
わたしの宿なのに。
◇◇◇
クラウス・ベルクと名乗った男は、宿帳に「長期滞在希望」と書いた。
「商用で各地の宿を巡っています。しばらく滞在させていただいてもよいですか」
「もちろん。ところで、どのくらいの期間を」
「未定です。居心地次第で」
変わった客だ。商人にしては荷物が少なく、革鞄の中身は帳面と着替えだけのように見える。それに、手が綺麗すぎる。商人の手は荷物で荒れるものだが、この人の手は白くて、万年筆を握った跡だけがある。ペンだこ。
商人というより、書記官の手だ。
気になったが、詮索はしない。人にはそれぞれ事情がある。
◇◇◇
夕食の時間。
クラウスが食堂のテーブルについた。他の宿泊客はいない。
オスカルが出したのは、燻製鱒の前菜、山羊乳のチーズを添えた温かいパン粥、木苺のタルト。田舎の宿にしては手が込んでいるが、材料はすべて近隣で調達したもの。
クラウスが一口食べて、匙を止めた。
「これは」
「お口に合いませんでしたか」
「いえ。驚いたんです。この小さな宿に、これほどの料理人がいるとは」
「うちの料理長は三十年の腕前ですから」
「三十年」クラウスが帳面を取り出した。「どちらで修行を?」
「それはオスカルに直接聞いてください」
クラウスは帳面に何かメモしながら、食堂の隅々に視線を走らせていた。麻のテーブルクロス、磨かれた銅の燭台、窓際に活けた野の花。一つ一つを確認するように。
「配膳の動線が良い」
「え?」
「テーブルの配置と厨房の位置。無駄な移動がない。設計した方は、よく考えていますね」
それはわたしが配置したのだが、まさか初日の客に指摘されるとは思わなかった。
「ありがとうございます」
「合理的だ」
褒められたのだろう。多分。なんというか、商人にしては評価の角度が変わっている。
◇◇◇
クラウスが部屋に上がった後、後片付けをしながらベルタに話しかけた。
「変わったお客ね」
「ええ。商人にしては手が綺麗すぎます」
ベルタも気づいていた。さすが侍女長を務めた人だ。
「でも、悪い人ではなさそう」
「そうね。悪い人は、配膳の動線を褒めたりしない」
ベルタが小さく笑った。
皿を洗いながら、今日一日を振り返る。客は一人だけ。売上は宿泊と夕食で銀貨六枚。経費を考えるとまだ赤字だ。
でも。
「ベルタ」
「はい」
「初めてちゃんとしたお客が来たわ」
「ええ、奥様」
「嬉しい、と思う」
「『と思う』は余計ですよ、奥様」
ベルタの声が、少しだけ柔らかかった。
部屋の窓から外を見る。銀木犀の白い花が、月明かりにぼんやり浮かんでいた。
一階の客室に灯りがともっている。クラウスの部屋。この人はいつまでいるのだろう。
なるといいな、常連に。
なんて、宿の主人として少し気が早いだろうか。まだ二日目だ。




