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使用人が全員ついてきたので、夫の屋敷には誰もいなくなりました  作者: 秋月 もみじ


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第3話 四十二分の三十八


兄の第一声は、おかえり、ではなかった。


「エレーヌ、侯爵家で何が起きている」


ミュラー子爵邸の応接間。兄ルートヴィヒは窓辺に立って、便箋を握りしめていた。


到着して馬車を降りたのがつい先刻。着替えもまだで、旅の埃がスカートの裾に残っている。三日間の馬車旅で背中が痛い。お茶くらい出してくれてもいいのに、と思ったが、兄の表情がただごとではなかった。


「何って。離縁届を出して帰ってきただけよ」


「商人の早馬便が来た。侯爵家の使用人が大量に辞職しているらしい」


商人の早馬。手紙より早い。街道の商人たちは独自の通信網を持っていて、噂の伝播は手紙の比ではない。


「大量に、って」


「詳しいことはわからん。だが、料理長と侍女長が辞めたという話だ」


オスカルと、ベルタ。


膝の裏の腱がぴくりと跳ねた。立っているのに、地面が揺れたような感覚。


◇◇◇


一週間後、ベルタからの手紙が届いた。几帳面な文字で、封蝋もきちんと押してある。


手紙を開く。指先が冷えているのは、晩秋の朝のせいだ。そういうことにする。


「奥様がお発ちになった翌朝、料理長オスカルが旦那様に辞表をお出しになりました」


わたしが出発した翌朝。


「旦那様は『代わりはいくらでもいる』とお答えになりました」


その言葉が目に入った瞬間、胃のあたりがぎゅっと重くなった。いつも聞かされた言葉だ。ヴィクトルの口癖。


「その日の午後、わたくしも辞表を出しました」


ベルタまで。


「夕方までに、庭師頭フリッツ、馬丁長ヨハンが続きました。翌朝にはさらに二十名」


手紙を持つ指の関節が白くなっていた。いつ力を入れたのか、自分でもわからない。


「現時点で、辞表を出した者は三十八名です。残ったのは、家令のシュタインと、門番のハインリヒ、書記のカール、下働きのマルタの四名のみ」


三十八名。四十二人の使用人のうち、三十八人。


「旦那様は青い顔をされていました。太夫人様は絶叫されたそうです。リリアーヌ様は自室に閉じこもっておいでです」


読み終えて、しばらく手紙を膝の上に置いたまま動けなかった。


◇◇◇


「三十八人、か」


兄が腕を組んで呟いた。


「わたしが指示したわけじゃないの」


「わかっている。お前が使用人を引き連れて逃げるような人間でないことくらい、兄は知っている」


ルートヴィヒの声は穏やかだった。ただし、眉間の皺は深い。


「しかし、侯爵家は大変なことになるぞ」


知っている。四十二名のうち三十八名が辞めたということは、屋敷の運営がほぼ停止する。料理長がいない。侍女長がいない。庭師がいない。馬丁がいない。


「代わりはいくらでもいる、とヴィクトルは言ったそうよ」


「代わりがいると思っているところが、あの男の限界だな」


兄が珍しく辛辣なことを言った。


◇◇◇


手紙を読み返した。三度目。


オスカルの辞表が最初。その後、ベルタ、フリッツ、ヨハン。そして連鎖。


手紙には、辞表を出す前に使用人たちが集まって話し合ったとも書いてあった。


「わたしたちは、エレーヌ奥様のために働いていたのであって、ヘルデン家のために働いていたのではない」


オスカルの言葉だそうだ。


読んだ瞬間、喉の奥がつかえた。何か言おうとしたが、言葉にならない。


嬉しかった。いや、嬉しいというのは違う。ありがたくて、申し訳なくて、それから。


なんだろう。うまく言えない。


ただ、オスカルの顔が浮かんだ。三十年間、同じ厨房で鍋を振ってきた大きな背中。マリアの話をする時だけ目尻が下がる、あの顔。


止めるべきだった。使用人たちはヘルデン家の使用人で、わたしはもうヘルデン家の人間ではない。巻き込む権利なんてない。


けれど。止められたとして、わたしは本当に止めたかったのだろうか。


わからない。答えが出ない。


◇◇◇


窓の外に目をやった。


ミュラー子爵領、リンデン。王都から馬で三日の、小さな田舎町。実家の庭には銀木犀の老木が一本あって、秋になると甘い匂いをまき散らす。


八年前に嫁いだ日も、この銀木犀が咲いていた。


「兄さま」


「なんだ」


「四人、残ったのね」


「ああ。家令のシュタインと門番と書記と下働き」


「シュタインはヴィクトルの側近だから残ったのでしょう。門番とマルタは」


考え込んでしまった。マルタは去年入ったばかりの若い娘で、まだわたしと親しくなる前に離縁になったのだ。残ったのは当然かもしれない。


四人が残った理由を考えてしまう自分が、少し嫌だった。


◇◇◇


夕食は兄と二人で取った。兄嫁のマリーが温かいシチューを出してくれた。


「ゆっくり休みなさい、エレーヌ」


マリーの言葉に頷きながら、匙を口に運ぶ。


味がした。当たり前のことだが、味がした。侯爵家での最後の数ヶ月、食事の味がわからなくなっていたことに今更気づいた。


匙を置いて、窓の外を見る。秋の星が小さく瞬いていた。


「兄さま」


「うん」


「わたしに、みんなのためにできることは何だろう」


兄は答えなかった。代わりに、シチューのおかわりをよそってくれた。


それだけでよかった。今はそれだけで。

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