第2話 料理長の決断
荷物が少ないのは、八年間で自分のものを何一つ増やさなかったからだ。
革の旅行鞄ひとつ。中身は着替えが三着、母のブローチ、業務日誌の写し、万年筆。それだけ。
侯爵家の居室を見回す。整えられた寝台、磨かれた化粧台、壁に掛かった風景画。どれもヘルデン家のもので、わたしのものは何もない。
八年間ここにいて、何も残さなかった。残していいものが、なかった。
旅行鞄の金具を閉じる。かちり、と小さな音。それだけの音が、妙に大きく聞こえた。
◇◇◇
厨房では、朝の支度が始まっていた。
オスカルが大鍋に火を入れている。いつもと同じ朝のはずだった。パン粥の匂いが廊下まで漂う。蜂蜜と、山羊乳と、焼きたての黒パン。八年間、毎朝嗅いだ匂い。
「おはよう、オスカル」
「おはようございます、奥様」
いつもと同じ挨拶。ただし、オスカルの手が止まっていた。木べらが鍋の中で動かない。
「お聞きになりましたか」
「ああ」
オスカルは鍋に目を戻した。木べらがゆっくり動き始める。
「昨夜、アンナから聞いた。奥様が離縁届をお書きになったと」
「そう。今朝、ヴィクトルに提出するわ」
沈黙が落ちた。パン粥がことこと煮える音だけが、厨房に響く。
オスカルの背中が少し丸まった。三十年この屋敷で料理を作ってきた男の、広い背中。
「奥様」
「なに?」
「最後の朝食を、作らせてください」
その声が少し掠れていたのは、蒸気のせいだったのかもしれない。わたしはそういうことにした。
◇◇◇
朝食の席に、ヴィクトルはいなかった。
リリアーヌの部屋だろう。いつものこと。マルガレーテは自室で食事を取る習慣だから、広い食堂にわたしだけが座っている。
パン粥を一口。蜂蜜が、いつもより多い。
匙を置いて、深呼吸した。蜂蜜が多いだけで泣きそうになるなんて、おかしな話だ。
離縁届を持って、ヴィクトルの書斎に向かった。引き継ぎ書の束はすでに机の上。横を通ったヴィクトルは一瞥もしなかった。
「署名を」
「ああ」
ヴィクトルはペンを取り、離縁届の夫の署名欄にさっと名前を書いた。三秒もかからなかった。
「勝手にしろ」
その言葉を聞いても、何を感じているのか自分でわからなかった。怒りなのか安堵なのか、もっと別の、名前のつかない何かなのか。舌の裏に苦い味が広がった。
◇◇◇
使用人の控え室の前を通りかかった時、声が聞こえた。
「奥様が、出ていかれるそうだ」
オスカルの低い声だった。
足が止まった。聞いてはいけない。でも、足が動かない。
「嘘でしょう」
ベルタの声。
「嘘じゃない。離縁届は今朝出された」
「じゃあ、わたしたちはどうなるの」
若い侍女の声が震えていた。アンナだろう。
オスカルが答えるまでに、少し間があった。
「わしは三十年、この屋敷で料理を作ってきた」
「ええ」
「先代の奥様にも仕えた。旦那様にも仕えた。だが、わしの作る飯を美味いと言ってくれたのは、エレーヌ奥様だけだ」
控え室が静まり返った。
「マリアの名前を覚えてくれたのも、奥様だけだった。わしの娘の誕生日に、花を届けてくださった。主人の家族で、そんなことをする人は初めてだった」
長い沈黙。
「奥様のいない屋敷で働く理由がございません」
その一言を聞いた瞬間、廊下で立ち尽くしたまま、唇を噛んだ。
駄目だ。泣くな。ここで泣いたら、この人たちが困る。
◇◇◇
玄関ホールで、使用人たちに最後の挨拶をした。
全員ではない。当番の者もいるし、庭園にいる者もいる。それでも、二十名ほどが集まっていた。
「皆さん、八年間ありがとうございました」
声が震えないように、背筋を伸ばした。
「皆さんのおかげで、ここでの日々は」
幸せでした、と言おうとした。
言えなかった。
幸せだったのか。本当に?
冷遇と、無視と、蔑みの八年間。その中で、この人たちと過ごした時間だけが温かかった。それを「幸せ」と呼んでいいのか、わからない。
「皆さんと一緒に過ごせて、よかったです」
それだけ言った。正確な言葉ではなかったかもしれない。でも、嘘ではなかった。
ベルタが目を赤くしていた。アンナが鼻をすすっていた。オスカルは腕を組んで、じっとわたしを見ていた。
わたしは頭を下げた。深く。八年分の感謝を込めて。
そして、振り返らずに玄関を出た。
◇◇◇
馬車が待っていた。兄が手配してくれたミュラー子爵家の馬車。紋章は小さくて質素だが、わたしにはこちらのほうが馴染みがある。
乗り込む前に、一度だけ屋敷を見上げた。
三階建ての石造りの館。手入れの行き届いた前庭。ヘルデン家の紋章が刻まれた正門。
ここにわたしの場所はなかった。八年間、ずっと。
でも。
控え室から聞こえたオスカルの声が、まだ耳の奥に残っている。
「奥様のいない屋敷で働く理由がございません」
ごめんなさい、オスカル。答えを持っていないの。
馬車の扉を閉めた。御者が手綱を取る。車輪が石畳の上で回り始める。
窓の外を、ヘルデン家の屋敷が遠ざかっていく。銀木犀の並木が流れていく。秋の光が、やけに眩しかった。
泣かなかった。ここまで来たら、泣くわけにいかない。
ただ、膝の上に置いた手が、少しだけ震えていた。




