第12話 銀木犀の咲く宿で
三日間、考えた。考えて、考えて、考えた結果、最初に相談したのはオスカルだった。
厨房に入ると、朝の仕込みの最中だった。パン生地をこねるオスカルの背中は、三十年間変わらない。大きくて、少し丸くなって、でも揺るがない。
「オスカル」
「おはようございます、奥様。朝食はもう少しお待ちを」
「朝食じゃなくて、相談が」
「はい」
「クラウスさんが、公爵だったの」
オスカルの手が一瞬止まって、すぐに動き出した。
「知っておりましたよ」
「え」
「料理人は手を見ます。あの方の手は、書き物をする手であって荷物を運ぶ手ではございません。それに、わしの料理を食べた時の反応が、田舎の商人のそれではなかった」
「いつから」
「二日目には」
二日目。わたしが気づくよりずっと前。
「それで、公爵殿が何か」
「求婚された」
オスカルのこねる手が止まった。今度は長く。
「おめでとうございます」
「まだ受けてないわよ」
「受けるのでしょう?」
「わからない。だから相談に来たの」
オスカルがパン生地を作業台に置いて、エプロンで手を拭いた。振り返って、わたしを正面から見た。
「奥様。わしの承認がいるんですか」
「いるわよ。あなたたちが着いてきてくれたから、わたしは今ここにいるの。勝手には決められない」
「勝手に決めてくだされ」
「オスカル」
「奥様が幸せなら、わしらも幸せです」
オスカルの目が笑っていた。目尻の皺が深くなる。
「ただし」
「ただし?」
「料理は、わしに任せてください。公爵の食卓だろうが宿の厨房だろうが、わしが作ります」
笑ってしまった。この人はどこまでも料理長だ。
◇◇◇
ベルタにも話した。
「知っておりました」
「あなたも?」
「筆跡が貴族のものでしたから。宿帳の字で」
全員知っていた。知らなかったのはわたしだけ。いや、わたしも途中で気づいていたから、知らなかった人間はゼロだったのだ。全員がクラウスの正体を知った上で、黙って見守っていた。
「ベルタ」
「はい」
「怖いの。また同じことになるんじゃないかって」
正直に言った。八年間の結婚のあと、「もう一度誰かと」と考えることが、こんなにも恐ろしいとは思わなかった。
ベルタが少し考えてから、言った。
「同じではありませんよ」
「どうして」
「ヴィクトル様は、奥様の名前すら呼びませんでした。クラウス様は、奥様の好きな花を庭に植えるような方です」
そうだ。ヴィクトルはわたしの好きな花を知らなかった。八年一緒にいて。
クラウスは二ヶ月で、ベルタに聞いて、庭に植えた。
「同じではない」
「はい。同じではありません」
◇◇◇
三日目の朝。
靴紐を結ぼうとして、うまくいかなかった。三回やり直した。手が震えていたのだとベルタに指摘されてようやく気づいた。
「奥様、靴紐」
「わかってるわ。手が言うことを聞かないだけ」
「緊張されているのですね」
「してない」
嘘だった。
◇◇◇
裏庭のベンチ。三日前と同じ場所。
クラウスが座っていた。今日は襟も真っ直ぐで、ボタンも正しい。ただし、目の下に薄い隈がある。眠れなかったのだろう。
「クラウスさん」
「はい」
「答えを出しました」
クラウスの喉仏が上下した。唾を飲み込む音が聞こえそうなほどの静寂。
「一緒に宿場町を作りましょう」
クラウスの顔が。なんというか。表情が追いつかなかった。目が見開かれて、口が開いて、それから閉じて、また開いて。
「ただし、条件があります」
「なんでも」
「銀木犀亭は残します。ここが原点だから。使用人たちの居場所を、なくさないでください」
「もちろんです」
「それから」
「はい」
「わたしの名前で呼んでください」
クラウスが息を吸った。
「エレーヌ」
「さん」が取れた。
たったそれだけのことで、胸の奥が温かくなった。手のひらが熱い。鼻の奥がつんとする。
「エレーヌ」
もう一度、名前を呼ばれた。
「ありがとう」
クラウスの声が震えていた。耳だけじゃない。声も。
不器用で、正直で、嘘が下手で、褒め方が経営コンサルみたいで、天気の話しかできなくて。
でも、この人はわたしの名前を呼んでくれる。侯爵夫人ではなく、エレーヌと。
「こちらこそ」
それだけ言った。それ以上の言葉は、見つからなかった。見つからなくていい。
◇◇◇
食堂に戻ると、使用人たちが全員並んでいた。
全員。オスカルもベルタもフリッツもヨハンもアンナもリーゼも。全員が、少しだけ赤い目をして、でも笑っていた。
「おめでとうございます、奥様」
ベルタが代表して言った。
「聞いてたの」
「裏庭は厨房の窓から丸見えです」
オスカルが平然と言った。
全員が笑った。わたしも笑った。泣きながら笑った。
◇◇◇
春。
銀木犀亭の裏庭に、菫が咲いた。紫色の小さな花が、陽だまりの中で揺れている。
宿は拡張工事の最中だった。もとの六部屋に加えて、隣接する土地に新しい棟を建てている。クラウスの提案で、アルテシア公国との共同事業として宿場町の整備が始まった。
銀木犀亭を中心に、パン屋ができ、薬草茶の茶屋ができ、小さな市場が立つようになった。リンデンの町は少しずつ賑わいを見せている。
「奥様、新しい棟の窓枠の寸法ですが」
「フリッツ、それはクラウスに聞いて。建築はあの人のほうが詳しいから」
「了解しました。しかし奥様、クラウス様を名前で呼ぶのはまだ慣れません」
「慣れて」
使用人たちは変わらない。オスカルは朝五時に起きてパン生地をこね、ベルタは客室のシーツを一枚一枚点検し、アンナは花瓶の花を毎日替える。
変わったのは、みんなの顔。侯爵家にいた頃とは違う。眉間の皺が消えて、口角が上がっている。
◇◇◇
ヘルデン侯爵家は、その後どうなったか。
社交界ではもう話題にも上らなくなったらしい。使用人の補充は進まず、屋敷は最低限の人数で辛うじて維持されている。ヴィクトルとリリアーヌの間に溝ができたとか、マルガレーテが領地に引っ込んだとか、断片的な噂だけが届く。
それ以上は知らない。知る必要もない。
わたしの物語は、あの屋敷を出た日に始まったのだから。
◇◇◇
夕方、宿の帳場に座って帳簿をつけていると、クラウスが帰ってきた。
アルテシア公国との往復で三日間留守にしていた。旅装のまま、少し日に焼けた顔で、食堂に入ってくる。
「ただいま」
「おかえりなさい。出張はどうだった?」
「宿場整備の予算が通った。来年には街道沿いに三軒の宿が建つ」
「三軒。すごいじゃない」
「すごくない。まだ三軒だ。十軒は必要だ」
この人の真面目さは相変わらずだ。
「それより、エレーヌ」
「なに」
「帰ってくる場所があるのは、いいものだな」
不器用な言い方。でも、その不器用さが好きだ。
「当たり前でしょう。ここはあなたの宿でもあるのよ」
クラウスの耳が赤くなった。何ヶ月経っても、この耳の赤さは治らないらしい。
窓の外を見た。銀木犀の若葉が、夕日に透けて金色に光っている。秋になれば、また白い花をつけるだろう。
あの日、八年前に嗅いだのと同じ匂いが、ここにある。
ただし、あの日とは違う。
今、わたしの隣には人がいる。裏庭の菫は咲いている。厨房からはオスカルのスープの匂いがする。帳場の宿帳には、明日の予約が三件。
これがわたしの場所だ。
誰かの付属品ではなく。侯爵夫人でもなく。
エレーヌ・ミュラーとして、ここにいる。
銀木犀の、咲く宿で。




