第11話 公爵の求婚
朝食の後、クラウスさんが「話がある」と言った時、パンくずが唇についていた。
本人は気づいていない。いつもは身だしなみの整った人なのに、今朝は襟が少し曲がっているし、袖口のボタンが一つ掛け違えている。
緊張しているのだ。
「場所を変えましょうか。裏庭のベンチはどう」
「ああ、はい。裏庭で」
クラウスが椅子から立ち上がる時、テーブルの角に腰をぶつけた。食器がかちゃりと鳴る。
この人がこれほど落ち着きのない姿を見せたのは、初めてだ。
◇◇◇
裏庭のベンチに並んで座った。
クラウスが植えた菫の苗が、小さな芽を出し始めている。まだ花は咲いていない。春に咲くのだと言っていた。
風が冷たい。もうすぐ冬。空気が澄んで、遠くの山の稜線がくっきり見える。
「クラウスさん」
「はい」
「パンくず、唇についてますよ」
クラウスが慌てて口元を拭った。耳が赤い。
「すみません」
「いいの。で、話って?」
クラウスが長い息を吐いた。背筋を伸ばして、それからわたしに向き直った。
「俺は」
一人称が「俺」になった。商人の時の口調。
「いや、私は」
「私」に直った。でもすぐに。
「俺で、いいですか」
「どちらでもいいわ。あなたの楽なほうで」
クラウスが少し笑った。ぎこちないけれど、作り物ではない笑顔。
「俺は、クラウス・フォン・ヴァイセンベルク。アルテシア公国の公爵です」
◇◇◇
知っていた。
いつから確信していたかは、自分でもはっきりしない。裁判の時の紋章。法務官の佇まい。帳簿への的確すぎる指摘。建築知識。
全部が繋がったのは、おそらく裏庭で菫を植えているのを見た日。
「知っていました」
クラウスが固まった。
「え」
「手がきれいすぎるし、法律家の知り合いが貴族だし、帳簿に詳しすぎるし」
「それは、ええ、はい。ご指摘の通りです」
「パンくずがついていても公爵なのね」
「それは関係ない」
クラウスの耳が真っ赤になった。
◇◇◇
クラウスが居住まいを正した。
「身分を偽っていたことを、謝ります」
「どうして偽ったの」
「自国の宿場制度改革のために、各国の宿を視察していた。身分を明かすと対応が変わるので、商人を装った」
合理的な理由。この人らしい。
「でも、銀木犀亭に長居した理由は、視察だけではない」
「ええ」
「この宿に来て、初めて本物を見た」
「本物?」
「本物の人望を。俺は自国で宿場制度を推進しているが、政策は正しいのに民がついてこない。母に言われたことがある。『正しいことだけでは人の心は動かない』と。その時は意味がわからなかった」
クラウスの目が真剣だった。帳面もペンも持たず、ただわたしを見ている。
「あなたの使用人たちが辞表を出してまでついてきた。それは政策じゃない。数字でも制度でもない。人が人を大切にした結果だ」
「わたしは別に、特別なことは」
「特別です。俺にはできなかったことだから」
嘘はなかった。
◇◇◇
クラウスが膝の上で拳を握った。関節が白くなるほど。
「エレーヌさん」
「はい」
「俺と」
言葉が止まった。
長い沈黙。銀木犀の枯れ葉が一枚、風に飛ばされていった。
「公爵夫人になってほしい、とは言いません」
「え?」
「一緒に、宿場町を作りませんか」
予想していなかった言葉だった。
「俺の国には、あなたのような宿がない。人が大切にされる場所がない。銀木犀亭のような宿を、俺の国にも作りたい。あなたと一緒に」
「それは、仕事の提案?」
クラウスの耳が限界まで赤くなった。
「仕事でも、あるけれど。仕事だけでは、ない」
「つまり」
「つまり、その。一緒に、いてほしい。仕事も。それ以外も」
天気の話を始めないだけ、今日は進歩している。
◇◇◇
わたしは答えなかった。
嬉しかった。嬉しいはずなのに、怖かった。
八年前にも似たようなことがあった。ヴィクトルとの婚姻が決まった日。あの時も「一緒に」と言われた。結果は知っての通り。
信じたい。この人の言葉を信じたい。
「少し、考えさせてください」
クラウスの表情が揺れた。一瞬だけ、落胆が走って、すぐに引き締められた。
「もちろん。待ちます。いくらでも」
「いくらでも、は嘘でしょう。公爵なんだから、帰国しないと」
「嘘じゃないと言いたいところですが、確かに、あまり長くは」
正直な人だ。嘘が下手で、正直で、不器用で。
「三日ください」
「三日」
「三日で答えを出します」
クラウスが頷いた。
立ち上がって、宿に戻ろうとした時、振り返った。
「クラウスさん」
「はい」
「ひとつだけ」
「なんでしょう」
「わたしの名前で呼んでほしい。侯爵夫人ではなく」
クラウスが目を見開いた。
「エレーヌ、さん」
「『さん』はまだ取れないのね」
「すみません。もう少し時間を」
笑った。泣きそうだったけれど、笑えた。
裏庭の菫の芽が、風に揺れていた。春になったら咲く。その頃、わたしはどこにいるだろう。




