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使用人が全員ついてきたので、夫の屋敷には誰もいなくなりました  作者: 秋月 もみじ


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第10話 業務日誌


王家の晩餐会で侯爵家が恥をかいたと聞いた日、わたしは帳簿をつけていた。


銀木犀亭の月次決算。黒字に転じてから二ヶ月目。数字は嘘をつかない。宿泊収入、食事収入、消耗品費、人件費。万年筆を走らせる音が心地よい。


商人のレンツが噂を運んできた。


「王家主催の秋の晩餐会にヘルデン侯爵が出席したんですが、それがもう大変で」


聞きたくない気もした。でも、ベルタが給仕の手を止めて耳を澄ませているのが見えた。


「料理は焦げているし、給仕は手順を知らないし、侯爵夫人の方がアルテシア公国の大使にワインをこぼしたとか」


「ワインを」


「外交問題になりかねないと、王宮は大騒ぎだったそうですよ」


帳簿の上で万年筆が止まった。


アルテシア公国。クラウスの紋章。あの金色の紋章が、ふいに頭をよぎった。


◇◇◇


レンツが帰った後、ベルタが食器を片付けながら呟いた。


「奥様がいらした頃は、あのような失態は一度も」


「ベルタ」


「はい」


「嬉しい?」


「正直に申し上げれば、複雑です」


「わたしもよ」


複雑。それが一番正確な言葉だ。


ざまあみろ、とは思えない。あの屋敷で働いていた使用人たちの顔が浮かぶ。残った四人は今、どうしているだろう。家令のシュタインは胃を壊していないだろうか。


でも、同時に。八年間の仕事が「あった」ことの証明ではある。わたしがいなくなって崩れたのなら、わたしがいた意味はあった。


それは報われたのとは違う。でも、無意味ではなかった。


◇◇◇


その夜、一通の手紙が届いた。


差出人はヴィクトル・ヘルデン。


封を開ける。爪の先が微かに痺れた。


「戻ってこい。お前がいないと屋敷が回らない」


たった一行だった。


便箋を裏返す。他に何も書いていない。謝罪も、説明も、「お前が正しかった」もない。ただ「戻ってこい」だけ。


八年間を一行で要約された気分だった。


便箋を丁寧に折り、封筒に戻した。


翌朝、返事を書いた。こちらも短く。


「お心遣いありがとうございます。ですが、わたしはもうミュラーの人間です。ご健勝をお祈りいたします」


ベルタに投函を頼んだ。ベルタは何も聞かずに受け取った。


◇◇◇


夕方、クラウスが食堂にやってきた。


「エレーヌさん。お願いがあるのですが」


「なんでしょう」


「あなたの業務日誌を、見せていただけませんか」


業務日誌。侯爵家から持ち出した唯一の私物。写しだが、中身は八年分の記録。


「なぜ?」


「裁判の時に、引き継ぎ書の話が出ました。あなたがどれだけの仕事をしていたのか、記録として残っているなら見てみたい」


「商人の視察に関係ある話ではないでしょう」


「ありません」


素直に認めた。クラウスの目がまっすぐこちらを見ている。いつもの帳面越しの目ではなく、正面から。


「ただ、知りたいんです。あなたが、八年間で何をしてきたのか」


その声に、嘘はなかった。


◇◇◇


旅行鞄の底から、業務日誌の写しを取り出した。


革の表紙は擦り切れている。ページの角が丸くなっている。インクの染みが何箇所かある。


食堂のテーブルに置いた。クラウスが開く。


最初のページは八年前の記録。嫁入り初日の業務引き継ぎメモ。


二ページ目から、使用人の名簿。四十二名。名前、年齢、担当、採用年。


クラウスのページをめくる速度が落ちた。


名簿の横に、小さな文字が並んでいた。


「オスカル・ブラウン。五十五歳。料理長。先代からの勤続三十年。娘マリアの誕生日は秋分の日。好きな花は野菊。左膝が冬に痛む。朝は必ず白湯を飲む」


「ベルタ・シュルツ。四十歳。侍女長。母カタリーナは子爵領在住、冬に腰痛。暖かい湿布を年二回送付。好きな菓子は木苺のタルト」


「フリッツ・ケーニヒ。四十八歳。庭師頭。左利き。新しい剪定鋏を探している。息子二人は農家に奉公中」


四十二人分。全員。


名前と、家族の名前と、持病と、好きなものと、記念日。


八年間かけて書き足された記録が、何ページも続いていた。


◇◇◇


クラウスのページをめくる手が止まった。


五秒。十秒。ページの上に視線が釘付けになっている。


帳面を握りしめる癖が出ていた。感動した時の、この人の癖。


「これは」


声が掠れていた。


「業務日誌よ。使用人の管理に必要な情報だから」


「管理に、家族の誕生日は必要ですか」


「必要よ。誕生日に声をかけるだけで、人の顔つきが変わるもの」


クラウスが黙った。


ページをめくり続ける。途中で唇を引き結ぶ。また進む。また止まる。


最後のページに辿り着いた。


離縁する前日の記録。引き継ぎ書の作成メモ。そして。


「ヴィクトル・ヘルデン。三十歳。当主。好きな朝食は半熟卵とトースト」


クラウスが顔を上げた。


「夫の好きな朝食まで、書いてあるんですね」


わたしは苦笑した。


「書いてあるわね、これ。自分で書いたはずなのに、忘れていたわ」


嘘ではなかった。本当に忘れていた。ヴィクトルの好物まで日誌に書いていた自分に、少し呆れた。


厨房の方で、音がした。


振り返ると、オスカルが入口に立っていた。エプロンで手を拭きながら。目の縁が赤い。


「奥様。わしの娘の名前を覚えていたのは、奥様だけです」


静かな声だった。


「マリアの誕生日に花を届けてくださったのも。わしが膝を痛めた時、医者を手配してくださったのも。全部、この日誌に書いてあったんですな」


「そんな大したものじゃ」


「大したものですよ」


オスカルの声がはっきり響いた。三十年厨房に立った男の、揺るがない声。


「奥様にとっては何でもないことかもしれない。でも、わしらにとっては、全部でした」


ベルタが厨房の入口から覗いていた。目が赤い。アンナも。リーゼも。


わたしだけが困惑していた。


「あの、みんな、泣かないで。大したことじゃないのよ、本当に」


「大したことです」


全員が同時に言った。


クラウスが日誌を閉じた。しばらく何も言わなかった。


それから、口を開いた。


「エレーヌさん」


「はい」


「あなたは」


言いかけて、止まった。口元が動いて、でも言葉にならない。この人が言葉を飲み込む時、左手の親指が人差し指の付け根を押さえる。初めて気づいた癖。


「話したいことがあります。明日、時間をいただけますか」


声が低く、真剣だった。帳面越しの目ではない。正面から、わたしを見ている。


「ええ。明日で」


窓の外で、最後の銀木犀の花が散り始めていた。冬が来る。

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