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使用人が全員ついてきたので、夫の屋敷には誰もいなくなりました  作者: 秋月 もみじ


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第1話 八年目の秋、離縁届を書く


署名する手が震えなかったのは、きっと八年もかけて練習してきたからだ。


羊皮紙の上に、黒インクで自分の名前を書く。エレーヌ・ヘルデン。これで最後。次に名前を書くときは、ミュラーに戻っている。


離縁届は一枚きり。たった一枚の紙で、八年間が終わる。


インク壺の底が見えた。八年分の書類を書き尽くした壺。家計簿、発注書、使用人の勤務表。数えきれないほどの文字をこの壺から汲み上げて、わたしはこの屋敷を回してきた。


回していたつもりだった、というべきか。誰にも気づかれなかったのだから。


◇◇◇


八年前、十八の秋にこの屋敷に来た日のことを、今でも覚えている。


正面玄関ではなく、使用人用の通用口を案内された。案内役の侍女は目を合わせず、「こちらへ」とだけ言った。廊下は長くて、靴音がやけに響いた。


夫となるヴィクトルは書斎にいた。振り向きもしなかった。


「ああ、来たのか」


それだけだった。持参金の額と、子爵家の家紋と、わたし個人の区別がついていたかどうかも怪しい。


義母のマルガレーテはもう少し丁寧だった。ただし、視線が合ったのは一瞬で、すぐに持参金の目録に目を落とした。


「ミュラー子爵家ね。まあ、仕方のないことですわ」


仕方のないこと。わたしの存在は、そう要約された。


◇◇◇


使用人たちも、最初は同じだった。


下に見ていたわけではない。ただ、警戒していた。子爵家から嫁いできた若い娘が、侯爵家の家政など仕切れるはずがないと。当然の反応だった。


ただ一人、侍女長のベルタだけが違った。


荷ほどきを終えて廊下に出たわたしに、ベルタは背筋を伸ばしてこう言った。


「ようこそ、ヘルデン家へ」


たったそれだけ。でも、あの広い屋敷でわたしに「ようこそ」と言った人間は、ベルタだけだった。洗い物で荒れた手を前掛けの裏に隠しながら、まっすぐこちらを見ていた。


あの手を、わたしは忘れていない。


◇◇◇


変わり始めたのは、三ヶ月目。


料理長のオスカルが風邪を引いた日、わたしは厨房に差し入れを持っていった。薬草茶と、蜂蜜を多めに入れた粥。


「奥様が厨房に来られるのは初めてですな」


「風邪なのに働いていると聞いたから。オスカル、娘さんは元気?」


オスカルの目が変わった。娘の名前を知っている主人の家族が、この屋敷にはいなかったのだ。


そこからだった。一人、また一人と、使用人たちの表情が変わっていった。


◇◇◇


八年間で、わたしが覚えたこと。


オスカルの娘マリアの誕生日は秋分の日。ベルタの母は冬になると腰が痛む。庭師頭のフリッツは左利きで、新しい剪定鋏を探していた。馬丁長のヨハンの息子は今年から見習い騎士。


使用人四十二名。その家族の名前、持病、記念日。


全部、業務日誌に書いた。誰かに見せるためではなく、忘れないために。


今思えば、この日誌だけが、わたしの八年間の証だったのかもしれない。いや、証だとか、そんな大げさな話ではなくて。ただ、忘れたくなかっただけだ。


◇◇◇


昨夜のことは、淡々と思い出せる。


ヴィクトルが夕食の席で言った。


「リリアーヌの子を、嫡子にする」


銀の食器がテーブルに当たる音がした。給仕のメイドの手が震えたのだ。


わたしの手は震えなかった。


「そう」


「文句はないな」


文句。八年間、一度もわたしの寝室を訪れなかった夫が、愛妾の子を跡継ぎにすると言う。文句があるかと問われれば。


ある。ありすぎて、どこから手をつければいいかわからない。


でも、口にしたのは別の言葉だった。


「引き継ぎの時間をいただけますか」


ヴィクトルは眉を上げた。


「引き継ぎ? お前がいなくても屋敷は回る」


その言葉を聞いた瞬間、奥歯の裏側が痺れた。じん、と。八年間、ずっと飲み込んできた何かが、歯の根元から頭蓋の底へ伝わるように広がった。


飲み込んだ。最後まで。


◇◇◇


引き継ぎ書は、一晩で書き上げた。


年間行事カレンダー、使用人の人事評価、予算配分表、取引先リスト、屋敷の修繕計画。百二十頁。


書きながら、おかしなことを考えた。オスカルは来月の秋の収穫祭の献立をもう考えているだろうか。ベルタは冬物の衣替えの指示を出しただろうか。


やめよう。もう、わたしの仕事ではない。


引き継ぎ書の束をヴィクトルの執務机に置いた。横には業務日誌も添えた。読まれるかどうかはわからない。というか、読まないだろう。この分量を読むような人なら、八年間のわたしの仕事にもう少し関心を持っていたはずだ。


◇◇◇


荷造りをするほどの荷物がなかった。


嫁入り道具は母のブローチが一つ。あとは着替えが数着。八年間で増えたものは、使い古した帳簿用の万年筆と、業務日誌の写し。


侯爵家のものは何一つ持ち出さない。それだけは、決めていた。


廊下を歩くと、使用人たちの視線がまとわりついた。


侍女のアンナが洗濯物を抱えたまま立ち止まっている。庭師見習いのルーカスが窓の外から目を逸らさない。厨房の方から、鍋を置く音が止まった。


何か言いたそうな顔が、並んでいた。


わたしは微笑んだ。いつものように。


大丈夫。大丈夫だから。


嘘だった。大丈夫なわけがない。でも、この人たちの前で泣くわけにはいかなかった。八年間、一度も泣かなかったのだ。最後の日だけ泣くなんて、格好がつかない。


格好なんて、もうどうでもいいのに。


振り返らずに、玄関へ向かった。秋の風が冷たかった。銀木犀の匂いが、どこからか漂っている。


この匂いは、実家の庭と同じだ。


帰ろう。


八年ぶりに、そう思った。

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