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10 お見舞い、行ってみる? 2

 


「へえ、じゃあもうすぐ退院出来るんだね、良かった!」

 病室のベッド脇の椅子に座り、柔和な笑顔を向けてくる少女。この後ろ髪をポニーテールにまとめた世界で一番可愛い女の子は日向子ひなこという俺の妹である。いつも明るく笑っている太陽のような子で、親父に怒られてると必ず間に割って入ってくれる優しい子だ。

 俺にとって完璧で、最も大切な身内である。


「ああ、入院って本当に暇だったからな。やっと動き回れるよ」

「もう、怪我人なんだから無茶しちゃ駄目だよ?」

「分かってるよ。そう言えば父さんは? 一緒に来たんじゃないのか?」

「うん、『服を買うから先に行っとけ』って言われた」

「そっか」

「じゃあ私そろそろ帰るね。友達との約束があるんだ!」

「ああ、またな」


 妹は笑顔で手を振りながら、病室から出て行った。やはり妹と話していると元気が出る。待ってろよ日向子、兄ちゃんが絶対守ってやるからな。

 その時、病室の扉が静かに開いた。不意打ちを食らった俺はビクッと反射的に姿勢を正す。父親が入ってきたのかと思ったからだ。

 しかし入ってきた人物は、俺の予想とは全く違う人物だった。

「どうして緊張しているの?」


 紙袋を両手に持ち、こちらに歩んでくる人物は近頃、家族の顔よりよく見る存在だった。しかし何ということでしょう。その顔を見た瞬間、俺の心臓は急に早鐘を打ち始めたではありませんか。

「秋月さん……」

「どうしたの? そんなビクンとしたり口を大きく開けたりして。一発ギャグ・打ち上げられたマグロの練習をしているの?」

「ち、違うよ!」


 普段はもっと皮肉を言ったりボキャブラリー豊富な返しが出来る筈だが、今の俺にはこれが精一杯だった。自分でも何故こんなにテンパっているのか分からない。ただ、山で遭難した時のあの出来事を、彼女の顔を見て思い出してしまったのだ。入院中、思い出す度悶々としていた初めての体験についての記憶。それが秋月さんの顔を見たことで鮮明に蘇ったんだと思う。

「武岡くん、元気?」

 秋月さんは椅子に座り、床に紙袋を置いた。いつも嗅いでいるシャンプーの匂い、俺が秋月さんのそれと認識している匂いが香ってくる。林間学校に行く前は全く気にならなかったその匂いが、今は俺の脈を早めている。このままだと高血圧でも治療することになるかもしれない。だとしたら入院中で丁度いい。


「うん、元気だよ」

 俺は平生を装って答えた。

「そういえば、さっき武岡くんに似てる女の子とすれ違ったんだけど、もしかして……」

「あ、分かる? そうそう、あの子は」

「女装した武岡くん?」

「じゃあここに居る俺は誰なんだよスーパーイリュージョンか」

「妹さん、可愛いね、似てるわ」

「はは、よく言われるんだよ」

 笑いながら俺はやはりドキドキしていた。何だか間接的に自分が「可愛い」と言われたように思えたからだ。くそっ! 以前ならこんなアホみたいな勘違いすること無かったのに! どうしたんだ俺!

「本当にそっくりだわ。細川さんに」

「誰なんだよ」

「そうだよ、細川さんって誰よ」

「誰に言ってるの!?」

「あ、そうそう。忘れるところだった」

 秋月さんは床に置いた紙袋をゴソゴソまさぐり、十冊ほどの文庫本を取り出して台に置いた。見覚えのあるピンク主体のカバー、そして絡み合う男たち。

「はい、これお見舞いのBL本」

「容態悪化するわ」

「退院するまでに楽しくBLの勉強をしておいて欲しいと思って」

「苦行だよ俺にとって」

「じゃあ悟りを開くための修行だと思って」

「邪淫の塊じゃねえかそれ」

「そう、そんなに欲しかったのね。なら置いていくね」

「いや俺拒絶しかしてなかっただろ!」


 うん、いつもの秋月さんだ。秋月さんがいつお通り過ぎて俺の調子も何だか戻ってきた。

「それからもう一つ、これ冥土の土産なんだけど」

「俺これから死ぬみたいじゃねえか!」

「はいこれ、バナナ」


 秋月さんが持ってきた2つ目の紙袋には、まるで満員電車のように詰め込まれたバナナがぎっちり詰まっていた。

「武岡くん、バナナ好きそうな顔してるし」

「ゴリラに似てるって言ってる?」

「ううん、使うのが好きそうな顔してるって意味」

「『使うのが好き』って何!?」

 と、ここまで会話を続けて、当初聞きたかったことを思い出す。

「というか秋月さん、来るんなら連絡してくれたら良かったのに」

「私も最初は来る気なんてなかったの」

「無かったんかい」

「でも、病院の近くで『抜き差しならない男たちの関係・歓喜会・注意喚起・イエイ』の作者さんの握手会があったから」

「俺そんな深夜テンションで考えたようなイカれたタイトルの小説の握手会のついでだったのかよ」

 ここまで来ると、当初の熱も急速に冷却されてきた。俺だけドキドキしてたとか、アホらしくて仕方がない。


 そして冷静になった俺の頭はある重要なことを思い出した。

「あ、秋月さん! そうだ、もうすぐ父さんが来るんだ!」

「ああパパ活?」

「そんなわけねえだろ! 何で肋骨にヒビ入って入院中なのにパパ活するんだよ! どんだけストイックなパパ活だよ!」

「今回は本当のパパが来るのね」

「パパ活のパパなんていねえよ! いやこんなこと言ってる場合じゃない! 俺の父さんはすごく厳しい人で、もし俺たちが半分同棲してるってバレたら俺、半殺しどころか9割9部9厘くらい殺されるよ!」

「それはもう死んでいるのでは?」

「とにかく! 父さんが来る前に秋月さんは早く……」

「分かったわ。一本バナナ食べてから」

「のんきか!」


 秋月さんがバナナの皮を剥き始めるのと、コツコツ速歩きの足音が聞こえてきたのはほぼ同時だった。本当に食う気かよこの女。

 急激に、身体が覚醒する。頭の天辺からつま先まで、恐怖で身体が満ちていた。

「と、父さんだ! 秋月さん隠れて!」

「このバナナはどうするの?」

「バナナはどうでも良いわ!」

「このバナナは武岡くんのお尻に入れて隠そう」

「俺のケツ冷蔵庫かなんかだと思ってんのか!」

 もしバナナ入れてる時に父さん入ってきたら俺これからの人生なにを目標に生きていけば良いんだよ!

「確かにこれを武岡くんのお尻に入れたらバナナじゃなくてアナナになっちゃうね」

「アナナ!?」

 足音が間近に近づく。もうここで他人のフリをするのはかえって不自然だろう。


「秋月さん、秋月さんは俺と一緒に遭難した生徒だから、お見舞いに来てても辻褄が合う。だから」

「あらら」

「アナナに引っ張られてんじゃねえよ! とにかく余計なことは言わないで! 半同棲してるとか! その、き、き……一応付き合ってるとか!」

「でも、万が一バレたらどうするの? 」

「その時は……」

「その時は真剣に恋愛しているってことにしない? その方がお父さんの心象も良くなると思うし、親公認ならこの先バレるかどうかで怯えることも無くなるわ」

 秋月さんから「真剣に恋愛」という言葉が出てやはりドキドキする。だが秋月さんの言う通り、バレたらバレたで開き直ったほうが良いのかもしれない。


 その時、勢いよく病室のドアが開いた。

 これが地獄の扉にならないことを祈るばかりである。


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