2
「テレーズ嬢が行方不明になった森の中で、若い女性の遺体が発見されたという噂が流れているらしいよ」
「遺体ですって?」
窓際に置かれた肘掛け椅子に座って本を読んでいた彼女は、美しい眉をひそめてこちらを見た
「もっとも、噂を流したのは僕で、実際には遺体なんて発見されてないんだけどね」
「…悪い人ね」
僕の言葉に、彼女は呆れたように薄く微笑んだ
月光を溶かしたかのように輝く白銀の髪、濃い睫毛に縁取られたエメラルドグリーンの瞳、すらりと背筋を伸ばして椅子に座る姿は上品で気品がある
貞潔の女神アルテミスとも謳われたその美貌は、ある種近寄りがたい輝きを放っていた
隣国の第一皇子の婚約者であったテレーズ・ド・マンシーニが、その座を返上して修道院に入ると宣言したのはひと月ほど前のことだ
しかし、彼女は修道院へ行くことはなかった
なぜなら、彼女は修道院へ向かう途中、馬車もろとも行方不明になってしまったからである
人々は、それを彼女に恥をかかされた第一皇子の仕業であると囁き合った
テレーズ嬢を恨んだ第一皇子が、テレーズ嬢に危害を加えたのではないかと
テレーズ嬢の失踪から程なくして、彼女の父であるマンシーニ公爵が爵位と領地を返上し、そのまま外国へと旅立ったことも、さらなる憶測を呼んだ
そして、今回の遺体発見の噂である
このような噂が流れてしまっては、リュシアン皇子の評判はしばらく浮上することはないだろう
「君ほどじゃないさ」
「私は何もしてないわ」
おどけて笑ってみせた僕に、彼女は涼しい顔で答える
「ベルナルド氏に婚約を解消したいと相談したのに?」
「殿下の幸せを想ってのことよ」
「受け入れられるはずがないと、分かっていたはずだろう?」
「それでも、何かせずにはいられなかったの」
「マルグリット嬢を寵妃にと進言したことも?
寵妃になるような女性なら、身辺を調べられないはずがないと分かっていたよね?」
「それはマルグリット様だって分かっていると思っていたわ。王妃になるにしても寵妃になるにしても、王室のお眼鏡に適わなければ認められることはない。少し考えれば分かることでしょう?彼女が品行方正な女性で、このことがきっかけで王室に入ることになっても、私は全然構わなかったのよ」
彼女は呆れたように首をすくめた
「でも、怒ってるんだろう?」
「…えぇ、だからこの逃亡劇を計画したの」
怒っていると言いつつも、彼女の表情は相変わらず涼やかで、落ち着いている
彼女はいつもそうだった
どのような状況でも決して取り乱さず、涼やかで気品に満ちた態度でやり過ごすのである
「逃亡先に我が国を選んでくれたことは、僕にとってはこれ以上ない名誉と幸運だったな」
遊学先でテレーズに初めて会った瞬間、僕は彼女に恋に落ちた
しかし、その時にはテレーズは、既にリュシアン皇子の婚約者という立場だった
リュシアン皇子が立派な人物であれば、その思いを諦めることもできたのかも知れない
しかし、彼はどうしようもない男だった
いずれ王妃になる女性が優秀であることは、普通なら喜ぶべきことである
だが、彼は自分より優秀であるという理由でテレーズを小賢しいと詆り、上品な容姿を地味だと厭い、見目だけのよい愚かで浅はかな娘と享楽的な日々を過ごしていた
そのような男に、彼女のような高潔で美しい人を渡してなるものかと、僕はなりふり構わずテレーズに胸の内を伝えたのだ
何度も何度も
しかし、テレーズがその想いを受け入れてくれることはなかった
傷心を胸に僕は自国へと帰ったが、彼女への気持ちを諦めることは出来なかった
そんな僕の元へテレーズからの手紙が届いたのは、二ヶ月ほど前のことだ
リュシアン皇子の婚約者の座を返上し、修道院へ入ると見せかけて我が国に亡命したいとの記述に、僕の心は躍り上った
それから何度も手紙のやり取りをして、入念な下準備を施し、テレーズは僕の国へとやってきたのである
我が国との国境にほど近い修道院を探し、その近辺から滞りなくこちらの国へ入国できるように手配をした
テレーズが恙無く暮らせるように住居も用意し、こちらの国にいることがリュシアン皇子にバレないように徹底もした
テレーズの方も、少しずつ身の回りのものをこちらへと送ってきたり、父親も屋敷の売却や領地を返上する手続きの準備を進めているようだった
リュシアン皇子がパーティーでテレーズを断罪しようとしたのは完全なイレギュラーだったが、おかげで皇子にとっては最悪の形で行方をくらますことに成功したわけである
「リュシアン皇子は、当分再起不能だろうね。謹慎プラス王位継承権の一時返上、愛しい彼女は戒律の厳しい修道院送りになり、自分には元婚約者の暗殺疑惑がかけられているとあっては…。王位継承者に返り咲くことは、難しいかも知れないな」
「あら、返り咲いてもらわないと困るわ。お楽しみはこれからなのに」
楽しそうにテレーズは笑う
「私はね、怒っているの。殿下にも、殿下を取り巻く全ての人たちにもね」
「ベルナルド氏にも?」
「当たり前でしょう。マルグリット様のことを知らずに放置していたならただの無能だけど、彼は知ってて放置していたのよ」
「なぜ?」
「私を…私とマンシーニ家を手に入れるためにでしょうね。パーティーのあった日の翌日、彼は家に来たのよ。修道院に入らずに自分と結婚して欲しいと告げるためにね」
「醜悪だな。彼は君の父上より歳上じゃないか」
「婚約破棄された女性が良い条件のところへ嫁ぐのは難しいわ。それを考えれば、私の結婚相手になり得るのはベルナルド氏くらいしかいなかったとは思えなくもないわね」
テレーズの国では遅くとも12歳前後でお相手が決まってしまう
10代の後半にもなってから新しく婚約者を探そうとしても、同年代の相手を探すのは難しい
その時期になっても婚約者が決まっていないとしたら、本人や家やらに何かしらの問題がある人物だとしか思えない
没落寸前で家計が火の車であるとか、低位の貴族の三男で爵位も出世も望めないとか
爵位が低ければ裕福な商家に嫁ぐこともできるだろうが、テレーズは公爵家の娘である
立場的に、そのようなところへ嫁げるわけがない
むしろ、第一皇子の元婚約者なのだから、中途半端な没落貴族などにも嫁ぐわけにはいかないのである
とすると、宰相のベルナルド氏との婚姻は理に適ったものだとも言える
地位も名声もあり、皇子の尻拭いをするという大義名分もある
後妻になることと年齢差さえ考慮しなければ、条件の悪い相手ではない
「それを知っていたから、彼はマルグリット嬢のことを放置していたのか。君を手に入れてマンシーニ公爵家の後ろ盾を得るために」
「そうね。私が婚約破棄されれば、次のお相手になり得るのはベルナルド氏が最有力候補だったから」
「とすると、パーティー会場で君を庇ったのは善意からくる行動ではなかったのだな」
「自分の妻にと考えている相手が、公衆の場で貶められてしまったら困るからでしょうね。私を庇うことで私の父にも恩を売れるし、このことがきっかけで結婚することになったと吹聴することもできるわ」
「なかなか食えない男だな」
「信頼できる忠臣とは言い難いわね。それに、あれだけ派手に遊びまわっていたのに、マルグリット様のことは陛下の耳には全然届いていなかった。誰も報告していなかったのよ。おかしいと思わない?」
「保身だろうな。進言してリュシアン皇子の不興を買いたくないとか、万が一とは言え、マルグリット嬢が王妃になったりでもしたらと考えると、黙っているのが得策だと思ったのだろう」
「そんなところでしょうね、ベルナルド氏も他の貴族たちもね。だから、今回私がマルグリット様を寵妃にと推薦したことにより、初めて陛下に彼女のことを伝えることができたのよ」
「君の推薦を口実にすれば、自分が怨みを買うこともなく、全くの善意を装って陛下にマルグリット嬢のことを進言することができるものな。彼女の所業が明らかになれば、マルグリット嬢が王室に入ることは絶対にないから、ばっさり切り捨てることもできたってわけだ」
「マルグリット様が派手に遊びまわってもお咎めなしで学生生活を楽しめたのも、リュシアン皇子のお気に入りだったおかげもあるでしょうね。学園側も、次期王妃になるかも知れない彼女を罰して不興を買うことを恐れ、他の貴族からの進言を握り潰してきたのでしょうよ」
「結局、マルグリット嬢は一番の貧乏くじを引き当ててしまったみたいだけどね」
僕がそう言うと、テレーズは困ったように目を伏せた
「そうみたいね」
マルグリット嬢は、もっとも戒律の厳しい修道院に入ることになった
彼女の父親は、最初はもっと戒律の緩やかな修道院に入れるつもりでいたらしい
一年ほど謹慎してほとぼりを冷ました後、どこか裕福な商家にでも娘を嫁がせるつもりだったのだろう
しかし、修道院側がマルグリット嬢の受け入れを拒否した
マルグリット嬢のおかげで娘が婚約破棄された家や息子が身を持ち崩した家、またその家と親しくしている人たちなどが、彼女を受け入れるなら今後は一切の寄付をしないと通達したからである
基本的に貴族からの寄付で成り立っている修道院側からすれば、そのような通達が来れば否が応でもない
その結果、マルグリット嬢の受け入れ先は、もっとも戒律の厳しいカノッサ修道院しかなくなってしまったのである
敬虔な修道女の修行の場であるカノッサ修道院では、食事は粗末なパンと少量の野菜が入ったスープだけ、冬でも暖炉に火をくべることもせずに、冷たい水で毎日禊をしなければならないらしい
もっと早い段階で、ベルナルド氏がリュシアン皇子を諌めていれば、このようなことにはならなかったのかも知れない
側近の誰かが、王にマルグリット嬢のことを進言していれば
学園が彼女を謹慎処分にしていれば
平民上がりのボナシュー男爵が、もっと貴族社会のルールを理解していて、王妃の父親になれるかも知れないなどという大それた夢を見たりせず、早くに娘を諌めていれば
「カノッサ修道院に入るくらいなら、牢に入った方が良いわ。服役するだけなら、いつかは出られるんだから」
カノッサ修道院は、一度入ると出ることはできない
生涯を神に捧げる人のための施設なのだ
「修道院に入るのをのらりくらりと引き伸ばしていたようだけど、君の遺体が見つかったという噂が流れてからはそうもいかなくなったようだ」
「…それは、申し訳ないことをしてしまったわね」
「マルグリット嬢に怒ってないのか?全ての元凶は彼女だろう?」
僕の問いかけに、テレーズは思案顔で答える
「不快感がないとは言えないけど…そうね、結局マルグリット様は少しばかり無知で浅はかだっただけだと思うのよ。平民出身なのに煌びやかな貴族社会の仲間入りをして、素敵な殿方にちやほやされて舞い上がってしまったのでしょうね。諌められても聞く耳を持たなかったことは彼女の責任だけど、ルールを理解しているはずの殿下やフリック様たちがルールを無視したんですもの。そちらの方が罪が重いと思うわ」
「なるほど」
「それから、それを知っていて自らの保身のためにだんまりを決め込んだ人たちもね」
テレーズの目に、軽蔑の色が浮かぶ
「王族が誤ったことをしていれば、それを諌めるのが臣下の責務。女性に振り回されていることすら諌められないのなら、もっと大きな過ちに直面してもそれを止めることなんてできないわ。あの国の人たちは、みんな腐っているのよ」
「だから、君は国を捨てることにしたのか?」
「…殿下の婚約者に内定してから、私は必死で王妃として勉学に励んできたわ。財政管理から外交から貿易や国防に至るまで、それこそ政務に関わる全てのことを。それを踏まえて見えてきたのは、国のシステムが崩壊寸前だったと言うことよ。危機感を覚えた私は、何度も殿下にシステムの不備を進言したの。だけど、彼には理解してもらえなかった。小難しい政治の話より、楽しいおしゃべりをお好みだったの」
「それこそ、マルグリット嬢のお得意な内容の話だな」
リュシアン皇子と仲良くしながらも、隣国の王太子である僕に対しても興味津々だったマルグリット嬢のことを思い出して、僕は少し苦笑した
今朝は小鳥の鳴き声で目覚めてとても楽しい気分ですとか、厨房からパンの焼ける香りが漂ってくると幸せな気持ちになりますとか
空色の瞳をきらきらさせながら話しかけてくる彼女は確かに愛らしかったが、きちんとした会話をするのには物足りない相手でもあった
彼女の側も、堅苦しい僕の話は退屈だったらしく、早々に僕から離れて行ったのだ
「私には、マルグリット嬢みたいな可愛らしいお話をすることはできないわね」
僕の言葉に、テレーズも苦笑してみせる
「それに、殿下は執務関係のことに対して、あまり関心がなかったみたいだから」
一国の第一皇子ともあろう人がそんなことで大丈夫なのかと思わないでもないが、あのリュシアン皇子である。驚きはない
「でも、それならば結婚後は私が裏から全面的に手を回して国政を回していけば良いと思っていたのだけど…私が思っていた以上に中枢部の人間が腐っていたの」
「いくら君が国政を良くしようと頑張っても、それに手を貸してくれる人がいないんじゃどうしようもないもんな」
「学園で知り合った人たちとは、それなりの信頼関係を築けていると思っていたのだけれどね」
そう言ったテレーズの顔は、これまでになく寂しそうだ
「衛兵を呼び出した殿下に対して、それを諌めたり私を庇いだてしようとする人はいなかった。殿下の行動が常軌を逸したものだと分かっていたはずなのに、何もせず黙って見ていただけだった。…ジョアンナ様ですらね」
「テレーズ…」
憂いを帯びた彼女の頬に、僕はそっと手を伸ばす
それは、国の腐敗に対して抗おうとし、なんとか体制を立て直そうと尽力したテレーズが、心折れた瞬間だったのかも知れない
「近い将来、僕は君の国を潰すよ。どうせ放っておいてもあの国は滅びる。それなら、いっそのこときっちり潰してしまえばいい」
そう言った僕を見るテレーズの瞳には、なんの感情も浮かんでいない
「潰して吸収して、我が国の一部として運営していけば良い。あの国を知り尽くした君がいれば、そう難しいことではないさ。僕と共に、君の思う通りにあの国を作り変えていけばいい」
「…私を手助けしてくださいますか?」
そっと目を閉じて、テレーズは僕の胸にその頭を預けた
僕は、その華奢な身体に手を回す
「僕の手足は君のためにある」
ベルナルド氏は、自分の判断で動いているつもりで、全てテレーズの思い通りに動かされていた。
マルグリット嬢は、犯した罪には重過ぎる報いを受けた
リュシアン皇子に対して、テレーズは可笑しな言葉を口にしていなかったか?
「お楽しみはこれからなのに」と
もしかしたら、僕はテレーズの手の平の上で転がされているだけなのかも知れない
僕は、彼女にとって、母国を攻め落とすための駒でしかないのかも知れない
顔を上げて僕を見つめるテレーズの瞳には、やはり何の感情も浮かんでいない
そんな彼女の唇に、僕はそっと口づけをした
…駒だとしても構わない
彼女が望むなら、僕はどのようなことでもしてみせる
あの国を焦土に変え、リュシアンの首を彼女の足元に供えることも厭わない
彼女の細い腕が、僕の背に回された
僕は、もう抗えない。抗うつもりなど初めからない
全て彼女の思うままに、このままテレーズという名の地獄に堕ちていくだけだ