DAY AFTER #8.5
「今年は、特別な夏に、なりそうです!」
今日もひとしきりジャンプの練習をこなし、そのどれもを見事に成功させた絵奈が、夏空のように澄み渡る笑顔で、そう言った。その頭上には、真っ白な飛行機雲が、たった一本の線となって、ニューマンの絵画のように、青一色の空を彩っていた。目につくしるべのようなものが何もない青空に、ただ一筋、どこまでも迷いなくまっすぐと伸びていくようなそれは、私たちの進む先を指し示しているようにも見え、いやむしろ、そのいく筋もの水蒸気の束が一本に縒り合わさって、決してほつれることなく固く結びついているさまは、わたしたち4人の姿そのものと言ってよかった。
特別な夏、特別な空。
その空に、やはり他のどれとも違う、特別な飛行機雲が光っている。ほとんど似たような姿をしていても、全く同じ飛行機雲というものは、2つとしてないのだ。
私は、あんな風に、特別な存在になれているのだろうか? ふとそんな、焦燥を帯びた承認欲求の衝動に襲われるのは、夏空があまりにも眩しくて、だからこそその儚さに余計に思いを馳せてしまうからなのかもしれない。その輝く太陽の光を、あるいはもっと輝く絵奈の笑顔を、私は、ずっと見ていたい、どこにも行かないで欲しいと願い、だからこそこう思う。絵奈にとって、みんなにとって、私は特別な仲間でいられているのだろうか?
……ふん、くっだらねえなあ。
私は、もはや自身の確固たるアイデンティティとなってしまったあまのじゃくを存分に発揮し、青春の特別さ、輝かしさへの憧れを、躊躇なく唾棄してやった。
そう、私は決して特別な存在なんかじゃない。とことん平凡な人間である。社会の規範を逸脱しないように常に気を使いつつ、とるに足らない個性にすがりついて生きている。顕微鏡で見ないとわからないほど細かい植物の細胞一つ一つのような、どこにでもいる、代わり映えのしない、どうでもいい存在。しかし、だからこそ私は気楽に生きていくことができるんだ。自身が凡庸であることはもはや救いですらある。
そもそも、何かが、または誰かが、特別であるということは、文字通り、自然な状態ではないのだ。とあるコンビニの店員さんが、とてもとても、それはもう特別なお方であられたら、よそのお店で買い物なんかできなくなってしまうだろう。高度に組織化された社会は、匿名性によって動かされているのだ。ある日突然、誰かがふっといなくなってしまっても、次の日にはその後釜を、他の誰かがしれっと埋めてしまっている。かさぶたが、擦りむいた皮膚を治すみたいに、何事もなく。怪我をしていたことにさえ、誰も気がつかない。そんな世界のたくましさ、健全さに、人々はもっと思いを馳せてみてもいい。自分の幸福を、他の誰かの尽力に依存しなくても良い、また、誰か幸福にする為に、自身が犠牲になることもない世界。そのしたたかさ、たくましさはもはや頼もしいほどではないか。特別な存在を前提としなければ成り立ち得ない世界、それは脆さの具現である。そう、特別性とは、弱さと同義なのだ。
私たちが子供の頃、両親はとても特別な存在だった。もちろん大人になっても特別であることには変わりないのだが、外を歩くときは手を引かれ、眠くなったらその背におぶってもらっていた、まるで自分の体の延長された一部であるかのような特別さには、及びもつかない。また、その頃近所に住んでいた同年代の友達は、ただ近所にいるというだけでとても特別な存在だった。それらの特別性は、自分が一人では生きていけないこと、また、地元の土地を離れて遠くへ行くことができないということが前提となっている。誰かが特別な存在であることは、自分の弱さ、無力さに依存しているのだ。成長すること、大人になるということは、その弱さ、特別さを漂白して、まっさらにしていく努力の過程である。本当に特別だった友達、彼らなしでは生きていけないとまで思っていた仲間たちさえも、昔よく遊んでいた誰々さんとして記憶の片隅に追いやって、一人で生きていける立派な、どこにでもいる大人になっていくのだ。青春の心に刺さったとげのようなものでさえ、そのとげによって私がより私らしくいられるのだとしても、その傷を「弱さ」と定義して、それを「治癒」し、無傷でつるつるな、完璧な人間になっていかなければならないんだ。ちょうど、シャツについた汚れをすっかり洗い流して、新品みたいに綺麗な、誰のものだかわからないような状態に洗濯してしまうみたいに、どこに出ていっても恥ずかしくないような大人になるために、自分の生きてきた痕跡を完全に消してしまわなければいけないんだ。
ふと見上げると、特別だったはずの飛行機雲は、風に煽られ、大気に溶け込んで、今にも消えてしまいそうになっている。その下の方に目をやると、都会の濁った海が、まるで全てを呑み込もうとするかのように広がり、ありふれた水平線を形作っていた。左右にそびえ立つ建造物どうしを結ぶように引かれたその線は、空に対して自分の領土を宣言するかのように、あるいは自分自身を閉じ込めるための柵を築くように空間を隔てていた。これから、何万本もの飛行機雲がその上空に浮かんでは消えていったとしても、この特別でも何でもない水平線は、ユークリッド幾何学の基礎定理のように微動だにせず、地球が自転するのをやめるその日まで、そこに存在し続けるのだろう。
そして、私の視界の、その水平線よりもさらに下の方には、いつか見たような綺麗な形のつむじがじっと私のことを見つめていた。
「ねっ、特別な夏になりそうですよね、依緒ちゃん!」
絵奈は、そのちっちゃな顔からはみ出しそうなくらいに広げた笑みを、こんな私なんかにももったいぶらずに見せてくる。そのあまりの可愛らしさに、私の視線は彼女から離せなくなってしまった。そして、私がうだうだと心の中でかき回していたくだらない考えなんか、突風が煙を煽るみたいに、一瞬にして吹き飛ばしてしまうのだった。
そんな絵奈はやはり、私にとって、どうしようもなく特別な存在だと言うほかなかった。
ずっと引きこもっていた私に、ようやくできた、大切な友達。
「私、依緒ちゃんと友達になれて、本当によかったです。依緒ちゃんは、私にとって、とても特別な存在ですから」
と、私にとってだけ特別な存在であるはずの彼女が言う。どうしてだろう? 彼女は、とても可愛らしくって、誰からでも好かれそうな素直な性格をしているから、きっと友達だってたくさんいて、私なんか、その中の一人に過ぎないのに。きっと私の方が、絵奈や、みんなに出会えてよかったと思わなければいけない立場なはずなのに。
「私、せっかくみんなと仲良くなれたんだから、次のライブも絶対に成功させたいです! さ、また練習再開しましょう!」
そう言って笑う絵奈の顔には、ひとかけらの嘘もなかった。相手が自分にとって特別な存在であると認めながら、その相手が自分をどう思っているか確かめもせずにけろりとしている彼女のことを、私は尊いと思った。
本当に人を愛するということは、そういうことなのかもしれない。
そもそも、自分が相手に抱くのと全く同じだけの愛情を、相手にも自分に向けてほしいと願うことは、鏡に映った自分自身を愛するような虚しい行為である。それは、自分が頭の中で作り上げたバーチャルなキャラクターとの疑似恋愛を夢想するようなものであって……、例えば……教育実習でうちの高校に来ている若い体育大学の男子学生が、クロールのできない私に、なぜか放課後の誰もいないプールで2人っきり、手取り足取り泳ぎ方を教えてくれていて、彼はバミューダショーツ姿で胸板が目のやり場に困っちゃうくらいに分厚くって、私はスクール水着姿でお尻のところがすぐ食い込んできちゃって超恥ずかしくって、彼は彼で、べっつに興味ねーよ、みたいに澄ました顔してるけど本当はさっきから太ももの方チラチラ盗み見ているの私気づいてて、ほら、俺の言うとおりにすれば絶対泳げるようになっから。な? 返事は? は、はいっ! なんでも言うこと聞きますっ! も、もっとたくさん、教えてくださあぁいっ! ……へぇ、素直でいい娘じゃん。気に入った。じゃあまず、バタ足をもっと大きくして、太ももを、ほら、こういう風に激しく、激しく動かして、ほら! もっと激しく、もっと激しく……ひゃ、ひゃああっ、く、くすぐったいですぅぅ! いやああぁぁっ! ……みたいな妄想を抱くようなものであって……って、ゲフンゲフン! わ、私はそんな妄想してないよ? ほ、ほんとだよ? と、とにかくですね! 誰かを愛するということは、生まれつきそれぞれ異なっている私たちの、その悲劇的なまでの違いを受け入れて、そっと抱擁することなのである。単なる安心感を得るだけのために、みんなで同じ感情を共有して、それぞれの個性を消し去ることを互いに強要し合うことなんかではない。むしろ、一人一人違うからこそ、誰かを愛するということが価値を持つと言わなければならないのだ。
そう、私たちだって、それぞれ全然違う性格をしている。私は後ろ向きにひねくれてるし、絵奈は大人しくて泣き虫だし、椎香は超ポジティブな優等生タイプだし、それでも、私たちはかけがえのない仲間になることができた。他の誰かに合わせて、自分の性格を作り変えたりせずに、ありのままの自分で、相手を愛し、相手に愛される存在になることができた。そんな私たち3人の関係は、やはり、誰がなんて言おうと特別な関係と……
「今年は、特別な夏に、なりそうだっ!」
ぎゃー! た、妙有! いたの!?
あれ? 今日の絵奈はいつもよりも随分と背が高いな、って思っていたら、それは絵奈ではなく妙有だった。絵奈そっくりの髪型に、絵奈そっくりの服装、絵奈と同じ透き通るように綺麗な白い肌。まるで、小学生のとき学校に置いてあったスライド映写機で絵奈を拡大して投影したような、彩色した絵奈の影のような妙有の姿が、そこにあった。
……そして、まるでそれが本当の影であるかのように、私は、今の今まで、彼女の存在に気がつくことができなかったのだった。
「ねっ、特別な夏になりそうだよね、依緒!」
妙有は、絵奈そっくりな表情を浮かべながら、絵奈そっくりなことを私に言ってくる。その絵奈そっくりの愛くるしい微笑みを向けられても、私は、笑顔を返すことができなかった。その言動も、思考も、全て誰かの真似事なのだとしたら、私は、目の前のこの少女を、一人の人間としてちゃんと受け入れることができるのだろうか?
うーん、やっぱり前言撤回だ。私たち4人の中で、一人だけ自分の性格を作り変えちゃった子がいるぞ。そしてその子は、どういうわけか、私たちの中に上手く溶け込めていないのだ。誰からも知覚されることなく、私たちの意識の血管の中を、ぐるぐると目的もなく循環しているだけなんだ。
妙有が本当はどういう子で、普段どんなことを考えているのか、私は未だにちっともわかっていなかった。そして、よくわかっていない相手を、本当の意味で深く愛するなんてことは、当然、できないのだった。
「あたしさー、せっかくみんなと仲良くなれたんだから、次のライブも絶対に成功させたいよー。さ、また練習再開しよっ!」
そう妙有が言うと、私たちは練習を再開するために立ち上がった。そしてほんの数秒後には、誰が練習再開を宣言したかなんてことは、もう忘れてしまっていた。
スマホのイヤホンジャックから伸びたケーブルは、ポータブルスピーカーに繋がっている。そこから大音量で流れてくる音楽に合わせて、私たちは踊り出す。複雑に絡み合う重厚なベース音と、恍惚とするほどに甘美な歌声に身をまかせるように、私たちの体はするすると動く。
巨大な窓ガラスに映る私たちの姿をチェックしていると、みんな全く同じ振り付けを踊っているのに、そこには微妙な個性の差があることが見て取れる。テーマ曲がとてもハードでカッコいい雰囲気なので、それを踊っている絵奈は、ちょっと背伸びしたおませさんといった感じで、また違った可愛らしさが覗くのだ。背の高い椎香は、その曲調に大人びた彼女の魅力を引き出されて、まるで海外の有名アーティストの公式バックダンサーのようにカッコいい。
……え? わ、私? 私は、そ、そりゃーもちろん、もともとは下界の民の精神世界が怒りや憎しみによる連鎖で汚染され、腐敗していくさまを憂いた神々によって産み落とされたオートマタ、その一挙手一投足に強い魔力が符号化された救済の舞いを踊り、世界を原初的、本能的なリズムに包みこむことにより人々の持つ精神波動が臨界点を超えて振り切れてしまうことを防ごうとする目的のために作り上げられた機械仕掛けの堕天使(ルキフェル=エクス=マキナ)なんだけど、やがてそれが3度目の世界大戦の危機を水際で食い止めた際に、人類の犯した罪をその一身に背負うと引き換えに初めて得た意識と自由意志を持て余し、気がついたら自分自身が怒りや憎しみに、初めて得た「心」を占領されているのを発見して、ああ、神よ! なぜ我に心などという忌まわしきものを与えたもうた! 見よ、我はすでに愚劣で卑小な人類と同等の存在にまで堕してしまいました! こんな我をあなたはお救いにはならないのですね! 星屑一つ見えない真っ暗な天に向かって祈るように叫んだその声は、冷たく湿った夜気の含む水分の粒子を振動させ……あれ? おかしい。私は天空により作られしからくり人形。どんな言葉もその口から発することなんてできないはず。そこで初めて私は自分の体の中で、冷たく錆びついた歯車が回転していないことを発見した。代わりにそこには、暖かい液体が脈打つように流れていて……私は人間の体を獲得していた。ふっ、皮肉なものだな。どうやら人間が人間であるためには、その心の中に消せない罪を抱え持っていなければならないようだ。ならば私は踊ろう。終ぞ自分自身さえ救うことのできなかった、その綺麗事だけででっち上げられた作り物の踊りなんかではなく、生まれながら罪深い私たち人間が、その罪を背負いながらでも強く強く生きていくための舞いを。罪にまみれた大地に産み落とされ、大地から飛び立つこともできずに、最後は朽ち果ててその大地へと還っていく運命の私たちが、確かな両の足でその大地を踏み鳴らし、遥か天界まで轟き渡る地のリズムを、奏でようではないか……
「依緒ちゃーん、さっきからなにぶつぶつ呟いてるんですかー? もっとダンスに集中してくださーい!」
……そ、そんな元機械仕掛けの堕天使であることで世界的に有名な私なもんだから、もちろんこんなハードで、ダークで、ドゥームなダンスチューンは、皮膚がそのリズムを呼吸するかのように体の動きにぴったりと合っているのだ。……その、まあなんだ、とにかく私まじ最強なのだ。まじで、他の誰よりも、最強なのだ。最上級の名詞に比較級の修飾語をつけちゃうくらいに、最強なのだ。そんな可愛かったり、かっこよかったり、最強だったりする私たち3人それぞれの個性が、そのダンスのパフォーマンスに立体的な奥深さを、重層的な趣を加えていた。それは確かに、一種のチームワークと呼んでよかった。
そう、これこそが私たちの強さの秘密なんだ。ジグソーパズルのピースみたいに、それぞれの個性が組み合わさって、初めて一枚の絵が完成するんだ。
「依緒ー! さっきからなにぶつぶつ呟いてんのさー? もっとダンスに集中しなよー!」
………………。
その一枚の絵の片隅で、景色が灰色に染まっていた。
そのモノクロームのフィルターの先には、妙有がいた。スピーカーから流れてくる音楽のリズムに合わせて、彼女の体は軽やかに躍動していた。振りを間違えることもなく、へばって動きが鈍くなることもなく。美しいフォームを描きながら、彼女は踊っていた。
ただ、その姿は、恐ろしいほどに個性を欠いていた。
妙有は確かにそこに存在しているはずなのに、じっと目を凝らさないとそれを感じ取ることができないのだった。みんなのダンスをコピーしたかのような妙有の姿が、脳の錯覚か何かにより、巨大な盲点に入り込んでしまったかのように、しばしば見えなくなってしまうのだ。
「さあ、ここからがサビですよ! みんな、集中、集中です!」
絵奈がそう叫ぶと曲調が変わり、サビが始まる。このパートはとても難しい。4つのフェーズに分かれている振り付けを、メンバーそれぞれが時間差で、バラバラのタイミングで踊るのだ。他のメンバーの動きを注視しつつ、自分のダンスも完璧にこなさなければ、最後に再びタイミングを合わせてみんなで踊ることができない。この前のライブでは、このパートがどうもうまくいかずに、悔しい思いをしたんだ。
「さあ、行きますよ!」
「「「おおーっ!」」」
みんなのモチベーションが頂点に達した。いざ、リターンマッチ! まずは絵奈が天を破らんとばかりに右手を高く突き上げてくるりと一回転し、1テンポ半遅れて私が中腰になって、胸の前に出した指先で空中に文字をなぞる。さらに遅れて椎香がしゃがみこんだ姿勢でゆっくりと肌を撫でるように自分の肩を抱く仕草をみせる。これにより、上から下へと流れるようなダイナミック動きをメンバー全員で作り上げることができ、一人ひとりでは実現できなかった表現の幅を……、
「あ、あっれー? いっけなーい!」
椎香の隣で、妙有がそう叫んでいた。椎香の動きにさらに1テンポ遅れて、片膝を立てたうつ伏せの格好になってヒョウのように地面を這うはずの妙有は、あろうことか直立して右手を空に突き出していた。つまりは、絵奈と同じ振りを踊っていたのだ。
「あはは、ごめんごめん。失敗しちゃったー。てへっ」
「ぜ、全然、大丈夫ですよ! 気を取り直して、もう一度頑張りましょう!」
あんまり悪びれてない妙有を見て、私は、前々から彼女に言いたいと思っていたことが、どんどん頭をもたげてくるのを感じていた。
「――あっ、いっけなーい!」
2度目の練習でも、またもや妙有は絵奈と同じ動きをしてしまっていた。
「いやー、ごめんごめん。でも、ぜ、全然、大丈夫だから! 気を取り直して、もう一度頑張ろう!」
「ねえ、妙有?」
私は我慢できずに、彼女を諭すように話しかけた。
「人真似ばっかしてちゃ、ダメだよ」
「……………………」
一瞬、至近距離で見つめ合う私と妙有の間で、時間が止まってしまったような沈黙が流れた。彼女の瞳は、ビスクドールのそれのように動きを止め、どこにも焦点を合わせないまま、目的もなくただ私の方へと向けられていた。まるで、自分が何を言われたのか、理解できていないかのようだった。
「あ……、そ……、そ……」
やっと声を出すことを思い出した妙有は、明らかに動揺していた。そういえば、彼女がこんな風に取り乱したそぶりを見せるのは、これが初めてのことだった。
「……そうだよね。人の真似ばっかりしてちゃ、ダメだよね」
妙有は、弱々しくそう呟いた。まるで、小中高大とずっと、「周りのみんなに合わせて行動しましょう!」と指導され続けてきた学生が、就活の面接で「あなたが他人と違って我が社に貢献できることは何ですか?」といきなり尋ねられたときのように、自信なげにキョドキョドと目を泳がせながら。その表情は何かに怯えているようにさえ思えた。私のかけた一言によって彼女がそうなってしまったのは明らかだったが、私に対して怯えているのではなく、むしろ、私の言葉によって、何か忘れていた恐怖を思い出してしまったように見えた。
私はすっかり面食らってしまった。私はただ何の気なしに注意しただけであって、こんな風に彼女を動揺させてやろうなんてつもりは全くなかったのだ。むしろ、彼女が動揺することなんてあるんだ、ということが私にとっては驚きだった。普段の彼女は、何を言われてもひょうひょうとしていて、人の言葉を右から左へと受け流しているようなところがある。私の投げかけたキャッチボールの球を、ドッジボールか何かと勘違いして、するりと身をかわしてあっけらかんとしているのだ。だから彼女はどこかつかみどころがなくて、いつも彼女の存在に気付けないのだ。
ところが、今私の目の前にいる彼女は、そうではなかった。
私の言葉によって傷つく可能性のある、一人の、普通の女の子だった。
そして、そんな彼女のことを、もう私は意識の外に追いやることができなくなっていた。今まで、私たちの人間関係の地図上に、実体を持たないお化けのようにゆらゆらとただよいながら影を落としていただけの彼女が、突然その体に質量を獲得して、周囲の環境に自分を認識するように迫っているような気がした。今まで私たちの間を自由に吹き抜けていた風は、急に空気抵抗を得た彼女の存在によってその流れを遮断され、彼女の体の周りには独自の重力場が形成されて、私たちの親密な息遣いの流れる心地よい空間を歪めていた。
「――ごめんね。あたし、みんなに合わせて、みんなと同じように振舞っていれば、誰にも迷惑かけないと思ってた。でも、そんなんじゃ、ダメだよね」
そう言って下を向きながら、しゅんとしている妙有のことを見て、私は胸が苦しくなった。彼女のそのすっとぼけているようにさえ見えた迎合性は、決してふざけていたのではなく、彼女が悩んだ末に生み出した一種の処世術のようなものだったのではないか? 私は愚かにも、そんな彼女が必死で積み上げてきたものを、賽の河原の鬼のように、土足で蹴り崩してしまったのだ。自分を貫くこと、個性的であり続けることは、時として耐え難いほどの苦痛を生み出すこともあるだろう。妙有の過去について、私は何も知らないけれど、もしも彼女が、過去のある時点でそれを手放すことを選択したのだとしたら、誰もそのことで彼女を非難できるはずはない。そうだ、やはり、特別でなければいけないなんて考えは、どこかに投げ捨ててしまえばいいんだ。
ごめん、妙有、私、言いすぎた――
「そうですよ!」
私が謝りかけたその言葉は、喉から出てくる前に、絵奈の言葉によって遮られてしまった。
「妙有ちゃんは世界に一人しかいないんだから、自分らしくいることを忘れちゃダメですよ! 今、依緒ちゃんにもそう言われたじゃないですか」
――えっ? ちょ、ちょっと待ってよ。私そんなつもりで言ったんじゃ……
「妙有ちゃんは特別な存在なんですよ! それを忘れないでください!」
「も、もういいじゃない、絵奈?」
私はなんとかその場を取り繕うとした。
「さ、練習始めよう! 練習! 妙有も、椎香も、ほら……」
「……………」
「椎香?」
ぽけっとして立ち尽くしている椎香の姿をがそこにあった。そういえば彼女は、今日はずーっと無口なままだった。珍しく落ち込んでいる妙有のことを励ますでも慰めるでもなく、ただ黙って、綺麗な薄桃色に染まった唇をぽかんとだらしなく開けながら、流れる雲をぼんやりと眺めている。
「椎香! 聞いてるの?」
「……え? な、何?」
「何、じゃないでしょ? 練習、始めるよ?」
「……あ、ご、ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」
椎香は、心ここに在らずと言った感じの顔を隠そうともしなかった。突然練習再開を宣言した私のことを、こいつ何言ってんだろ? みたいな目で一瞬見ていた。
……なんだよ。元はと言えば椎香が言い出したことなのに、私ばっかり頑張っちゃって。これじゃあ、私が馬鹿みたいじゃないか。
再び自分のポジションについて、曲の始まりのフォームを構える彼女のことを、私は、ちっ、と舌打ちしながら横目で見ていた。そのせいで、私がフォームを構えるのが、一瞬遅れた。
「ちょっと、依緒ちゃん? 練習始めますよ? さっさと準備してください!」
……ちぇっ、うるさいな。わかってるよ。私がさっきそう言ったんじゃないか。
絵奈の何気ない一言に、私はむっとしてしまった。別に私を怒らそうとして言ったんじゃないってことぐらい、わかっていたのに。
上空にかかっていた飛行機雲は、気がついたらもうすっかり消え去ってしまっていた。それを構成していた水蒸気の束は、元の水分子に戻って、バラバラになって大気の中に溶け込んでしまったのだろう。
……いかんいかん、何をぼーっとしているのだ、私は。練習に集中しないと。私は自分を奮い立たせる。今日はみんなが苦手とする難しいダンスを重点的に練習しているのだ。次のパートは私が特に苦手にしているところだ。ここはひとつ、一発でばしっと成功させて、みんなに私の力を見せつけてやるんだ。
曲の始まりと同時に私たちめがけて飛んでくる激しいベース音の嵐の中、私はくるりと素早くターンしながら、足を前後に交差するようにステップを踏んだ。やった! うまくいったぞ! ほらね、やっぱ私って最強じゃん? どんな苦手なことだって、こうやってすぐに克服しちゃうんだから。
「やったよ! みんな、今の、見てた? すごかったでしょ、私……」
「わー、すごいじゃないですかー、妙有ちゃん!」
――えっ?
「妙有ちゃん、ここのステップ、ずっと苦手にしてたじゃないですかー。でも、今、ほとんど完璧にできてましたよ? すごいじゃないですかー!」
「え、えへへへ。そうかなー? 照れるよー」
妙有は、背伸びした絵奈にいい子いい子されながら、自信なげな、それでいてとても嬉しそうな笑顔を浮かべていた。2人とも、私のことなんか見てなかった。
……なんだろう? このもやもやした変な気持ちは。
今の妙有は、普段と違ってとても控えめにそこに立っていて、いつものように人の精神的なテリトリーを突然侵犯して驚かすようなことはなかった。なのに、なぜか心の片隅に、いつもその存在がちらちらと引っかかるのだ。静かに、謙虚に、それでいて確かに、自分の存在を主張しているのだ。
そんなのって、妙有らしくなかった。
いつも誰にも気づかれないくせに。私のこと差し置いて絵奈と楽しそうに談笑するなんて。そんなの妙有らしくないじゃん。いつも通り、みんなの影に隠れて黙ってればいいんだ。
「ね、ねえ、椎香。私も、ちゃんと踊れてたでしょ? 今の、見てた? 椎香……」
「………………」
「椎香?」
私がすがるようにして振り向いたその先で、椎香は自分の爪の先を眺めていた。私が一生懸命努力してうまく踏めるようになったステップなんかよりも、切りそろえた自分の爪の角度の方が気になっているみたいだった。
「ねえ、椎香ってば!」
「……あ! う、うん。何?」
「今の、私のステップ、見てた?」
「……え、えっと、その……、うん。すごく、よかったよ?」
椎香は、まるで声を出すのも億劫だというように、あやふやにそう答えて、すぐにまた視線をうつむかせて、そっぽを向いてしまった。せっかくかっこいいその長身を、ひどく猫背にして、小さく丸めてしまっている。その姿からは覇気というものが全く感じられなかった。
椎香がずっと何か別のことを考えていることは明らかだった。私のことなんかよりもずっと大事な何かを。私はといえば、自分がダンスをするのだって、椎香に見ていて欲しいから、私と一緒に踊りたいという椎香の望みを叶えたいから、ただそのためだけに踊っているのに。
普段からみんなを想って、みんなのことに気を配ってくれている椎香が、こんな風に終始ぽけっとしているなんて、今日は妙有だけじゃなくて、椎香もどこか変だった。
――いや、ひょっとすると、今日の椎香が変なんじゃなくて、彼女は普段から、私のことなんか、なんとも思ってないんじゃないだろうか?
私をダンスに誘ったのも、私にジャンプをするように言ってきたのも、私たちみんなでライブを披露しようとしたのにも、椎香にはちゃんとした理由があった。私は帰宅部だったから人数合わせのために誘われて、頭ごなしに叱ってきた先生を見返してやるために、消去法的にジャンプを跳ぶ役に推薦されたのだ。そして、ライブをやったのだって、本当は、椎香が一番大切に想っていた人に、自分の輝いている姿を見せたかったから、ただそれだけのことだったんだ。
「椎香! 今日はなんか、ずっと気が抜けてるよ! もっと、周りのことを見てよ!」
もっと、私のことを見てよ。
今まで、椎香のために、必死で頑張ってきたんだよ? 椎香のことを喜ばせたくて、椎香に褒めて欲しくって、そのことだけを考えてきたんだよ? もっと、もっと、私のことを、見ていてよ。
私がそう言って珍しく声を荒げると、椎香は、まるで叱られたときの絵奈みたいに、丸まった背中をビクッと震わせて、
「……あ、えっと……その……、ごめん」
椎香は、私に目を合わせようとしなかった。
「えっと……今日は、なんだか、気分が乗らないな。少しだけ、休憩してきても、いい?」
気の抜けたような声でそう言うと、私の返事も待たずに、ふらふらとおぼつかない足取りで歩いていってしまった。私に向けられたその頼りない背中は、私がどんなに憤りややるせなさを投げつけても、風にふかれるカーテンのようにふわりと身を翻して逃げていってしまいそうな軽さを纏っていた。
私はまるで裏切られたかのような気持ちに胸を焼かれ、椎香の後ろ姿を呆然と眺めていた。
「し、椎香ちゃん、どうかしたんですか……? どこか、具合悪いんですか……?」
「わー、し、椎香ー? どうしたのさー? だいじょぶー?」
気がついたら、椎香の異変を察知したのであろう2人が、心配そうに彼女のあとを追いかけて行った。私のダンスはちっとも見ていなかったくせに、こんなにやる気のない椎香のことは、みんなちゃんと心配していたんだな。2人は、その場に立ち尽くしている私のことをさっさと追い抜いて、椎香のところへと走っていく。私の横を通るとき、こちらの方をちらりと見さえもしなかった。
「椎香ー!」「椎香ちゃーん!」
2人は椎香の背中に飛びついた。椎香は、私が危惧したように、ふわりと空中を舞って逃げていったりしなかった。2人の目をしっかり覗き込んで、何か言いたげに、結んだ口元をうずうずさせている。
「椎香、一体どうしたのさー? 何か悩んでることがあるんなら、あたしらでも相談乗るよー?」
「そうですよ、椎香ちゃん。もっと私たちに、頼ってください」
2人とも、自分が一番椎香のことを心配しているんだ、とでも言いたげな口調で椎香を励まそうとしている。私の方が早く椎香の異変に気付いていたのに。私の方が誰よりも椎香のことを心配していたのに。
「――椎香!」
まずい、このままだと、2人に椎香を取られちゃう。そう焦った私はとっさに叫んでいた。その大声に、椎香も、他の2人も、驚いたように私の方をちらりと振り返る。
「……みんな、忙しいんだけど?」
……違う。
とっさのことで、何を彼女に言うべきか考えていなかった私の口から漏れ出たその言葉は、自分でも驚くほどに冷たく尖って聞こえた。一度私の体から外に出てしまうと、まるで別種の生き物であるかのように独自の意思を持ち、私の最も傷つけたくない大切な人を、何の躊躇もなく傷つけてしまうのだ。
「みんな、忙しい中、椎香のために集まってくれているんだよ? それなのに、その椎香がそんな態度で、申し訳なくないの!?」
……違う、違う。私が椎香に言いたかったのは、こんなしょうもない言葉なんかじゃない。
私の発したその無意味な言葉は、表面上は正しくて、疑うまでもなく正論で、そして決定的に間違っていた。どんなにその正しさが論理的に証明された概念であったとしても、自分の大切な人を傷つけてしまうようなものに、正しさなんてあるわけがない。
そう口にしてしまうと、熱くたぎっていた私の胸は静まり返り、まるで生理的な欲求が満たされたように落ち着きを取り戻していた。そしてその後に訪れたものは、やはり、よくない方法でそれを満足させたときのような、罪悪感だった。その罪悪感は、彼女を傷つけてしまったことに対する贖罪のしるしとして私の中に居座っていたのではなかった。むしろ、彼女と私を永遠に、決定的に分かつ壁のように、自分と看守の立場は決定的に異なるんだということを囚人に認識せしめる鉄格子のように、その場に立ちはだかっていた。私はひどく後悔していた。彼女にあんなことを言わなければよかった、という後悔ではなく、そもそも、最初から私なんかいなければ、椎香にあんなことを言わずに済んだのに、という類の後悔だった。
4人の間に、重苦しい沈黙が流れた。誰かが押さなければいけないボタンを、決意して自ら押すように、おもむろに口を開いたのは、椎香だった。
「……そうだよね。ごめんね」
私に向けているはずのその言葉は、ひどく内省的に聞こえた。私なんかがここにいなくても、椎香は、今、同じ時に同じようなことを口にしていたのではないだろうか?
「依緒の言う通りだよ。私、最低だ。本当に、私、最低だ……!」
彼女の頬に、一筋の涙が流れ落ちるのが見えた。椎香は、意図せずに溢れ出してしまったその涙を隠すように、くるりと後ろを向いてその顔を背けてしまった。まるでそれが私に見せてはいけないものであるとでもいうように。
そんな彼女の仕草を見て、はっきりと分かった。
その涙は、私のために流したのではなかった。
私なんかよりも、ずっとずっと、椎香にとって大切だった人のために。その人のためだけに、椎香は泣いているんだ。私の存在なんて、椎香にとっては、その大切な人の、足元にも及ばないんだ。
私がどんなに彼女のことを傷つけても、間違ったやり方でも自分の気持ちを精一杯ぶつけたとしても、椎香は、私のために、涙の一粒さえも流してくれないんだ。
椎香の背中は、風のように軽やかに、余韻すら残さずに、どんどん小さくなっていってしまった。目の前から小走りでいなくなってしまう彼女を、私は、眠れない夜に深夜放送の退屈な映画を見ているみたいに、何の感情も持てずにただぼんやりと眺めていた。彼女のその姿を、目で追う気にさえなれなかった。ゆらゆらと揺れ動くその視線を、どこに向けたらいいのかわからなかった。
「――依緒ちゃん!」
その代わりに、私は、はるか下の方から、怒気を含む強烈な視線で、きっと睨まれていた。
「あんな言い方ってないですよ! 椎香ちゃん、泣いてたじゃないですか! ちょっと、ひどすぎますよ、依緒ちゃん!」
――うるさいな。普段は自分の方が泣き虫のくせに、人が泣いている心配するなんて、生意気だ。いつもみたいに、あわあわして、泣きべそかいていればいいんだ。
「い、依緒ー? 今からでも、椎香のこと追いかけて、謝ってきなよー。依緒、ちょっと言いすぎたと思うよー? あたし、依緒の今の発言には、賛成できないなー」
――うるさいな。人の真似しかできないくせに、いっちょまえに私に意見するなんて、生意気だ。いつもみたいに、「うん、あたしもそう思う」とか言って、へらへらしていればいいんだ。
妙有に話しかけられても、私はいつもみたいに「わー! いたの!?」とか言って大げさに驚いたりはしなかった。妙有の、おどおどと自信なげにしながら、それでも自分の意思で何か言おうとしているその仕草が、害虫の不快な羽音のように、ずっと意識の片隅に引っかかっていたからだ。
むかつく。
なんだよ。人の気持ちも知らないで。
ずっとひとりぼっちで過ごしてきた私に、初めてできた友達なのに。その大切な友達に裏切られた悔しさが、辛さが、みんなに分かるというの? 友達なんてたくさんいて、いつもわいわい楽しそうに過ごしているみんなに、私の気持ちなんか、分かるというの?
……やっぱりそうか。みんな、私のことをのけ者にして楽しんでいるんだな。本当は誰からも大切にされてないのに、友達とすら思われてないのに、一人で勘違いして、馬鹿みたいにはりきっちゃっている私のことを、陰で指差して笑うために、あえてメンバーに入れてるんだな。そして、そんなトランプのババみたいなあぶれ者の私が、こともあろうに、自分たちの正式な仲間である椎香を傷つけたりしたもんだから、昔の異人種排斥運動の活動家たちみたいに、そんなに顔を真っ赤にして私を排除しようとしているんだな。
私はお腹の底から悔しさがこみ上げてきた。行き場のない怒りを抱かされて、どうすることもできずに、私は思わず世界を呪った。そして絶望的なことに、私にとっての世界とは、椎香と絵奈と妙有の、たったの3人だけだったのだ。
私は妙有のことを睨み返してやった。彼女のことを、憎いと思った。私のことをもっと分かって欲しい、大切に思って欲しいといった期待を込めてそうしたんじゃなかった。文字通り、ただただ、彼女のことを、心の底から憎いと思ってしまったのだ。
妙有は、そんな私の奥二重の鋭い眼光に睨まれて、ちょっと怯んだみたいだった。
「……あ、あ……その、えっと……。ご、ごめん、依緒」
妙有の瞳は、彼女の心の動揺を表すみたいに、夜空に瞬く恒星の光のようにちらちらと震え始めた。その不安げに揺れ動く眼差しは、すぐにどこかに飛び立ってしまいそうな蝶のように儚げに思えて、私は思わず、焦がれるように彼女の瞳を目で追った。透き通った琥珀のような、すごく綺麗な色をしていた。
「……ご、ごめん。やっぱ、あの、依緒の気持ちも、あたし分かる気がする。椎香のこと、傷つけようなんて思ってなかったんだよねー?」
その瞳の虹彩が、底のない闇のような瞳孔を中心に、放射状に光の筋を伸ばしているさまは、超新星が爆発した直後にその周囲に残した星雲の輝きのように、美しかった。なぜそこまで彼女の瞳に惹きつけられてしまうのか、自分でも不思議だった。そして気がつくと、私はそんなぼんやりとした思いをすら浮かべることができなくなっていた。彼女の瞳を見つめるのに忙しくて、息をするのさえ忘れてしまいそうだった。逃げ水を追うかのように、私は彼女の瞳の奥底へとどんどんと吸い込まれていった。
「そ、そうだー。あたし、依緒の気持ちよく分かるよ。それに、絵奈が怒ってるのも無理はないと思うし、泣いちゃった椎香のこともかわいそうだと思う。うん、あたし、みんなの気持ち、よく分かるよー」
……あれ?
……私は何を考えていたんだ?
気がつくと、私の胸の奥でぐつぐつと煮えたぎっていたどうしようもない思いは、すっかり消えてなくなっていた。私はなぜあんなに怒っていたんだろう? どうして椎香のことをあんなに傷つけてしまったんだろう? もっと椎香の気持ちに気付いてあげればよかった。彼女の気持ちを無視して、私は自分のことばかり分かって欲しいと願っていたんじゃないだろうか? 私は自分が恥ずかしかった。今なら、椎香の抱えている痛みも、辛さも、彼女の気持ちの全てが、手に取るように分かるような気がした。
「……依緒ちゃん」
私の目線のはるか下の方から、とてもか細い声が響いた。私の顎の高さよりも背の低い絵奈が、さらに俯いて喋るので、彼女のつむじしか目に入らず、表情を見ることができなかった。それでも、その声のトーンから、彼女がとても落ち込んでいることは間違いなかった。
「……ごめんなさい。私、ちょっと言い過ぎました。依緒ちゃんは、椎香ちゃんのことが大好きで、とても大切に思っているからこそ、ついあんなこと言っちゃったんですよね? 依緒ちゃんだって、苦しくて、辛くて、どうしようもなかったんですよね? 私、依緒ちゃんの気持ち、考えてあげれてませんでした」
ううん。ごめん。謝らなきゃいけないのは、私の方だよ。絵奈は、私のことを仲間だと思ってくれていたのに、絵奈が怒ったのだって、そのせいだったのに。そんな、考えるまでもなく当たり前なことを、私、疑ってしまっていた。絵奈の気持ちを、全然分かってあげられなかった。今なら、絵奈のこと、全部分かる気がするよ。
そうだ。私、みんなに謝ろう。みんなの気持ちを無視して、一人で癇癪を起こして、私たちの関係をめちゃくちゃに壊してしまった。だけど、私たちが本当の仲間なのだとしたら、それを修復することだって容易いはずだ。そうだ、私なら、きっとできる。今の私なら、みんなの気持ち、全部分かる気がする。
「わー、依緒、偉いじゃーん! ちゃんと反省して、みんなに謝ろうとするなんて。あたし、今の依緒の考えには、全面的に賛成だなー」
わー! た、妙有、いたの!?




