DAY AFTER #8
すがすがしい朝である! 私はとても心地いい唇の感触に包まれながら目が覚めた。昨日のライブは、まあいろいろあって大変だったんだけど、なんとかやり遂げることができたし、私は達成感と満足感と、顔に吹きかかる穏やかな寝息の湿っぽい暖かさと、女の子の唾液のとろけるような甘い香りとで胸がいっぱいだった。
「……って、なんでやねーーーん!!」
私は、ルパンダイブの逆再生のような軌跡をたどり、床に尻もちをついてしまった。
――キスしちゃった。
私は、なぜか私のベッドに寝ていた誰だかわからない女の子と、寝ぼけながらチュッチュウフフしてしまっていたのだ。きゃー!! なんてことなの!
「ふわぁ〜あ。……あっれー? 相沢さん?」
――妙有だ。勝手に人のベッドに入り込んできて、私の唇を奪っていったその女の子は、妙有だった。く、くっそー、私の、ファ、ファ、ファ、ファーストキスだったのにー! ……って違う! な、なんで、なんで全裸なのよ!? キスだけじゃなくて、もっといろんなことすればよかった! ……それも違う! なななな、なんで、なんで私のベッドに寝ているのよ!?
「えっとー、相沢さん? なんであたしの部屋にいんの?」
な、何言ってんのよ、この素っ頓狂は!?
「ここは私の部屋だよ! いくらなんでも、いきなり上がり込んでくるなんて、常軌を逸しているよ!」
と、私が思い切り叫ぶと、妙有は、むすっとほっぺを膨らませて、
「えー、なにさー? 正真正銘、ここはあたしの部屋だってーの。あ、そーだ!」
そう言って妙有は、床に脱ぎ捨ててあった黒のレースのエッチな下着をどかすと、その下にあった小さな青いノートを拾い上げ、
「ほら、あたし、相沢さんにこのノート返そうと思ってたんだ。これ、きっと相沢さんのだから」
え? 何? そのノート。私のじゃないよ?
「えー、これ、相沢さんのだってばー。昨日のライブの舞台袖で、相沢さんがあたしに預けてきたんじゃないかー。昨日の練習のとき、あたし、相沢さんに返そうとしたんだけど、相沢さんも、楠田さんも、相沢さんなんて人知らない、って言うもんだから、返せなかったんだよ」
――は? 日本語大丈夫ですか? 意味わかんないんだけど?
「だいじょぶ、だいじょぶ、全然だいじょぶ! むしろ日本語以外喋れないくらいだよー」
「日本語以外が喋れないことは、日本語が喋れることの十分条件じゃないよ? そんなこと言ったら、私だって、物理学賞以外のノーベル賞は受賞していないよ?」
「えー? 相沢さん、何言ってるのさー? 意味わかんない」
「いやいや、大変申し訳ないのだけれど、さっきから意味わかんないのは、圧倒的に妙有の方であってだね、そもそも、人の部屋に勝手に上がり込んでくるなんてことは、くどくど」
「おっと、こうしちゃいれねえ、あたし、お墓探さなきゃ」
「え? 何、お墓って?」
「お父さんのお墓だよ」
「え!? な、何!? 妙有!? お父さんのお墓って……。妙有のお父さん、何か」
「ほいじゃ、またねーん」
「ちょ、ちょっとー! 妙有! その格好!」
妙有は、私が止める間もなく、部屋から飛び出して行ってしまった。廊下の方から、妹が、ぎゃーー!! とか叫んで、腰を抜かしてドシーンと尻餅をつく音が聞こえてきた。妙有は頰を赤らめながら私の部屋に戻ってきて、
「おっとー、いかんいかん。服を着るのを忘れていたよー。たはは」
――私は電車に揺られて、見知らぬ街へと向かっていた。
あの後私は妹に「今日もリハーサル頑張れー」とか意味不明なことを言われて家から追い出されてしまいご近所のおばさんたちからも「依緒ちゃん、ご町内のみなさんにカンパしてもらって、デビューシングル爆買いすることになったから」とか「週刊誌に気をつけてね」とか「変なバンドマンとか歌舞伎役者に引っかかっちゃダメよ」とかもっと意味不明なことを言われて町内からも追い出されてしまって仕方なく椎香や妙有に電話をかけてみたら今日は2人とも何やら「おとうさんのおはか」なるものを探している云々と言われてあー多分ポケストップ的な何かなんだろうなと解釈した私は普段から硬派なRPGしかプレイしないもんだからそんなポケモンなんて女子供のやるようなゲームは女の子の頃にとっくに卒業してしまっているのでよくわかんないけどなんか今日は町中で「おとうさんのおはか」捜索祭りが行われているような気がしてこんな日に地元の街に出かけたら小中学の同級生の子たちにうっかり遭遇して「おっ相沢さんじゃん! 久しぶりー」とか声をかけられたら「あ、う、えっと、その、あの、ううう」とか呟いてキョドキョドしてしまいそうでそんな姿を見られたら「あいつまじキモくなってたわー」とか地元中に噂を流されてしまいそうでそうなったら後々成人式(行かないかもしれないけど)とか同窓会(呼ばれないかもしれないけど)とかのイベントにも影響が出てきそうなので地元でうろうろしているわけにもいかなくてはてどうしたものやらと思案していたところあっそうだ今朝妙有が私に押し付けていったあのノート一体なんなんだろうって思ってカバンから取り出してみたらなんかその青い表紙にどこか見覚えがあってそうだこれ絵奈のノートじゃないかなって思い出してあの子このノートに一体何書いてるんだろって思って中を見てみると『本当は、全部、忘れたくないのに』とか書いてあってうわー! あの子ポエムなんか書いてたんだー! うっけるー! って思っちゃったんだけどそのポエムには別に『私ってば、普段、こんなこと考えてるんだよねー』とか『こんなこと書いちゃう私ってば、やっぱり、客観的に見てちょっと平凡じゃないよねー』みたいなありがちな自己愛過剰のウザさや押し付けがましさがまるでなくて控えめな彼女の性格がそのまま出ているような感じの純粋で素朴な文章は読み手を想定したそれではないにも関わらず読む人の心の襞にすっと入り込んでくるような優しさやいじらしさに溢れていてとても読みやすく、何より文章が短く区切られているので、大変読みやすい。
だけど、私はその文章の中に、何か引っかかるところをたくさん見つけた。
『私は、最低の人間だ。相沢さんに、嫌われて、当然なんだ。』
――どうして? どうして絵奈が最低の人間なの?
『下の名前で呼んでみた。相沢さんに、思いっきり嫌がられた。』
――なんで? 私たち、もう、普通に下の名前で名前で呼び合える仲じゃない? 嫌がったりなんか、しないよ?
『やっぱり、私のことだけが、嫌いなんだろうな。』
――そんな。私は絵奈のこと、嫌ってなんかいないよ?
『本当は、全部、全部、忘れたくなんか、ないのに。』
――私は、絵奈の所に行かなければいけないと思った。彼女に預かったノートを返すために、と言うよりも、ただ彼女に会いに行くために。彼女が何かおかしな勘違いをしているなら、その誤解を解いてあげたい。彼女が一人で寂しがっているのなら、そっと抱きしめてあげたい。絵奈に電話をかけようと思ってスマホの電話帳を見てみたけれど、なぜか彼女の名前は登録されていなかった。どうしてだろう? 確かに番号を交換したはずなのに。バグかな? だからOSのアップデートとかしたくないんだよなー、地図アプリで地元の駅が『パチンコガンダム駅』とか表示されてたときなんか、本気で異世界に迷いこんじゃったのか、こんな素晴らしくない世界を祝福しなければいけないのか、とか思っちゃったからね。仕方がないので、椎香にまた電話を掛けて、絵奈の住所を教えてもらおうとしたけれど、「飯田さん、という人の、住所は、知らない」とか言われて、ああ、さすがに住所まではわからないよね、と思って電話を切った後で、しまった、電話番号聞けばよかったじゃん、と思っていたら、私は、例のノートの最後のページに、彼女のものと思われる住所が小さく書き付けてあるのを見つけた。あの子ってば、この個人情報保護の時代に、不用心だなー。もしもこのノートが、無意識のうちに女の子の胸に顔を埋めてデレデレしちゃうような変態百合女に拾われていたら、無断で家にまでにつきまとわれて、ストーキングされているところだったよー、とか思いながら、私は、絵奈の電話番号がわからないので仕方なく連絡をせずに直接彼女の家にこっそりと行ってみることにした。あ、あくまでも、電話番号がわからないから、仕方なく、なのだ。
大きな街と街の間にある、光の届かない場所に背を伸ばす低木のようにひっそりと佇んでいる小さな街の駅で、私は電車を降りた。家からそう遠く離れているわけでもないのに、今まで見たことも聞いたこともないような名前の駅だった。夏のきらびやかな日差しの中にあってなおその街は私の目に寂しげに映り、短いこの季節に一瞬の生を謳歌する蝉の声でさえずっと同じトーンで鳴っていて、繰り返されることのない今という瞬間を没個性的な退屈に変えていた。目につくものといえば、灼熱の空気に熱せられながらチラチラと辺りを揺らす陽炎ばかりで、しかしその動きのダイナミズムは、却ってその街の本当の景色の、ぴたりと静止しているさまを強烈にほのめかしていた。こんな所にまで夏はやって来るのだ。それはどこにでも分け隔てなく、平等に訪れては、その金色の光背で辺りを眩く染め上げてしまうのだ。だけどその平等性は、個々の存在の条件を勘案するという意味での平等性ではなかった。むしろその条件の差が考慮されないといった意味での平等性、例えるなら、火山の山肌をなだれ落ちる火砕流が、草むした肥沃な地も、荒れ果てた石だらけの台地も、全て等しく焼き尽くしてしまうような、そんな破壊的なまでの平等性だった。この街にとっては、夏の熱気も、輝かしさも、その恐るべき繁殖力で辺りに蔓延ってしまう、病原体のように忌むべきものなのだった。そこには大きな商業施設も繁華街もなく、あるものといえばただ、住宅の群れ。同じような形、似たような外観、目を惹くようなしるしもないつややかな白の立方体が、まるで菌類の群生のように辺りをびっしりと覆い尽くしていた。こんな虚ろで、停滞したものが、この街を構成する主要な要素なのだった。真夏の猛暑が人々の足を渋らせるのだろう、表を歩いている人の姿はまるで見えず、街は奇妙なまでにしんと静まり返っていた。ここでは人々の生活は、その清潔な白い箱の中に、丁寧にパッケージングされ、誰の目にも触れることのないよう、注意深く守られているのだ。人が一番長い時間をその中で過ごす住居という建物が、外から眺めると、却って人の生活の徴のようなものが最も感じられないというのはどういうことなのだろう? 街が、異物である私を排除しようとしているのか、それとも、私がそんな街に捕食され、同化されてしまうことを無意識に恐れているのか。とにかく、ここは私の居場所ではない。そんな感じがした。お前はここに来るべきではないと、誰かからそう言われているような気がした。
絵奈の家は、集合団地の一室だった。
その建物にはエレベーターが付いていないので、私は絵奈の部屋の階まで階段で上らなければならなかった。その階段は角度が急で、絵奈があの小さい体でこれを毎日上り下りするのは大変だろうな、と思った。
絵奈は、部屋にいなかった。
私が呼び鈴を何度鳴らしても、絵奈は、と言うより、家の中の誰も、それに応えてはくれなかった。家の人はみんな留守なのだろうか。もしかしたら、夏休みを利用して家族で旅行にでも出かけているのかもしれない。
しまったなあ。私は後悔した。せっかく時間とお金を使ってここまで来たのに、これじゃあ完全に無駄足だ。やはりまず最初に、誰かから彼女の電話番号を聞き出して、彼女に連絡を取るべきだったのだ。私は後ろ髪を引かれる思いを抱えたまま、彼女の部屋のドアを後にした。
――とんっ。
階段を下りきった建物の入口で、向こうからやって来た小学生くらいの女の子と肩がぶつかった。その子は、ぶつかった拍子に、重たそうにぶら下げていたスーパーのレジ袋をどさっと落としてしまい、中から玉ねぎやらジャガイモやらがこぼれてコロコロと地面を転がっていく。
「あっ、ごめんね。大丈夫?」
私はそう謝りながら、転がったものを拾い集め、その子にレジ袋を手渡してあげた。
「あ、あ……!」
怯えたように震える2つの瞳が、上目遣いの視線で私を射抜いていた。
「あ、あ、あ、相沢さん……? ど、どうして、ここに……?」
小学生だと思ったその女の子は、絵奈だった。今日の彼女は、重い荷物を抱えて、背中を丸めて歩いていたので、普段よりもさらに背が小さく見えたのだった。また、濃紺色の半袖パーカーにスエットの半ズボンという、子供っぽい格好をしていたので、余計に幼く見えたのかもしれない。彼女は、野暮ったいボサボサの黒髪ショートボブの間から、なぜか、まるで漉きたての和紙のような、血管がうっすらと見えるほどに真っ白な素肌の頰を覗かせていた。おかしいな? ここ最近、毎日外でダンスの練習をしていたので、その肌はほんのりと小麦色に日焼けしていたはずなのに。小柄な彼女は、新陳代謝も子供並みに早いのかもしれない。建物のコンクリートに反射した太陽光に照らされて、その肌は、何だかうっすらと青ざめているようにも見えた。
「絵奈! 私、絵奈のこと探してたんだよ!」
私がそう叫ぶと、絵奈は、ビクッと驚いたように肩を強張らせて、
「……え、えな? えな、って、ひょっとして私のこと……?」
「そうだよ! あなた以外に絵奈なんていないじゃない」
「……え? え? 私、私……!」
彼女の小さな体は、痙攣したように小刻みに震え始めた。まるで、今にも泣き出してしまいそうに見えた。どうして? ただ、いつものように名前を呼んだだけじゃない?
――だっ!
次の瞬間、絵奈は買い物のレジ袋を地面に投げ捨てて、建物の中へと走っていってしまった。まるで私から逃げるようにして。
「……ちょ、ちょっと、絵奈!? どうしたのよ!? 待って!」
私は絵奈のことを追いかけて、その手をとっさに掴んだ。
「――ひっ!」
彼女は、ほとんど悲鳴に近い声をあげて、掴んだ私の手を思い切り振り払った。まるで殺人鬼かなにかから逃れようとするかのようなその仕草に、私は少なからぬショックを受けてしまった。
「待ってよ!!」
階段を駆け上がって逃げようとする絵奈の背中に向けて、私は力の限りの大声を投げつけた。
絵奈は、階段の途中で立ち止まると、恐る恐る、私の方を振り向いた。
「ど、どうして……? 相沢さん」
絵奈は、口元に手を当てて、脚をガクガクと震わせながら私のことを見ている。
「どうして、って……、それは、私のセリフだよ、絵奈!?」
つい、彼女を責めるような口調で言い返してしまった。……だって、その時私は、本当に傷ついていたのだ。大好きな友達が何かに怯えていたら、何としてでも守ってあげたくなるのが当然の感情だ。それなのに、その怯えている原因が自分なのだとしたら、一体どうすればいいのだ?
「どうして、私から逃げようとするのよ? なんでそんなに私のこと怖がるの? ひどいよ……」
絵奈は、パーカーの胸元をぎゅっと掴んでもじもじしていた。階段の途中にいる彼女の顔の方が上にあるのに、チラチラと下から見上げるような目線で、私の様子をそっと伺うように見たり、目をそらしたりしながら、
「……ご、ごめんなさい……。私、私……」
やっと普通に話してくれた彼女だったが、その声はとても上ずっていて、聞いているこちらの胸が締め付けられそうなほどに、震えていた。
「ちょっと、びっくりしちゃった、だけなんです。急に、相沢さんに会って、びっくり、しちゃって……。相沢さんに、ひどいことしようとか、そんなつもり、全然、なかったんです。……ごめんなさい」
そう謝ると、彼女は、おもむろにパーカーのポケットに手を突っ込んで、何かを取り出した。へー、パーカーのポケットって、何か物を入れるために使う人なんていたんだー、うっけるー! とか思いながら眺めていると、彼女がその手に持っていたものは……
――小さな、青い表紙のノートだった。
彼女は、一緒に取り出したペンを使って、ぶるぶる震える指先で、そのノートに一心不乱に何かを書き込んでいた。
「絵奈……、そのノート、どうして……?」
「あ、ご、ごめんなさい。こっ、これ、気にしないで、ください……!」
絵奈は、小さなノートに顔を突っ込むようにして覗き込み、必死でペンを動かしている。まるでその小さなノートにすがりつくようにして。
よく見ると、そのノートの表紙は、汚れや傷みでボロボロになっている。服のポケットに入れているくらいだから、きっと彼女はそのノートを普段から肌身離さず持ち歩いているのだろう。私は、絵奈に気づかれないように、そっと私のカバンの中にあるノートを見てみた。そのノートの表紙も、よく見ると薄汚れていることがわかる。しかも、絵奈の手元にあるノートと、全く同じところが、全く同じように汚れているような気がした。
私は、一体何が起こっているのか、わからなかった。絵奈に返すために持ってきたそのノートを、彼女に手渡すわけにもいかず、またカバンの中に隠してしまった。
絵奈は、一生懸命にペンを走らせていた手をふっと止めると、ノートの表紙を丁寧に閉じて、それを再びポケットの中へそっとしまい込んだ。
「ご、ごめんなさい……。私、こうしないと、また、忘れちゃうから……。また、相沢さんに、嫌われちゃうから……」
え? 嫌う? 私が? 絵奈のこと? なんで?
「あっ、い、いえ、なんでも、ないです。……気にしないで、ください……」
絵奈は、まるで私に許しを乞うように、引きつった笑みを顔に浮かべた。
「相沢さん、もう、すごい人だから……、もうすっかり、遠い存在だから……、私のことなんか、嫌いっていうか、最初から、全然何とも思っていないですよね……。なんか、馬鹿ですよね、おかしいですよね、私。こんなこと、考えるなんて……」
「――うん。馬鹿だよ。おかしいよ、絵奈!」
私が少し強い口調でそう言い返すと、絵奈は、叱られた仔犬のように、恐怖に身をすくませるようにして小さく飛び上がった。
「絵奈、すっごいおかしいよ。まず第一に、私が絵奈のこと、何とも思ってないわけないでしょ!?」
絵奈は、小さなその顔に不釣り合いなほど大きな瞳をまん丸く見開いて、息を殺すように口元を手で抑えて、じっと私のことを見ている。
「それから、私が絵奈のこと、嫌ってるとか言ってるけど、そんなの、ひどい勘違いだよ!」
私は、ビクビクと怯えているようにさえ見える不憫な同級生を前にして、自分でも思ってもみなかったくらいの大声でそう叫んでいた。決して彼女を傷つけようと思っていたわけではないのに。……いや、もしかしたらある意味では傷つけてしまおうとしていたのかもしれない。取っ組み合いの大げんかをしなければ真に分かり合えない血気盛んな男の子たちのように、相手が自分の愛情に全く気づいてくれていないときは、取り繕ったような優しい言葉や、澄ました笑顔なんてものは、空々しくそびえる心の壁を突き破る役には立たないのだ。彼や彼女を思う自分の気持ちを、雪玉のように固く丸めて、思いっきり相手に投げつけるしかないのだ。
「――そんなの、ひどい勘違いだよ! だって、私は、絵奈のことが、絵奈のことが、大好――」
「逃げなさい!」
「えっ?」
「もしもし警察ですか? うちの娘が、変な女に自宅にまで付きまとわれて……」
「……ちょ、ちょま! ちょま! わ、私は、そんなつもりじゃ……」
「――ご、ごめんなさい、相沢さん! 私、そういうんじゃないんです……!」
「……な、ちっ、違う! 私だって、『そういう』んじゃないし! ほ、ほんとだよ! 同級生の女の子の飲みこぼしたポカリスエット、舐めてぇー! とか、同級生の女の子のブルマのおしり、見てぇー! とか、裸の同級生の女の子に、もっといたずらしたかったー! とか、そんなこと思ったことなんか……ん? なかったっけ?」
「うわーーん! お母さーーんっ!」
「ちょ、ちょっと待ってってば、絵奈! 私が絵奈のこと、狙ってるとか思ってるけど、そんなの、ひどい勘違いだよ!」
「どこが勘違いなのよ、この変態百合女! うちの娘に変なことしないで!」
「……あ、あんた、絵奈のお母さん!? く、くっそー、居留守使ってたんだな! さっき呼び鈴鳴らしても出なかったじゃねーか! ち、ちっくしょーっ! 人のこと、インターホンの小さな画面越しに一目見ただけで、不審者認定しやがってー!」
「わーん、本当につきまとわれていたんだー!」
「もしもしセコムですか? アルソックですか? シマンテックですか? 今すぐ来てください!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいってば! 最後のだけなんか違げーし……。そ、その、絵奈さんとは、友達っていうか、フレンドっていうか(あ! 待てよ? フレンド、って言葉、ニュアンスによっては変な感じに捉えられるかも……そ、その、な、なんとかフレンド、みたいな! きゃー!!)、い、いえ! 違うんですよ! えっと、その……そう! ダンス仲間! うちのクラスで結成された、ダンスユニットのメンバー同士でして……」
「……本当なの? 絵奈ちゃん」
「ひっく、ひっく、ち、違いますー。私、ダンスなんか、やったことありません……」
――え?
――ダンスなんか、やったことない?
「わ、私、ずっとファンだったんです」
ファン?
「はい。相沢さんと、楠田さんと、あと、あの他のクラスのギャルっぽい女の子の、3人が、いつも中庭の新校舎の前で、ダンスの練習してるの、見てました。いっぱいいる、ギャラリーの人たちに、混ざって」
――そんな訳ない。絵奈は、見ていた側にいたんじゃない。見られる側にいたはずなんだ。
「この間のライブも、行きました。私、客席から、みなさんのこと、見ていて……」
――そんな訳ない。絵奈は、観客席にいたんじゃない、ステージに立っていたはずなんだ。
「すっごく、カッコよかったです! みなさん」
――そんな訳ない。小さい体ながら、一番ダンスをカッコよく踊っていたのは、絵奈だったはずだ。
私は、唇を固く結んで、拳をきゅっと握りしめていた。心の奥底から湧き出てくる「何か」が、みるみる膨張して、私の胸を圧迫していくのを感じていた。まるで、その「何か」に、体の内側からがぶりと飲み込まれてしまうような気がした。
その「何か」の正体は、おそらく喪失感だった。絵奈の不在が、消失が、彼女への満たされない思いが、逆説的に私の心を満たしていった。「喪失」という、「マイナスの存在量」に「満たされ」ること。それはきっと概念的に矛盾しない。マイナスの質量を持つ物質に満たされたワームホールを見つけたように、私の心の中のブラックホールは、それが飲み込んだ感情を全て吐き出してしまえる片割れを宇宙のどこかに求めていた。
「そんな訳ない!」
私は、想いをぶちまけるようにして、そう叫んでいた。怒りにも似た感情だった。絵奈のことを心から愛しているが故の怒りだった。今度こそ、取っ組み合いを始める時だった。
「私たち、ずっと一緒に頑張って来たんじゃない! 辛いことも、苦しいことも、一緒に乗り越えて! 本当の仲間に、友達に、なれたはずじゃない!」
私は絵奈の胸ぐらを掴んでいた。噴火とともに人々を襲う火山弾の石つぶてのように、熱く煮えたぎる感情を、その手のひらの中に込めて。その想いを、その拳を、恐怖で震える彼女のほっそりとした喉元に突きつけて。絵奈のお母さんは、そんな私の勢いに気圧されたように、何も言わずにその状況をじっと見守っていた。
絵奈は、今にも泣き出してしまいそうに、潤んだ瞳をちらちらと泳がせながら、それでも、その視線だけは強度を保ったまま、時折まっすぐに私のことを、何か言いたげに睨み返してきた。
――私は、絵奈のことを傷つけてやろうと思っていた。彼女がその間違った思い込みで私のことを傷つけたみたいに、それならば私も、絵奈のことを、もっと深く、もっと正しく傷つけてやろうと、そう思っていた。
「どうして全部なかったことにできるの!? どうして全部忘れてしまえるの!? そんなことができるなんて、絵奈は本当に馬鹿だよ! 私のことを、みんなのことを、そんな風に裏切ることができるなんて……、絵奈は、本当に、本当に……!」
「――うらやましかったんですううぅぅーーっ!!」
私の耳元で、軍事演習の空砲のような大きな声が鳴り響き、そこを中心として、一陣の風が放射状に吹き抜けたように、あたりの空気を一変させた。
こんなに大きな声を出した彼女を見たのは、初めてのことだった。
絵奈が、渾身の力を込めるようにして絞り出したその言葉は、脈絡がまるでなくて、真意が全く掴めなくて、だからこそ、彼女の本当の叫びなのだった。
「……う、うらやましかった、んです……。私、相沢さんたち、3人の姿を、いつも、遠くから、見ていて」
と、一番近くから見ていたはずの彼女が、そう言う。
「みんな、みんな、カッコよくて、かわいくて、ダンスが上手くって、キラキラ輝いていて……!」
絵奈は、懐かしむように一言一言言葉を紡いでいく。そのどれもがごくありふれた言葉なのに、語る彼女の眼差しは眩しそうな憧憬に満ちていた。まるで自分の誕生日にもらったプレゼントの数々を、思い返すかのように。
「だけど、だけど……、私が、本当にうらやましかったのは、みなさんが、とても仲が良さそうなところだったんです……」
え? 仲が良さそうなところ?
「はい。みなさんが、一緒にダンスをしている姿が、本当に楽しそうで……、互いに笑い合うその顔が、本当に眩しくて……。すごく、憧れて……いました。うらやましいな、って、ずっと、思って、いました。私、そんな風に、一緒にいられる友達が、笑いあえる仲間が、一人も、いなかったから……」
……一人も、いなかった?
何を言っているの、絵奈?
「えへへ……私、ダメな子だから……。友達なんて、一人もいなくて、いつも、ひとりぼっちでご飯食べて、ひとりぼっちで帰ってるんです……。だから、相沢さんたちのこと、うらやましいなあ、って、いつも、いつも、ひっく、遠くから、ひっく、見ていて……!」
――ああ、やっぱり、私はこの街に来るべきじゃなかったんだ。
絵奈に会うべきじゃなかった。彼女のことを傷つけてやろうなんて、思い上がりを抱くべきじゃなかった。
友達ですらないのに、彼女のことを、全てわかったつもりでいたなんて。
思い知らされたのは、とても当たり前な、当たり前なことだった。
――私に、彼女を傷つける資格なんて、なかったんだ。
気がついたら降り出している、春先の温かい雨のように、いつの間にか泣き出してしまっていた絵奈の、丸まった小さな背中を力なく眺めながら、私は呆然としていた。階段を囲んでいる、冷たいコンクリートむき出しの壁も、天井も、踊り場に空いた窓から覗く、どんなに手を伸ばしてみても何も掴めなさそうな青い青い空も、私を取り囲んでいる物や空間の全てが、まるで一斉にゲシュタルト崩壊を起こしたかのように、意味をなさないものに変貌していた。私は一体、ここで、こんなところで、何をしているのだろう? ふらつく足元に引っ張られるように、私はコンクリートの壁にもたれかかっていた。
街が、私がよそ者であることを思い出したみたいだ。
背中に触れている、冷たいコンクリートの壁に飲み込まれる。彼が、その奥底に隠し持っている、底のない暗い淵の中に、閉じ込められる。
――ああ、ダメだ。私はこのまま、この街に飲み込まれて消えてしまう――そんな錯覚を覚えた。
そう、それはもちろん、錯覚だった。もちろん私は、消えていったり、しなかった。
だけどそれは、消えてしまうことができないということは、救いではなくて、罰だった。
神様が私に与えた、この上ない罰だった。
上気しながら息を荒げている自分に気がついたのは、しばらくしてからのことだった。なぜか身体中にびっしょりと汗をかいて、指先が独自の意思を持ったかのように勝手に震えていた。
その体の異変の原因が、胸の激痛のせいだとわかるまでには、さらに時間がかかった。
また昨日と同じ、激痛。
本来なら、それが訪れると同時に否応なく気づかされる、いや、意識の全てを持っていかれる、それくらいの痛みのはずなのに、今日の私は、それをただ、事後的に認識するだけだった。命の危機をかいくぐって生還した兵士が、自分の片腕が爆風で吹き飛ばされていたことを、逃げ切ってからようやく気がつくみたいに。
じりじりと私を蝕み始めた胸の痛みに苛まれて、意識の細い糸がふっと切れてしまう刹那、私は、絵奈のことを考えていた。
――ごめんね、絵奈。
……違うか、飯田さん。
始めから、出会わなければ、良かったんだよね?
そうすれば、こんな風に、飯田さんのこと、傷つけずに、済んだのに。
ただの他人のまま、決して交わることのない2本の線のまま、最後まで、互いに気がつかずに消え去っていくことだって、できたのに。




