それは大団円と呼んでいいのか分からない、ひどく微妙な幕引き
「……落ち着いたか?」
「ええ、おかげさまで……だいぶ落ち着いてきました」
疲れきり、脱力した腕を上半身ごと前へ大きく倒しながら問う蓮春に、滑はまさに今、飲み干して空となったアルミ缶をベッドサイドテーブルの上に並ぶ4つの空き缶の列へ加え置き、代わって最後の一本となったルートビアを掴み上げ、器用に包帯だらけの右手だけで指をプルタブへと掛け引き、口を開けつつ、ほっとしたような調子で答えた。
ただ見舞いへ訪れただけで突然、何故だか荒ぶる野性となっていた滑に襲い掛かられ、かなりガチで貞操の危機に瀕していた数分前までの状態からしばらく。
いつの間にか横並びにベッドへと腰掛けた状態となった二人は、先ほどまでの激しい取っ組み合いが嘘だったかのように、静かな口調で言葉を交えている。
あわや、(おくちの恋人)ならぬ(おくちが恋人)ぐらいにエグいベーゼを受ける寸前だったところ、奇跡と言っても過言ではない運の良さで、たまたま近くへ転がっていた持参のルートビアを咄嗟に拾い上げて瞬時、殺虫剤でも噴霧するかのように滑の鼻先でプルタブを引き、噴き出した黒茶色の液体と炭酸ガスが放つ臭気に、もう出かけたまんま帰ってこねえんじゃないかなと思っていた滑の理性が幸運にもUターンしてきてくれたため、ギリで大切な何かを失う寸前で絶望的運命を回避し、現在へと至っていた。
ただ不思議なことに、二人並んで座った蓮春の腰辺りへ回した左手でもって、滑はしっかとズボンに通ったベルト部分を掴み、微塵もそれを放す様子を窺えない。
「……なら、いい加減でその手も離してくんねえか? いくらもう落ち着いたって言われても、こう接近されたままで、しかも実質、身柄を拘束された状態だと、さすがに俺のストレスが一向、減らないんだが……」
「焦って聞き違いをするのはよくありませんよ蓮春君。私はまだあくまで(落ち着いてきた)と言っただけです。急いては事を仕損じる……今はゆっくり、ルートビアの血中濃度が上がるのを待ちましょう。そうすれば晴れて私も(落ち着いた)と言い切れますから」
「なんだよルートビアの血中濃度って……つうか、まさかそれまではこの状態で我慢しろとか言うつもりか?」
「……今はこれが精一杯……」
答え、開けた最後のルートビアに口をつける滑を横目で一瞥するや、蓮春は堪らずしかめた顔を手で覆い、病室の天井を仰ぐ。
ただ、会話だけは途切らせることなく。
まるで沈黙の気まずさを回避するように。
「と……そういや、お前の……何に当たるのか知らねえけど、彼方ちゃんだっけ? 親戚がいたろ。あの娘もお前とおんなじ匂い……あー、物理的にも雰囲気的にもって意味でしてたんが、もしかして彼女もお前と同じルートビア中毒か何かか?」
「不肖の従姉妹です。それと、さらっと人を中毒者呼ばわりしないでください。けど、それは置いてもあの娘のほうは少し違いますね。どちらかというとリコリス中毒と言ったほうが適切でしょうか。だからリコリスの含有量が少ないルートビアではなく、よりリコリス濃度の高いサルミアッキを常用してました。つまりはそれだけ、理性が仕事しないタイプなんですよ彼女」
「お前が中毒者で無いってんなら、そもそも中毒ってもん、そのものの定義が疑わしくなるっつうの……にしても、理性がデフォルトで職場放棄してるお前にそうまで言われるとか、やっぱあの娘も大概なんだな……まあ、目の前で実物を見てるし、少しだけど話はしたからお前の言い分がさほど言い過ぎじゃねえとは……」
と、言い止してふと、何やら思い出した蓮春は、
「……そういや思い出したけど、なんか聞いた話じゃそのお前の従姉妹……彼方ちゃんは学園長が直々にお仕置きするってことみたいだが、何をどうやってお仕置きするつもりなんだ? あの人。確か聞いた限りじゃ彼方ちゃんって、SでもMでもどっちもこなすとかっつう、ある意味、お前以上のサイコだろ? そんな娘にどうやって何すりゃあ反省を引き出せるようなお仕置きなんて出来んのか……正直、興味あんだけどさ」
話題を変えて改め問うた。
「何か今、途中にしれっと私へ対する誹謗を混ぜませんでした?」
「無意識で本音が漏れた自覚はあるが、少なくともお前を誹謗した記憶は無いな(事実を言っただけなら、それを誹謗とは言わない)」
「……最後の括弧内の内容が気になりますが……まあ、いいでしょう。蓮春君の言うとおり、あの娘に普通のお仕置きは通用しません。仮にスペイン宗教裁判レベルの拷問にかけたとしても、彼女であれば嬉々として楽しむだけでしょうね。その辺りは私だけでなく、学園長を含めた親族一同、よく分かっています。ので、おこなうのは少しばかり特殊なお仕置きです」
「……特殊?」
「はい。具体的に言いますと、ルドヴィコ療法という極めて画期的な……」
「って、それマジでやったらダメなやつじゃねえかよっ! ダブルの意味でっっ!!」
「ふむ、目を閉じられないよう、まぶたをクリップ留めする程度のことがそれほどに問題ですか?」
「一般的な感覚で言ったらもうその段階で充分にアウトだけど、さらに問題なのはその先だよっ! あの娘、廃人にする気かお前んとこの身内はっっ!!」
さしもの、蓮春もそこを出してくるかといった時計仕掛けの柑橘類的な更生手段に脊髄反射で荒げたツッコミの声を上げたものが、少しばかり冷静になって考えたら、相手は生爪を剥がされようが焼き鏝を押し付けられようが、それこそ手足の指をペンチで一本一本、潰していっても喜びしか感じないほどの、まともな基準など一切通用しない桁違いのド変態。
まっとうなお仕置きなんてものはまるきり意味を成さないのだから、こういったスタンリーでキューブリックな選択肢を選ばざるを得ないのもまあ当然っちゃあ当然だよなと思い直すや、何やら昨日の騒動と先ほどの騒動が合わさり、いよいよ精神疲労がピークに達した蓮春は、全身を襲う脱力感と倦怠感で首も据わらなくなり、がっくりと顔を落として口を閉じた。
それからしばしの沈黙。
蓮春と滑。どちらも何とて言い出すでもなく、不自然な静寂の間を、滑が口をつけたルートビアの缶から漏れる微かな炭酸の発泡音だけが狭い室内に小さく響く。
そんな数瞬を経て、
「……ところで」
人でも変わったように急、滑は真剣な口調と態度を取り、仕切り直したように蓮春へと話しかける。
「話は変わりますが……そろそろ、蓮春君にはその心中を明らかにしていただきたいんですけど。さっきのような逆レイ……公序良俗に反する強引なおこないについては反省していますので」
「いや、別にそれはどうでも……よくねえな……で、俺が何について思ってることを聞きたいって?」
「……女性の口から、それを言わせますか?」
「うん……まあ、それで大体は察した……」
言って、蓮春は上体を起こすと、隣にいる滑へ意識的に視線を向けないよう病室の隅へ焦点を固定するや、これまで以上にやたら難しい表情を浮かべ、安定しない精神状態から来るものなのか、特に意味無く首元をさすりながら、逆に問うた。
すると、
「……とはいえ、予想はしているんですけどね。答えについては」
どこか気弱な風に、滑はさらに言葉を継ぐ。
そのあまりに普段と違う様子に咄嗟、耳をそばだてる蓮春の変化を知ってか知らずか。
「さすがに私だって、落ち着いているときには多少の客観視は出来ますから、蓮春君の答えは聞かずとも半ば予想くらいついてはいるんです。思えば、激情に駆られて小中学校では裏から圧力をかけて同じクラスにしてもらったり、蓮春君の受験した高校を無理やり祖父……学園長の運営している鉄十字学園に吸収してもらったり、あとは祖父に蓮春君の私に対する行状について有ること無いこと吹き込んだり……そんなことばかりしてきたわけですから。好意的な感情を抱いてくれているとは思えませんし思いません。かといって、私は私の性格や性質を変えることが出来ない。断言はしませんが、少なくとも自分なりに今までも変えようと努めてきての現在ですから、ほぼ強制は不可能と思ってくれて構いません。大体、そう簡単に自分を変えられるような、『貴方のためなら私、変われる!』なんて恥ずかしげも無く口にするような輩とは根本的に私の思考は相容れないんですよ。だってそうでしょう? いくら愛……憎からず思っている相手のためとはいえ、簡単に自分を変えられるような人間なんて、つまりはその誰かを愛……憎からず思っている自分すらも簡単に変わってしまうような、脆弱な意思でしか相手を思っていないんじゃないかと、裏返せばそういうことになってしまうと、私としては考えてしまうわけです。なので、私は私でしか有れない。今までもそうでしたし、これからも、恐らく死ぬまでこのまま。妥協も譲歩も、私の意思が否定している以上は、どうあっても蓮春君の好み……まあ、正確には蓮春君の好みを知らないのでまず本来ならそこを知ってからというのが本来の順番なんですが……ともあれ、知ったところでそれがもし私とかけ離れた人物像であった場合、いずれにしても寄ることは不可能でしょうね。けれど……」
長々と語って一瞬、滑は言い切れぬ言葉の間を埋めるため、残ったルートビアを呷ろうとしたが直前で止め、缶を持った手をわずかに下げながらなお、話を続けた。
「……本当は聞くのが怖いのに、それでも聞きたいんですよ。蓮春君の気持ちを……はっきり言葉で確認したいと、そんな思いが恐怖心を上回ってしまうんです」
「……」
「なんなんですかね……我ながら。彼方ちゃんでもあるまいし、こんなほぼ自爆確定の行為を望んで進めるなんて……けど、それでも自分で決めたことですから、どうか思っているままのことを言ってもらえませんか? 蓮春君。もちろん、それが私の望む答えでなかったとしても、それはそれで自業自得も含めて受け止めるつもりです。というより、希望が無いなら希望は無いんだと、はっきり言ってくれほうが私もいい加減、この約十年越しの思いにも諦めがつけられのではと……」
と、滑が言葉を言い切る直前、
蓮春はやにわに無言、滑の手元へと自らの手を伸ばした。
刹那、
話の途中で何の意図かも分からず突として近づいてきた蓮春の手に、さしもの滑も不意を突かれて反応できずにいると、そんな彼女の反応も気にせず、蓮春はその伸ばした手で滑の手から握られたルートビアの缶をひったくるや、瞬時に自分の胸元まで引き寄せたかと思うや、
「……柄にも無く、勝手に自己完結しようとしてんじゃねえよ。俺の好みとか、お前の性格がどうのとか、そんなもんは所詮、いくら言ったって単なる蛇足だろ? 問題はただ……いや、これも言ったら蛇足か……あー、まあ……なんつーか、だ」
床を見るように下げていた首を少しく上げながら、どこか上ずったような声で蓮春は言葉を継ぎ、
「悪ぃけど、俺にも羞恥心ってもんがあるからな。口に出して言うのは正直、無理だ。顔から火が出て焼死する未来しか見えねえ。だから俺も……」
寸刻、声を止めると、先ほど滑から奪い取ったルートビアを口元へ寄せ、
一瞬の躊躇の後、
一口。
口をつけて中身を含むと、即座に嚥下してからやおら、大きく、苦しげに溜め息を吐いて一言、
「……今はこれが精一杯……」
無理くり、押し出すように言い放ったと同時、すぐに口から離したルートビアを幾分、乱暴な所作で腕ごと差し出すよう、滑へと突き出した。
そして。
突然ルートビアを奪われた先、蓮春が取った行動の、意外性と言えば聞こえはいいが、どちらかというとあまりにもな意味不明さに、さしもの非常識と理不尽を混ぜて固めたような滑の思考ですら、即座には状況を飲み込めず一時、混乱したものの、数秒を経てようやくその意味を理解し、そっと蓮春の手からルートビアを取り戻すと、
「……そう……ですね。これまで掛けた時間を思えば、今さら急いたところで大して変わりもないでしょうし。とりあえず、今日のところは蓮春君の精一杯が分かっただけで満足するとしましょうか。でも……」
明らか、笑いを堪えていると分かる震えた声で、
「……今時、間接キスって……小学生ですか?」
言うのを聞いて、
「ほっとけっ!」
思わず浴びせられた言葉から湧いて出た苛立ちに乗せられ、隣の滑へと首ごと視線を回し、あからさまな照れ隠しの怒鳴り声を上げたが、
瞬刻。
向けた視界の中心で捉えた滑が、自分が口をつけたルートビアを何も言わず平然と煽っている横顔を目にすると、
蓮春は同じく何も言わずにすぐさま反転180度、顔を滑の側から完全逆方向へ向けてると、死んだ貝のように強く口をつぐみ、そのままあらゆる動きを止める。
真夏の強い日差しが、窓のカーテンに妨げられながら病室の中を照らし出す。そんな昼下がり。
冷房の効いた病室に居ながら何故か、
不機嫌さ、不愉快さ、不可解さ。だけではない、まだまだ数多の整理できない感情の渦によって驚くほど難しい表情となった蓮春の顔は、まるでのぼせたように耳まで赤く、朱く、どこまでも紅く、染まっていった。