第40話 眼鏡の裏で、逃げていたもの
この話では、白石悠真の過去に触れる描写があります。
少し重たい内容を含みますので、気になる方は無理のないタイミングでお読みください。
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朝。
意識が浮上して最初に視界に入ったのは、机の上に置かれた黒縁の眼鏡だった。
レンズの入っていない、ただの飾り。
素顔を隠し、世界との間に境界線を引くための、薄っぺらな防具。
俺はそれを手に取り、冷たいフレームを指先でなぞる。
「……いつまで、これが必要なんだろうな」
独り言が空気に溶ける。
その時、枕元でスマホが短く震えた。
画面には、美咲からのメッセージ。
『おはよう。今日も暑くなりそうだね』
たった一行。
それだけで、凍りついていた胸の奥が、じんわりと熱を持って溶け出していく。
けれど、返事を打とうとした指が、画面の直前で止まった。
――幸せだ。
そう思うたび、背後から冷たい影が忍び寄ってくるのを感じる。
この幸せを享受すればするほど、いつかすべてを奪われるんじゃないか。
また、あの時と同じ「地獄」を繰り返すんじゃないか。
中学二年生、春。
あの頃の俺は、今よりずっと無防備に笑っていた。
眼鏡なんてしていなかったし、邪魔な前髪で視界を遮ることもなかった。
「白石くん、おはよう!」
「今日もかっこいいね、悠真くん」
向けられる視線や、容姿を褒める声。
本気で好きだと言ってくれる女子もいれば、遠巻きに眺めるだけの奴もいた。
俺はそれをどこか他人事のように受け流しながら、ただ普通に過ごしていた。
それでいいはずだった。
あの日、あの子を助けるまでは。
放課後の教室の隅。
一人の女子生徒が、数人の女子に囲まれていた。
「パシリ」という言葉すら生ぬるい。
それは明確な悪意の搾取だった。
「ねえ、ちゃんと買ってきた? 私の好きなパン」
「ご、ごめん……お金、足りなくて……」
「はあ? 本当に使えない。何のためにここにいさせてあげてると思ってるの?」
耐えかねた。
俺は迷わず、彼女たちの間に割って入った。
「やめろよ。くだらない」
穏やかに、けれど退路を断つような冷徹な声。
「……白石くん?」
「もう十分だろ。しつこいのは嫌われるぞ」
それだけ言って、俺は彼女の手を取ることもなくその場を去った。
ただ、正論を吐いただけ。
特別なことは何一つしていない。
けれど、それが最悪の間違いだった。
翌日から、その女子生徒への嫌がらせは、想像を絶する形で激化した。
廊下を通るたび、ひそひそと毒のような噂が耳に届く。
「白石くんと話したんだって。身の程知らずじゃない?」
「あの子が助けを求めたんじゃないの? 媚び売っててキモい」
表では俺に笑顔で擦り寄ってくる女子たちが、裏では彼女を徹底的に排斥していた。
理由はただ一つ。
『白石悠真を、彼女のために動かしたから』
俺が前に出たから。
俺が「白石悠真」という特別な存在として目立ってしまったから。
――俺の容姿が、彼女を攻撃する口実を与えてしまった。
数週間後、彼女は学校に来なくなった。
引っ越しが決まった俺が、最後に彼女に会いに行った時。
病的に痩せた彼女は、絞り出すような声で俺を拒絶した。
「……もう、二度と関わらないで。お願いだから……」
震える声、俺を「怪物」を見るかのように怯えた瞳。
俺は何も言えなかった。
彼女を救うために出した手が、彼女を一番深い闇へと突き落としたのだ。
逃げるように県外へ引っ越した俺は、そこで悟ってしまった。
自分が前に出ること。
善意で動くこと。
そして――「白石悠真」として存在することそのものが、誰かを傷つける引き金になるのだと。
だから、俺は「俺」を殺した。
分厚い眼鏡をかけ、前髪を下ろし、猫背になって気配を消した。
困っている人を見れば、体は勝手に動いてしまう。
けれど、決して痕跡は残さない。
深入りしない。
「ボッチの白石」として生きることが、俺なりの、つみほろぼしだった。
パチリ、と目を開ける。
回想の沼から抜け出し、いつもの天井を見つめる。
俺はまだ、逃げている。
眼鏡の裏側、安全な檻の中で、美咲からの好意を恐れている。
でも――。
頭の中に、花火を見上げる美咲の横顔が浮かぶ。
「美少女四天王」なんて勝手なレッテルを貼られ、孤独の中にいた彼女。
俺と同じ、周囲のイメージという檻に閉じ込められていた彼女。
あの日、繋いだ手の温もり。
「悠真くん」と呼んでくれた、あの震える声。
――守りたい。
でも、隠れたままの俺には、彼女の隣に立つ資格なんてない。
スマホを手に取り、美咲からのメッセージを見つめる。
彼女は、俺が眼鏡をかけていようがいまいが、俺自身の本質を見つけてくれた。
なら、今度は俺が、その想いに応える番だ。
俺は、一文字ずつ噛みしめるように返信を打った。
『おはよう。暑いけど、今日も頑張ろうな。……夜、少し電話してもいいか?』
送信。 一秒も経たずに、既読がついた。
『うん! もちろん! 楽しみにしてるね♡』
ハートのスタンプが、俺の臆病な心を優しく突く。
俺は少しだけ、今度は本当の意味で笑った。
今度こそ、逃げない。
誰かを傷つけることを恐れて止まるより、彼女を幸せにするために隣に立つ理由を探したい。
眼鏡の裏側に隠していた「自分」を、少しずつ、彼女のために取り戻していく。
それが、俺が見つけた新しい「ルール」だ。
本日も読んでいただきありがとうございます。
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