第38話 夜空に咲く その2
人混みの熱気を背に、少し開けた場所に出る。
川沿いの土手。
草の匂いと、夜風の湿った匂い。
祭りの喧騒は、川面を渡るうちに心地よいBGMへと変わっていた。
「……ここなら、よく見えるかな」
橘さんが、川の向こうの暗闇を見つめながら言う。
「……多分、な」
俺はそう答えて、彼女の隣に立つ。
足元の砂利を踏む音さえ、やけに大きく聞こえる。
沈黙。 でも、それは決して拒絶の沈黙じゃない。 世界に二人だけが取り残されたような、密室めいた静けさ。
クイクイ、と。 浴衣の袖が、控えめに引かれた。
「……はぐれたくないから。……いい?」
橘さんが、袖の端を指先だけで摘んでいる。
うつむき加減で、耳まで真っ赤に染めて。
その「言い訳」が、俺の理性をギリギリまで追い詰める。
「……ああ、大丈夫。絶対にはぐれない」
俺は、震えそうになる声を押さえ込んで答えた。
でも、体の中はもう限界だった。
心臓が、肋骨を内側から蹴破りそうなほど暴れている。
耳の奥で、ドクン、ドクンと自分の血流が警鐘のように鳴り響く。
――言わなきゃ。
今日、ここで。
この完璧なお膳立ての中で言わなきゃ、俺は一生後悔する。
でも、怖い。
喉が張り付いたように渇く。
膝が笑い出しそうだ。
この言葉を口にしてしまったら、今の心地よい「友達」という関係は壊れてしまうかもしれない。
もし拒絶されたら?
もし、困った顔をされたら?
生まれてから17年。
テストの前も、試合の前も、こんなに吐きそうなほど緊張したことはなかった。
「……橘さん」
「ん?」
「俺――」
喉まで出かかった言葉が、恐怖でせき止められる。
橘さんが、ゆっくりとこっちを見上げる。
提灯の明かりを映した濡れた瞳と、目が合う。
ダメだ。
声が出ない。
このままじゃ、俺はまた逃げる。
「……何? 白石くん」
「……いや、その」
情けない。
こんなに近くにいるのに、たった一言が、宇宙よりも遠い。
その時だった。
ヒューーーーーッ……。
空を引き裂くような、甲高い音が静寂を破った。
二人同時に、夜空を見上げる。
暗闇の中を、一筋の光が駆け上がっていく。 そして――。
ドンッ!!
腹の底に響く破裂音とともに、巨大な光の花が夜空に咲いた。
「……わぁ、綺麗……」
橘さんの感嘆の声が漏れる。
赤い光が、彼女の横顔を照らし出す。
見上げている瞳、少し開いた唇、白いうなじ。
その瞬間、俺の中の恐怖が消し飛んだ。
花火なんかより、ずっと、ずっと綺麗だ。
この景色を、来年も、再来年も。
隣で見ていたいのは、俺しかいない。
――もう、逃げない。
この心臓が壊れたっていい。
「……橘さん」
「うん?」
一発目の残響が消えないうちに、俺は彼女の名前を呼んだ。
橘さんが、花火から目を離し、ゆっくりと俺の方を向く。
逆光の中で、俺は震える拳を握りしめた。
俺は――肺が痛くなるほど、深く、熱い夜の空気を吸い込んだ。
「俺、ずっと逃げてたんだ」
「……え?」
「自分が傷つくのも、君との関係が変わるのも怖くて……。今の関係を続けても良いんじゃないかって逃げ続けてた」
橘さんが、息を呑むのがわかった。
隣で、浴衣の袖が小さく震えている。
俺は――彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、最後の壁をぶち破った。
「でも、今日はもう逃げないって決めた。……いや、君の前から逃げたくないんだ」
「白石くん……」
「好きです。……俺は橘さんが、好きだ」
小さな声だったかもしれない。 けれど、人生で一番、魂を込めた言葉だった。
「この夏も、その次の夏も……ずっと、君の隣にいたい」
刹那。
ドンッ!!
と、今日一番の轟音が夜空を震わせた。
大輪の柳が枝垂れ、金色の光が雨のように俺たちに降り注ぐ。
音に掻き消されてもおかしくないその距離で、でも、橘さんは確かに俺の言葉を拾い上げてくれた。
彼女は俺を見つめたまま、動かない。
時間だけが残酷に過ぎていく。
――ああ。 やっぱり、俺じゃ、ダメだったんだろうか。
心臓が冷たく凍りつきそうになった、その時。
「……私も」
消え入りそうな、でも凛とした声が鼓膜を揺らした。
「え……?」
「私も、好き。……白石くんのことが、ずっと前から、大好きだよ」
橘さんが、少しだけ笑った。
大きな瞳に涙を溜めて、今にも零れ落ちそうな、泣きだしそうな笑顔で。
「ずっと……待ってたんだよ。あなたが、こっちを向いてくれるのを。……白石くんが、私を選んでくれるのを」
「……っ」
言葉が、喉の奥に詰まって出てこない。
ただ、視界が滲んで、目の前の彼女が光の中に溶けてしまいそうに見えた。
「逃げないって言ってくれて――本当に、嬉しい」
橘さんの手が、迷うように俺の指先に触れた。
今度は俺から、その小さくて温かい手を、壊れ物を扱うような優しさで包み込む。
指を絡め、ゆっくりと力を込めて握りしめた。
熱い。
心臓の鼓動が、繋いだ手のひらを通じて、お互いの境界線を越えて響き合う。
花火が、フィナーレに向けて次々と夜空を塗り替えていく。
空が昼間のように明るくなり、凄まじい爆音があたりを支配する。
けれど、今の俺には何も聞こえなかった。
ただ、この手のひらの温度だけが、この世で唯一の真実みたいに、はっきりと感じられた。
「……ありがとう、白石くん」
二人で、もう一度空を見上げる。 固く手を繋いだまま。
もう二度と、離さないと誓いながら。
夜空に咲いた無数の光は、またたく間に暗闇に溶けて消えていった。
けれど、俺の心には、一生消えることのない鮮やかな色が刻み込まれた。
もう、逃げない。
夜空に残る熱が、始まったばかりの夏を、静かに照らしていた。
本日も読んでいただきありがとうございます。
もし「続きが気になる」「面白かった」と思っていただけたら、ブックマークや評価をしていただけると執筆の励みになります!
どうぞよろしくお願いします。




