第33話 水面に映る、夏の始まりその1
「終わったー!!」
テスト最終日のチャイムと共に、教室中に爆発的な解放感が満ちた。
教科書を叩きつけるような音、安堵のため息、そして放課後の予定を立てる騒がしい笑い声。
「マジで死ぬかと思ったわ……」
「俺、次の数学、記述全部白紙。詰んだ」
そんな絶望的な会話さえ、今はどこか楽しげに響く。
俺も、相棒のようなシャーペンを筆箱にしまい、深く背もたれに体を預けた。
――やっと、終わった。
「ねえねえ、白石くん。お疲れさま!」
机の前に、桜井さんがひょっこりと顔を出した。
「ん? 桜井さんか。お疲れ」
「あのね、土曜日に『プール』行かない?」
「プール?」
「そう。テスト打ち上げ兼、夏休み先取りパーティー! 美咲も行くって言ってるよ?」
桜井さんの後ろで、中村さんもイチゴオレをストローで吸いながら小さく頷いた。
「……他に誰が行くの?」
「美咲と私と菜月、あと――」
桜井さんがクラスを見回し、窓際で女子とはしゃいでいる男子を指差した。
「鈴木と、佐藤も誘った。あいつらノリいいしね」
鈴木。クラスのムードメーカーで、女子からの人気も高い陽キャだ。
「……鈴木も?」
「そう。鈴木くん、美咲の水着姿楽しみー!って張り切ってたよ?」
桜井さんのその一言に、胸の奥が「チリッ」と焼けるような感覚が走った。
……鈴木が、橘さんの水着姿を?
「……まあ、いいけど」
「あらあら、白石くん。今、ちょっと顔怖かったよ?」
桜井さんが逃さずニヤリと笑う。
「別に、怖くないだろ。……人混みだし、はぐれないようにしないと、な」
「あはは! そうだね、しっかりガードしてあげてよ」
桜井さんはそれだけ言い残して、橘さんの席へ駆けていった。
橘さんはといえば、桜井さんに何かを耳打ちされたのか、パッと顔を赤くしてこちらをチラチラと見ている。
俺は――、無意識に自分の右手のひらを見つめた。
あの時、俺の服の裾を掴んでいた彼女の指先。
あの控えめな体温を、他の誰かに触れさせるなんて。
「……あり得ないだろ」
自分でも驚くほど低い独り言が漏れた。
夏本番は、まだこれから。
でも、俺の中の温度は、すでに沸点に達しようとしていた。
翌日。
駅前のレジャープール。
入り口付近は、家族連れやカップルの熱気で溢れかえっていた。
「おー、白石ー!」
人混みの向こうから、鈴木が大きく手を振ってきた。
その隣には、佐藤、そして桜井さんと中村さん、さらに――。
少し離れたところで、落ち着かない様子でバッグを抱えている橘さんの姿があった。
「お待たせ」
俺が歩み寄ると、まず最初に鈴木が「……お?」と、少しだけ目を見開いた。
「白石、お前……。今日、眼鏡なしかよ」
「ああ、プールだし。危ないだろ」
「そりゃそうだけど……。なんか、眼鏡ないと印象変わるな。お前、意外とまともな顔してんじゃん」
鈴木がまじまじと俺の顔を覗き込んでくる。
学校での俺は、分厚いレンズの眼鏡で目元を隠し、髪も無頓着に下ろしている。
今日はコンタクトにして、髪も顔にかからないように軽く流しているだけだが、それだけで「野暮ったいガリ勉」のイメージが少しだけ剥がれ落ちた。
「普通だろ。というか、鈴木こそその派手なシャツ、気合い入れすぎだろ」
「へへっ、当然だろ! 佐藤、白石のやつ、眼鏡外すと結構いけるよな?」
「……ああ。雰囲気が、少し明るくなったな」
佐藤も、あくまで「雰囲気が変わった」程度の反応だ。 彼らにとっては、まだ「眼鏡を外すと意外と整っているクラスメイト」という認識でしかない。
――でも。 橘さん等だけは、違った。
彼女たちは僕を見た瞬間、息を呑むように肩を震わせ、そのまま動けなくなっていた。
驚きというより、もっと深いところを射抜かれたような、熱のこもった視線。
バイト先のあの「イケメンモード」をすでに知っている彼女たちにとって、学校の眼鏡を外した今の姿は、その正体が隠しきれずに漏れ出している状態なのだ。
「……白石、くん」
橘さんが、震えるような声で僕の名前を呼んだ。 頬が赤く染まっているのは、きっと日差しのせいじゃない。
「……橘さん。この状を、鈴木や佐藤にバレなくて良かったよ」
「……えっ?」
橘さんは弾かれたように俺の顔を見て、それから耳の付け根までパッと赤く染めた。
僕が「イケメンモード」を隠しているこを知っている彼女にとって、今の言葉がどれほど「秘密」を意識させるものか、口にしてから俺自身も心臓が跳ねるのを感じた。
「う、ううん……! バレてない、と思う。……でも、その……」
橘さんは慌ててブンブンと首を横に振ったけれど、視線は俺の顔に釘付けになったままだ。
「……全然、変じゃないよ。……むしろ、その……学校の時より、ずっと……」
語尾を濁して、彼女はバッグの紐をぎゅっと握りしめた。 その様子を少し後ろから見ていた真琴が、逃さずニヤリと口角を上げる。
「あーあ。白石くん、サラッと『私たちの秘密』アピールしちゃって。ねぇ、美咲? 顔、ゆでだこみたいになってるよ?」
「ちょ、真琴……っ! 変な言い方しないで……!」
「はいはい。……でも確かに、あいつらが鈍感で助かったね。この白石くんを独占できるんだから、美咲は果報者だよ」
真琴が僕にだけウインクを投げてくる。 菜月もストローを加えながら、
「……白石くん、無自覚に美咲を追い詰めてる」と、ボソリと的確な指摘を投下した。
「おい、お前ら何してんだよ! 早く行こうぜ!」
先行していた鈴木たちが、入り口の前でしびれを切らして呼びかけてくる。
「……行こうか、橘さん」
「……うん、白石くん」
俺たちは再び歩き出した。 正体に気づいていない男子たちの喧騒と、すべてを知った上で俺を見つめてくる彼女の視線。
「バレなくて良かった」なんて言ったけど。
隣を歩く彼女の、今にも壊れそうなほど真っ赤な顔を見ていたら、俺の隠している「本音」までバレてしまいそうで、入り口の音楽が遠く聞こえるくらい、鼓動が激しく打ち続けていた。
「じゃ、入ろうぜ。ロッカーで待ち合わせな!」
鈴木たちの能天気な号令で、僕たちはプールの入り口に向かった。
正体に気づいていない男子たちと、すべてを知った上で僕を見てくる女子3人。
特に、隣を歩く橘さんの、僕の顔を直視できず、かといって目を離すこともできないもどかしい視線。
それが腕に触れそうなほど近くにあるせいで、僕の心臓は、入り口の喧騒を掻き消すほど大きく脈打っていた。
更衣室から一歩外へ出ると――。
暴力的なまでの日差しと、塩素の混じった湿った風が全身を包み込んだ。
プールサイド。
水面の照り返しが宝石のようにキラキラと跳ね、人々の歓声と音楽が混ざり合って、俺の焦燥感を煽る。
「白石く〜ん! こっちこっち!」
桜井さんの声に導かれるように、僕は目を細めながら振り返った。 そこに、彼女がいた。
「――っ!!」
一瞬、思考が真っ白になり、肺の中の空気がすべて止まった。
そこには、今まで見たこともない「橘美咲」が立っていた。
淡い色の、清楚だけど体のラインを隠しきれない水着。
細い肩、透き通るような白い肌、そして、いつもの制服姿からは想像もできなかった、女の子らしい柔らかな曲線。
――あ。ダメだ。 これは、見てはいけないものを見ている。
俺は慌てて視線を逸らし、口元を片手で覆った。 心臓が、耳の奥で警鐘を鳴らすように激しく打ちつけている。
「……白石くん? どうしたの、顔……真っ赤だよ?」
橘さんが、不安そうに小首を傾げて覗き込んできた。 自分の水着姿が変なんじゃないか、彼に嫌われていないか――そんな期待と不安が混じった、潤んだ瞳。
「……いや、なんでもない。……日差しが、強いから」
「そう? まだ、泳いでないのに……」
橘さんは不思議そうに瞬きをする。 その時、隣から鈴木が「うおおお!」と野太い声を上げて割り込んできた。
「おい白石! 橘さんの水着、ヤバくないか!? マジでクラスの男子に自慢できるレベルだぞこれ!」
「鈴木、うるさい……。少し黙れ」
「なんだよ、お前も内心ニヤニヤしてんだろ? 正直に言えよ!」
鈴木の無神経な言葉に、俺はこめかみがピクつくのを感じた。
こんなに可愛い彼女を、他の男たちと同じ視線で見たくない。
でも、直視することさえ今の俺には、理性が壊れそうで怖かった。
「……行こうか。……流れるプール、あっちだろ」
俺は逃げるように歩き出した。 でも、視線をどこに置けばいいのか分からない。 隣を歩く彼女の肩が、歩くたびに揺れるのが視界の端に入る。
「……ねえ、白石くん。本当に、変じゃないかな?」
橘さんが、僕の二の腕を指先でツン、と突っついた。 そのわずかな感触に、俺の全身に電流が走る。
「…………変じゃない。……似合いすぎてて、直視できないだけだ」
「……っえ?」
絞り出すように本音を漏らすと、橘さんはパッと顔を赤くして、持っていたバスタオルに顔を半分埋めた。
桜井さんと中村さんが後ろで「ごちそうさまー」とニヤニヤしながらハイタッチしているのが、今の俺たちには全く聞こえていなかった。
完全に、動揺してる。
……プールは、まだ始まったばかりなのに。
このあと、何が起きてもおかしくない。
そんな予感だけが、胸の奥で熱を帯びていた。
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