第32話 夏が来る前に(橘美咲視点)
「もうすぐ、夏だね」
放課後の教室。
窓から吹き込む風は、少しだけアスファルトの熱を帯び始めている。
「そうだね」
私は明日の予習用ノートをカバンにしまいながら、何気なく答えた。
「再来週には、もう期末テストか……」
「テストが終われば、すぐ夏休みだね」
菜月がスマホの予定表を見ながら淡々と頷く。
すると、真琴がニヤニヤしながら、私の顔を覗き込んできた。
「ねえ美咲。テスト明け、さ。……みんなでプール、行かない?」
「え、プール?」
「そう! 市営のじゃなくて、ほら、最近できたお洒落なレジャープール! 鈴木くんや佐藤くんも誘ってさ。もちろん白石君もね。みんなでパァーッと打ち上げしようよ」
不意に飛び出した、彼の名前。 「……っ!」 心臓がトクン、と跳ねる。
白石くんと、プール。
……つまり、それは。
「美咲。去年の水着、まだ着れる?」
真琴が身を乗り出して追い討ちをかける。
「……え? 多分、大丈夫だと思うけど」
「『多分』? ちゃんと着て確認した?」
「……まだ、クローゼットの奥だよ」
私が少し視線を逸らすと、真琴は待ってましたと言わんばかりに机を叩いた。
「だめだよ美咲! 美咲はここ一年で……その、いろいろ『成長』してるんだから。サイズ、絶対変わってるって」
真琴の視線が、私の胸元に一瞬だけ落ちる。
「……っ!」
顔が熱くなる。
自分でも、去年の服が少しだけ窮屈に感じることは、密かな悩みだった。
「せっかく白石くんに見てもらえるチャンスなんだよ? 妥協した水着でいいの?」
「……真琴、何、企んでるの」
「別にー? 親友の魅力を最大限に引き出してあげたいっていう、純粋な親切心だよ?」
絶対、嘘だ。
その目は、絶対に面白い展開を期待している時の目だ。
でも――真琴の言葉が、呪文のように頭から離れない。
「……ねえ、菜月からも何か言ってよ」
助けを求めて菜月を見ると、彼女はイチゴオレを一口飲んでから、至極真っ当なトーンで言った。
「……競泳用じゃない美咲は、絶対、可愛い」
「――っ!?」
不意打ちだった。 菜月のストレートな言葉に、私の理性がガラガラと崩れ去る。
あの人の前で、可愛い水着を着て……。
そんなの、恥ずかしすぎて想像しただけで倒れそうだけど。
でも、もし、彼が少しでも私のことを見てくれるなら――。
「……行く。今週末、買いに行く」
私は消え入りそうな声で、でも決然と答えた。
真琴と菜月が顔を見合わせて、小さくハイタッチするのが見えた。
期末テストどころじゃない。 今年の夏は、今までで一番、熱くなりそうな予感がした。
「ここ、前も来たよね」
「そうだね」
私が何気なく答えると、真琴が待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑った。
「白石くんと、二人っきりでデートした場所だもんねー」
「……デートじゃないし。ショッピング。……一緒にいたじゃん」
「でもさ、あの時美咲、白石くんの服の裾、ぎゅーって掴んでたじゃん。離したくないよぉ、みたいな顔してさ」
「――っ! 掴んでないし! ……そんな顔、してない!」
思わず否定したけれど、指先があの時のジャケットの硬い生地の感触を思い出して、じわっと熱くなる。
「掴んでたよ」
菜月がイチゴオレを飲み干しながら、淡々と追撃してくる。
「しかも、結構長い時間。白石くん、壊れ物でも扱うみたいにゆっくり歩いてた」
「……あれは、人混みが凄かったから、はぐれないように……」
「『はぐれたら、嫌だから』。だっけ?」
真琴が私の真似をして、とろけるような声で囁く。
「やめてよ……!」
「白石くん、あの時耳まで真っ赤だったよね。美咲のこと、意識しすぎて壊れちゃうんじゃないかって心配になったわ」
私はもう耐えられなくなって、二人を置いて早足でショップの中へ逃げ込んだ。
後ろから「あ、逃げたー!」「図星」という楽しそうな声が追いかけてくる。
――もう。本当に恥ずかしい。
でも、あの時。 私の勝手な我儘を、彼は拒まなかった。
それどころか、守るように速度を合わせてくれた。
その事実を思い出すだけで、視界がオレンジ色の夕暮れに染まったみたいに熱くなる。
水着売り場。
そこは、学校の水着とは全く違う、キラキラした誘惑に満ちていた。
「美咲、これとかどう? 結構攻めてるけど、美咲のスタイルの良さが引き立つと思うんだよね」
真琴が持ってきたのは、少しだけ露出の多い、大人っぽいデザインの水着だった。
「……っ、無理! 派手すぎるよ」
「えー? 白石くん、こういうギャップに弱そうじゃない?」
「白石くんは関係ないでしょ!」
叫んでから、自分で自分の言葉に刺さった。関係、なくない。 私は逃げるように、一番シンプルな、白の花柄が散らされた清楚なデザインを手に取った。
「……これなら、普通かな」
鏡の前に立って、自分の体に当ててみる。
――似合うかな。
そう思った瞬間。 鏡の中に、私の背後に立つ「彼」の幻が見えた気がした。 少し驚いたように目を見開いて、それから、あの保健室の時のように優しく微笑む白石くん。
『……綺麗だ』
耳元で、あの時の低い声が再生される。 「――っあ」 あまりの解像度に、持っていたハンガーを落としそうになった。
「美咲? 止まってるけど、どうかした?」
「……な、なんでもない! 似合うかなって、思ってただけ!」
「へぇー。……誰に、似合うって思われたいのかなー?」
真琴が私の肩に顎を乗せて、鏡越しにニヤニヤと覗き込んでくる。
菜月も横から、「……白、は、膨張色。でも美咲が着ると、清楚な色気が出る」と無表情にトドメを刺してきた。
「美咲。顔、耳まで真っ赤だよ?」
「……店内の、冷房が、弱いだけ!」
「はいはい。じゃあ、まずはそれ、試着室で着てみなよ。ね?」
背中を押されて、私は逃げ込むように試着室のカーテンの中へ入った。
心臓の音が、狭い空間にうるさく響く。
――ダメだ。 何を選んでも、何を考えても。 結局、全部あの人の顔に行き着いてしまう。
私は熱を持った頬を両手で押さえ、深く、深く呼吸を繰り返した。
夜。 真琴の部屋での、お泊まり女子会。
三つ並んだ布団の真ん中で、私は天井のわずかな影を見つめていた。
電気を消した後の部屋は、スマホの微かな光だけが浮いていて、なんだか「本当のこと」を言わなきゃいけないような、不思議な空気に包まれている。
「ねえ、美咲」
真琴の小声が、暗闇に溶けるように響いた。
「……なに?」
「保健室のとき。……本当は、何があったの?」
心臓が、ドクンと跳ねた。
「……何って、怪我の手当てを見てただけだよ」
「嘘。白石くん、あの後からずっと、美咲のこと見る目が変わってるもん」
真琴の指摘に、沈黙するしかなかった。 あの時、シーツを掴んで「戻りたくない」と言った自分の声。
それに応えるように、彼の手が私に触れようとして――。
「……心配だったの」
絞り出すように、言葉を繋ぐ。
「白石くんが怪我して、すごく……怖くて。いつもはあんなに冷静なのに、私の前で……ボロボロになってまで頑張ろうとする彼を見てるのが、辛かった」
「それで?」
「……ただ、隣にいたかった。彼が一番心細いときに、他の誰でもなく、私にだけは弱音を吐いてほしかったの」
「……それだけ?」
「…………それだけだよ」
「……裾を掴んだときも?」
今度は菜月の声が、反対側から聞こえた。
「……あれは、はぐれそうだったから」
「嘘。美咲、あの時、自分の指が震えてるの気づいてなかったでしょ」
菜月の鋭い言葉に、私は布団の中で自分の手をぎゅっと握りしめた。
あの時、服の裾越しに伝わってきた、彼の体温。
「……離れたくなかった。触れてないのに、彼が隣にいるだけで、自分の世界が全部守られてるみたいで……。あんなに安心したの、初めてだった」
真琴と菜月が、息を呑む気配がした。
「……美咲、それ、もう『好き』の限界突破だよ」
真琴が、噛みしめるようにポツリと言った。
「っ……」 否定、できなかった。 言葉にすると、認めてしまうことになる。
私が、あの不器用で、でも誰よりも優しい男の子に、もうどうしようもなく惹かれていることを。
「……寝る。もう、寝るから」
「あ、逃げた!」
「美咲、耳まで赤いのが暗闇でもわかる」
二人の笑い声を背中に、私は布団を頭まで被った。
心臓が、うるさい。耳の奥までドクドクと響いている。
二人の寝息が規則正しくなり始めた頃。
私は一人、スマホの画面を一番暗くして、トーク画面を開いた。
あの人とのやり取り。 最後は三日前。 『また明日』 彼らしい、飾らない一言。
何か送ろうとして、指が止まる。 「水着、買ったよ」なんて、そんなの、彼に見に来てって言ってるみたいで、恥ずかしすぎる。
でも。 会いたいな。 声を聞きたい。
あの、少し低い声で、私の名前を呼んでほしい。
スマホを胸元に抱きしめると、機器のわずかな熱が、まるで彼の体温みたいに感じて、また胸が熱くなった。
窓の外では、虫の声が夏の足音を告げている。 テストが終われば、夏が来る。 水着を着て、彼と行く、初めてのプール。
――逃げないって、決めたわけじゃない。
でも、この気持ちに蓋をするのは、もう無理だ。
夏が来る前に、何かが変わる。 ……ううん、私が、変えたい。
私は、スマホに伝わる自分の鼓動を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
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