1モテモテ・モタモタ・モチモチ
「モテる」という言葉が嫌いだった。
好意を「持たれる」という言い方なら分からなくもない。(ある行為に対するその判断が正しいかは別の問題として)だけどそれだとモタれると言うべきだ。
「〜ちゃんはモタれていいよね」なんて言わない。(〜ちゃんは中年にとってのカルビか何かか)
モテるという状態はむしろ望月のように充実した状態なのかもしれない。「この世をば 我が世とそ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌を詠んだのは藤原道長だが、学校のクラスにおいてモテる状態にある人もまた、学校の中の道長と言っても過言ではない。だけど月の中でも満月のことをモチと言うのなら、望月のような状態にある人は「モチる」とか「モチってる」と言われるべきだ。
「〜ちゃんはモチモチだね」なんて言うと意味が変わる。(ゆるキャラか何かか)
モテるという状態は、多くのラブコメディーを見ると、複数の相手に好意を寄せられている状態を指していることが多い。その状態はまるで、ある人と別の人との間にまたがっているようである。
私は僻みを持ってこう言わせていただきたい。 「モテるとは、股である」と。
それは別に性的な意味で言っているわけではない。(多少の僻みは入っているが)
マタ(股)は植物の枝と枝とが分かれているマタ(又)を人の身体に例えた言い方である。物を「持つ」時には人は自分以外の物との「又」を形成している。(金八先生も、人という字自体が「又」になっているとは言わなかった)
マツ(松)という植物だって、枝分かれを基本的な単位としてその分岐を繰り返すような形が特に顕著な植物であるけれども、人を「待つ」行為だって案外それと似ている。「あの人は来るのか/来ないのか」あるいはその前の段階として、「あの人は話しかけてくれるのか/くれないのか」(私から話しかける選択「肢」が取れたらこのような手記は書いていない)そのようなAの世界とBの世界との間の又、つまり交点に立っている行為が、人を「待つ」行為である。(私にとっては好意を待つ行為であった)
ところで、私は一時期、ほんの一時期だけ、自分が「モテて」いたのではないかと愚かにも思ったことがあった。その顛末をここに記したいと思う。その私がどうしてこの手記に至ったのか。その点について、賢明な読者諸君におかれては察していただければ幸いである。




