第七話巨人の夢
それは、山脈の向こうに立つ巨大な人影だった。
脚は山々を踏みしだき、胴は雲を突き抜け、顔は見えない。ただ、あまりに高すぎて、そこにあるはずのものが視界から欠け落ちている。
振り上げられる長い腕。
空を切り裂く音は衝撃となり、空気そのものを震わせた。
見えぬ波が大地を這い、森を、川を、村を飲み込んでいく。
一歩踏み出すごとに地が呻き、街は瓦礫となり、田畑は跡形もなく崩れ去った。
やがて、その腕が山の向こうからしなり――
鞭のように空を裂き、眼前に“壁”として迫る。
潰される――
その瞬間、
(あれは……オレを見ている)
桃太郎は跳ね起きた。
息が荒い。全身が汗に濡れ、着物が肌に張り付いている。
「……また、か」
(あれは……逃げても、無駄だと――お前だと告げている。)
同じ夢を、三日続けて見ていた。
風を斬り走っていく少年。
桃太郎は十五歳。
長い漆黒の髪は高い位置で結われ、毛先はわずかに跳ねている。
その目だけは、ギラつく刃を思わせた。
白い着物がよく似合う、美しい少年だった。
その日も、桃太郎は村外れの神社へ来ていた。
境内の大木、その枝の上。
村を一望できる場所だった。
「こら、桃太郎。またそんなところに登って」
呆れた声が、下から飛ぶ。
「いつか罰が当たるわよ」
「言いながら登ってくるのかよ、美咲」
枝を揺らしながら現れた少女に、桃太郎は肩をすくめた。
「子どもの頃から一緒なんだから。あんたの行きそうな場所くらい分かるわよ」
美咲は十四歳。
丸く大きな瞳は、普段は好奇心に満ちているが、桃太郎の前ではどこか柔らかく、優しい光を宿す。
髪は一見おかっぱのようでいて、実際は長い髪を首元でゆるく束ねている。
その長さは腰を越え、柔らかな毛先が風に揺れていた。
「ここ、好きなんだよ。村が全部見えるから」
桃太郎は遠くを見たまま言う。
「オレ、しとり様のところへ行こうと思う」
「またあの仙人様?」
「ああ。あの人の力は本物だ。最近……夢にうなされてる」
「……」
美咲は少しだけ視線を落とした。
「わたしも、一緒に行く」
「……嫌な感じがするの。最近ずっと」
「は? お前、あそこがどれだけ大変か――」
「分かってる」
静かだが、はっきりした声だった。
「わたしも……同じ夢を見るの」
「……夢?」
「ええ。だから、相談したいの。明日の儀式の前に」
桃太郎は目を見開く。
「オレもだ。毎晩、同じ夢を見てる」
二人は顔を見合わせた。
山を登る。
日が傾くころ、頂上近くの岩場へ辿り着いた。
「桃太郎、久しいのう」
不意に、背後から声がした。
振り返る。
そこに立っていたのは、一人の女だった。
年は十八ほど。だが、その佇まいは年齢以上に落ち着いている。
空気を支配するような存在感。
細く整った眉はやや吊り上がり、瞳は鋭く、まっすぐに相手を射抜く。
媚びる気配は一切ない。試すような視線。
口元には、余裕の笑み。
勝気で、自信家。だが不思議と嫌味はない。
長い髪は後ろで丸く束ねられ、前髪がわずかに揺れている。
町人の装いながら、どこか洗練されていた。
濃茶の外套。その裏は深い紅。
「しとり様……!」
桃太郎が頭を下げる。
しとりは二人の顔を見て、すぐに何かを察したようだった。
「今日はただ事ではない話のようじゃな。来い、特別に中へ入れてやろう」
その言葉とともに、
巨大な岩が、音もなく開いた。
中は、木の温もりを感じさせる空間だった。
外見からは想像もできないほど整えられている。
美咲は思わず足を止めた。
目を奪われたのは、岩肌を磨いて作られた流し場だった。
鏡のように滑らかな面。中央には小さな穴。
手を伸ばしかけた、その瞬間。
上から、温かい湯が流れ落ちた。
「きゃっ!」
「それは流しじゃ。動きを感知して湯が出る」
さらに視線を移すと、宙に浮かぶ球体。
「……あれは?」
「ああ、氷室箱じゃ。中は常に冬。食糧を保存できる」
「武器をやろう」
差し出されたのは、一振りの刀。
「金輪刀。大地の奥底と同じ硬さを持つ。折れん」
そして、木の実を一つ。
「夢繋ぎの実じゃ」
「“境界が曖昧になる”」
しとりが、静かに笑う。
「今宵、お前はわしの弟子として真の修行をする。」
その瞳が、わずかに鋭さを帯びた。
「夢の中で一年分、鍛えてやろう。
人としてでは足りぬなら――別の在り方を教えよう。
目覚めた時――お前はもう別物じゃ」
(――その言葉の意味を、桃太郎はまだ知らない。
それが“戻れない一歩”だということも)




