第三十五話「忘却 ――それでも、笑っていた」
大和の都。
爽やかな朝。
やわらかな陽が差し、風は穏やかに流れている。
――何も変わらない朝。
そう、見える。
教室。
「では、今日はここから」
真備が板に墨を走らせる。
『命とは何か』
「……朝から重たい話ね」
日生が小さく息を吐く。
「目が覚めきらないうちに聞くものじゃないでしょ」
「大事なことよ」
真備は振り返りもせず言う。
「逃がす気はなさそうね」
奈義は身を乗り出している。
「ねえねえ!死んだらどうなるの!?」
「いきなりそこに行くの?」
日生が眉をひそめる。
「順番ってものがあるでしょうに」
一方で――
美咲は筆を走らせていた。
さらさらと、迷いなく。
「……誰に見せるつもり?」
日生が横目で覗く。
「わからない。でも、残しておきたいの」
「残す、ね……」
日生は小さく呟く。
命の話。
「命は、“形あるもの”ではない」
真備が言う。
「流れとして在るもの」
「また難しい言い回しね」
「水のようなもの、と考えて」
奈義の顔がぱっと明るくなる。
「水!それならわかる!」
「器が変わっても、水は水でしょう?」
「うん!」
「それと同じよ」
美咲の手が止まる。
言葉が、どこかに引っかかる。
「じゃあ」
日生が口を開く。
「死んだら、その“流れ”はどこへ行くの?」
「流れる」
「だから、どこへ?」
一瞬の沈黙。
「……それは分からない」
「肝心なところは霧の中、ってわけね」
日生が肩をすくめる。
その時だった。
美咲の筆が止まる。
一枚の紙。
そこに書かれている名。
『桃太郎』
じっと見つめる。
「……どうしたの?」
奈義が顔を寄せる。
「その名前……」
日生も覗き込む。
「誰?」
美咲は考える。
けれど――
何も浮かばない。
「……わからない」
困ったように微笑む。
「でも」
胸に手を当てる。
「懐かしいの」
小さな声。
「大事な名前な気がする」
日生は黙ってそれを見る。
「……妙ね」
ぽつりと呟く。
「忘れてるのに、残ってるなんて」
その眉が、わずかに寄る。
続く日常。
「では次」
真備。
『輪廻とは何か』
「まだ続くのね」
日生が苦笑する。
「当然よ」
奈義はさらに身を乗り出す。
「生まれ変わりってこと!?」
「そう考えていい」
「じゃあ、また会えるの!?」
一瞬の間。
「……可能性はある」
「やった!」
無邪気な笑顔。
その隣で――
美咲は、また紙を見る。
『桃太郎』
(……誰なんだろう)
屋根の上
影が一つ。
静かに座している。
視線は、教室。
「……順調だな」
低い声。
「流れが削れていく」
空気が、歪む。
「忘却鬼――無縁界」
「名を失えば、縁は絶つ」
「縁が絶てば、存在は消える」
「桃太郎」
その名を口にする。
だが――
「……誰だったか」
くすり、と笑う。
「良い」
「実に良い」
別の場所の。
神庭、哲西、矢掛。
三人で歩く。
「なあ」
神庭。
「最近、妙じゃねぇか」
「……うん」
哲西が頷く。
「何か、大事なことを忘れてる」
矢掛が静かに言う。
「記憶に空白がある。しかし、掴めない」
「気のせいで済ませたいがな」
神庭が頭を掻く。
「胸のあたりが、ざわつく」
哲西。
「皆同じか」
矢掛。
「……思い出せねぇな」
「でも」
哲西が呟く。
「きっと、大事なことだ」
風が吹く。
何かが、流れ落ちる。
だが――誰も気づかない。
教室。
「まとめるわ」
真備。
「命は流れ」
「輪廻は巡り」
「そして――」
一拍。
「意味は、人が与えるもの」
「なるほどね」
日生が頷く。
奈義は笑う。
美咲は――
紙を握りしめる。
『桃太郎』
文字が、にじむ。
(……忘れちゃいけない)
侵食。
屋根の上。
鬼が立ち上がる。
「巫女は四人」
「捕らえる」
「障害は――」
一瞬、思考が止まる。
「……何か、いた気がするな」
「まあいい」
すぐに切り捨てる。
崩れ。
教室には笑い声。
変わらぬ日常。
穏やかな時間。
だが――
そこに“いたはずの誰か”が、
もう、どこにもいない。
理由が消える。
繋がりが消える。
守る意味が、消えていく。
それでも。
誰も気づかない。
最後。
美咲は紙を見つめる。
『桃太郎』
そっと、呟く。
「……誰、だっけ」
風が吹く。
流れる。
すべてを、どこかへ。
世界から。
一つの“縁”が――消えた。
「それでも、朝は変わらず訪れる。」




