第三十七話 ネルテ先生の不幸の日
朝起きて、ベッド脇のサイドテーブルに乗っていた時計が壊れていたことに気付いたとき、一年に一度の例の日が来たとネルテは遠い目をして察した。
ネルテの役職は幸福者だ。任意のタイミングで任意の対象の幸運を引き上げることが出来る代わりに、一年に一度ランダムで何をしてもネルテ本人が不運になってしまう日が発生する。
毎年の事なので流石に慣れてしまっているネルテは、いつ来ても大丈夫なように目覚まし時計が無くても起きられる様にしたし、実際その日は目覚ましでなくても部屋中の時計が尽く壊れているので分かりやすいと言えばわかりやすい。
おかげで高級なブランド物が不幸の日に尽く壊れるので、買い直す出費が痛いと一切買うことが出来ない。
エレイーネー校内にあるネルテの職員用私室は基本買い替えやすい質素なものに落ち着いている。
置きてまず顔を洗おうとしたら配水管が割れて全身と部屋が水浸しになった。
配水管を修繕魔法で直そうとすれば悪化するので、今日は一日この状態で放置するしかない。排水だけできるように何とか部屋にあるもので水を誘導したが、おかげで私物はびしょびしょだ、使えなくなるものもあるだろう、また買い替えないといけない。
次になんとか出勤の用意しようとしたら廊下でスペキュラーに捕まり三時間意味もないおしゃべりを延々と聞かされた。
いつもなら適当に切り上げて放置するが、今日に限って切り上げるタイミングで別の話をし始め、放置して行こうにもこれまたタイミング悪く肩を叩かれたり腕を叩かれたりしたため中々切り上げられなかった。
盛大に遅刻したためヘーヴから怒りの通信魔法が入り、急ぎ職員室に向かったが廊下を歩けばいつもは何もない廊下の空中からボールだのゴミだの何か振ってきて頭に当たるし、外の校庭は走る度に木の根やら花壇整備の土やらレンガやら何かが引っかかって盛大に転んでドロドロになる。
この日が来たら何もない様に休んで部屋にいるのが一番なのだが、不運というものはそれを許さず大抵何らかの理由で部屋から外に叩きだされるのだ。
よりにもよって式典の日にこの日が重なるのは最悪だ。校外学習の一年次生徒引率が必須な以上、担任のネルテも出なくてならない。何も起こらなければいいのだが。
そんな祈りもむなしく、なんとか出発には間に合ってボロボロになりながら転移門をくぐった後、流石に不憫な表情の同じく式典出席予定のヘーヴが、校長が遊びながらデルメを煽り散らしているところに遭遇してしまい、半年以上仕事をサボっていた校長を捕まえたことでエレイーネーに戻ってしまう。
生徒達を解散させた後アシュの街道を歩けば、上から窓に置かれた鉢植えがガチャンガチャンと立て続けに落ちてくるし、屋台の前を歩けば謎の突風が発生して食材が全部吹き飛んで来てベタベタになるし焼いていた食材を被って軽いやけどもする。
今日は生徒に近寄らない方がいいかもしれない。
そう思って生徒が来なさそうな寂れた町外れに向かうと、小さな喫茶店の前を通りかかった際、店員がひっくり返した熱々のお茶を頭のてっぺんから盛大に被った。
お詫びだとペコペコ謝られながら淹れてもらったお茶をテラス席で飲んでゆっくりしていたのが間違いだったのか。
一瞬何かが黒い彗星のように通り過ぎたと思ったら、数拍置いて大声を上げてそれを追いかけてドラゴンに乗っているイシュトワールが飛び過ぎていった。
ドラゴンライダーが空を飛ぶ様子に少ない人数の周囲の民衆は歓声を上げて見世物と勘違いしているが、バシャバシャとまた吹き飛んだ紅茶を顔面に直撃させながら、必死な様子で叫びながら何かを追いかけていくイシュトワールの様子にネルテは物凄く嫌な予感がした。
「いや、本人が気まぐれで一人で来てる可能性もあるよね、うん、式典だしお祭りだし」
柄にもなく現実逃避に近い発想だったが当然その筈もなく、リリアから魔人族と接触して逃げていったと連絡が入って頭を抱えた。
しかし放置できる立場ではないので、顔にまた紅茶を被ったまま喫茶店員に礼を伝えつつ立ち上がって走り出した。
明らかにイシュトワールから逃げているクロノはもうエレイーネーに戻る気はないのだろうか。
エレイーネー側の不手際の非もある上に謝罪も出来ていないので出来れば話をしたいし、魔人族と一緒にいる事情も聞きたいものだが、一方で家庭内の問題も抱えている可能性もあるのでとりあえずは追っているイシュトワールに任せるしかない。
何より今のネルテでは追えば逆に彼の足を引っ張ることにしかならないだろう。
問題はルドーが追っている魔人族の方だ。
式典でこれだけ警戒しているのに現れたとなるなら捕まえるなり追い払って入ってこない様にするなりしないと何をするかわからない。
式典中に施設襲撃のような爆発事故でも起こされたら、今までの被害の規模ではないだろう。
ただネルテの今のコンディションで捕まえられるかと聞かれれば多分無理だ。何かしらの不運が発動して絶対に何か良くないことが起こる。
「私だけならまだいいんだけど、生徒や民衆に被害は出したくないねぇ」
自分だけではよろしくないと思ったネルテはヘーヴに連絡を取ろうとしたが、校長がまた脱走しようとしているのかすったもんだ大暴れしているせいで、校長室の中暴れ回る音と一人格闘しているヘーヴの怒鳴り声が聞こえるだけでこちらの情報が全く聞こえている様子ではない。
マルスは多分寝ているため連絡が取れないし、スペキュラーに頼むか、いや頼むだけで五時間経過してしまう、護衛科の二人は式典で授業にならないからと、それぞれ個別で魔人族襲撃施設の調査出張中でエレイーネーにいないからそもそも呼べない。
他学年の担任達はそれぞれの仕事があるし、そこまで面識もなければネルテの役職事情が知られている訳でもないので説明説得に時間がかかり過ぎる。
どうにもならないのでとりあえずルドーが向かってそうな場所を探知魔法で確認して向かう事にするが、町外れに建物の上からでも向かっているのだろうか。
「うーん、その方向はちょっと今不味いかなぁ」
運が悪い時に廃墟に行こうものなら崩れかねない。
ネルテが近寄っていいものか走りながら悩んでいると、すぐ傍の路地で次々と何やら鉄製品が吹き上がって壁が出来上がっているのが見えた。
今の運勢でこれは不味いと思ったのも束の間、制御を失った鉄製品がちょうどネルテが近くを通りかかった瞬間バラバラと落ちてくる。焦っていても安全に解除するところまでやりなさい。
ナイフやらフォークやらが落ちてくるのを間一髪でわたわたと躱す。
不幸の日に一度でも怪我をしたらどんどん際限なく怪我をし続けるのでそれだけは避けないといけない。
「あぁーもう! 式典終わったらちょっと説教コースだからねこれ!」
危険物を避ける曲芸でもやっているのかと勘違いされた民衆からパチパチと拍手喝采を浴びる中、ルドーがいるであろう方向に走る。
やっぱり何もない場所で転ぶし、住宅の窓からタイミング悪く何かと落ちてくるしで、いつもより到着にずっと時間がかかっている。
転移魔法を使えば失敗してとんでもない場所に出ることは今までの経験から分かっているため使えない。
『先生、ルドーは無事ですが気絶しています』
「……外傷はなさそう?」
『回復かけたのでありません』
しばらくしてエリンジからも通信が入った。
魔人族を追っていたルドーが気絶しているという事は逃げられてしまったのだろう。事態は悪化の一方だ。
町外れの廃墟で勝手に戦闘した挙句やられたようだ。資格を持ってないのだからまず援護を呼びなさいと説教するが、無事ではあったしまぁ及第点だろう。
彼にはどうやら攻撃魔法以外の魔法が失敗するデメリットがあるようなので、連絡しようがないのだとわかったからだ。
今日のネルテの通信魔法がルドーに尽く失敗し続けたのは仕方ないが、追っているはずのルドーから全く連絡がなかったのが気がかりだったがこれで原因が判明した。
魔人族を発見したのに逃がしただなんて街の上層部になんて言えばいいのやら、しかし報告しないわけにはいかない。事は急を要する。
緊急報告に返ってきた返事はあまりにもお粗末だった。警備を増やすので問題ない、あまりにもあっけない返事に訝しく思いながらも、式典でにぎわっている街を見て思いなおす。
今魔人族が来たから中止にしますと発表すれば、襲撃を恐れて下手したらパニックが発生する。
人の不安感情は魔物を呼び寄せやすい。この規模だと近場の魔の森から一気に押し寄せる可能性も考慮しての事だろう。もうどうしようもないのだ、そう思ったのが間違いだった。
「あぁ、街自体がやばいやつだったか」
塔から発生した謎の連続音、伝承にあった魔物発生装置と言える超濃度の瘴気、大量に噴き出してくる大型翼竜魔物。
ルドーの叫びに呆然とそれを眺めながら、ネルテは誰に言うでもなく呟いた。
三百年前の伝承の再来なんて、本当になんて運の悪い日だ。
発生源の塔の結界をどうにかしようとしたが、魔力の調整が上手くいかず、全力の更に上の魔力が勝手に出てきた。
どうしようもないので渡りに船だとそれで塔をぶん殴ったが、普通ならば塔を破壊して粉々になるまでに十分な威力のそれは、見たこともないほどの硬度の結界魔法に阻まれた。
立ち入り禁止だった塔がこの有様、世界の要人たちと一緒に実力のある魔導士たちは中央広場にまんまと集められて何もできなくされている。
街に入った時から感じていた違和感、街の警備の状況が式典の中枢に偏り過ぎていたのに、式典の高揚した空気に流されて気付くのが遅れた。不幸も相まって勘が上手く働かなかった。
兆候は街に入った時からあったはずだったのに。
いつもだったら寂れた町外れまで足を向けた時点で、魔導士の配置の偏りに違和感を持てたはずが、降りかかる不幸から逃げるのに精一杯でそれに気付けなかった。
暴発したヘルシュの風魔法に盛大にぶっ飛ばされながら、ネルテは己を恥じる。
「しゃーない、不運な日だ。やってやろうじゃないの」
運が悪いなら魔物は自分に集まる、それだけは確信できた。なら囮になって精々生徒や街の人たちを守ってやろうじゃないか。
幸福者は任意の対象の幸運を上げる。しかし不幸の日にそれをやると幸運と不運が相殺されるので自分含む対象者に使えなくなる。
今日は役職の効果が使えない、不運しか残らない日だ。
モネアネ魔導士長の避難命令の通信魔法を聞いたネルテは、あえて倉庫街から一番遠くに移動し、一人、発生した魔物の半数という異常に集まってくる大型翼竜魔物を駆逐し続けた。




