5 魔女、『学園』へ
「なななななななにを仰るんです!! 絶対! 絶対に無理です!!」
ヴェネフィシカが返したのは、力強い困惑だった。ぎょっと目を見開いたイエンスの横で、シレオはニコニコと笑っている。
「わわわ、わたしにそんな資格、ほんの少しだってないことは、ご存知でしょう!!」
ヴェネフィシカは必死に言い募った。
『学園』への入学が許されるのは、難易度の高い入学試験を通った者だけである。受験者の多くは、学ぶ余力のある家柄の貴族の若者たちだが、豪商の子女や、初等学校で著しく優秀と認められた、貴族を後見に持つ者など、ウェルバムでも一握りの天才秀才の集まる場所なのだ。国内外の学術・魔術を求める若者たちにとっては『聖地』とも呼ばれ、多くの者が目指し、そして開かぬ門に涙するのだと、ヴェネフィシカでさえ知っていた。
「そ、そんな簡単に、資格のないものが、通っていいなんて思えません! わわわわたしより、ずっと頭の良い人が、入れなくて悲しんだはずなのに! こんな! 全然さっぱりまったくどうしたって駄目なわたしが授業を受けるだなんて!! 学問の神への冒涜です!!」
そこまで言うか、と聞こえたつぶやきは多分、イエンスのものだ。ヴェネフィシカはそれさえ確かめることなく、シレオのひらひらとした賢者のローブに、がっしりと掴みかかった。
「師匠命令なら、わたしは従わないわけにはいかないです! で、でも、か、考えなおしてください!! わ、わたし、神罰で死にたくないです!!」
ぶふ。聞こえた息の抜けるような音に、ヴェネフィシカは涙目で顔を上げた。イエンスが右手で口元を、左手で腹を押さえてうずくまっている。
「い……イエンスさん……?」
「す……すまない……」
身体をくの字に折り曲げて、銀鼠色の背が震えている。笑いを必死にこらえているのだと気がついて、ヴェネフィシカは膨れた。
「イエンスさん……」
「わ、悪かった……だ、だってお前……」
顔を上げたイエンスは、こらえきれずに漏れた笑みを眦に残していた。大人びていて、偉そうで真面目そう、という印象を抱いていた兄弟子を、ヴェネフィシカは怒りも忘れてぱちぱちと瞬きする。
イエンスの整った顔立ちは、少年らしい潔癖さを残してどこか硬質なものなのに、こうして笑み崩れると、柔らかく人好きのする面差しに変わるらしい。
「そんなことで人が死ぬか。学問の神はそんなに狭量じゃない」
「そ、そう、でしょうか……」
「ああ」
ようやくに笑いの気配を消して、イエンスはヴェネフィシカの前にやってきた。黙って微笑んでいるシレオにちらりと目を投げてから、ヴェネフィシカの隣に腰をおろして、腕と足を組む。たった三日で見慣れるほどに良く見かける、偉そうな仕草だ。
「アレは、学問を司るものだが、それと同時に、学問を志す者の守護者でもある。だから、学問の神は学問を受けることを望む全ての者に、望んだ学問が授けられることを願っている」
「ア、アレ、って……」
「つまり、与えられた機会をみすみす逃すものにこそ、神罰が下る可能性があるのではないかと」
イエンスはにやり、と人の悪い角度に口角をもたげた。悲鳴めいた音を喉の奥で鳴らしたヴェネフィシカに畳み掛ける。
「学問の神の『神罰』とやらを避けたいなら、目の前にあるチャンスは逃さずつかむべきだ」
「そ、そう、なのですか。……あの、イエンスさん、お詳しい、ですね」
「血縁の者が『神殿』にいる」
なんてことないように言ったイエンスに、ヴェネフィシカは瞠目した。
『神殿』とは文字通り、ラクス・ヴィタエのど真ん中の小さな島にある、学問の神を祀る神殿である。
空の彼方より、地に学びをと降り立った知の神が、この地を統べていた最初の魔女に恋して、婚姻を結んでウェルバムの王となった――という伝説が、この王国には残っている。そのため王族にとって知の神は『氏神』であり、王族の巫女姫を筆頭に、古代から脈々と神殿に祀られてきた。よって、そこに仕える者の多くは高位の貴族、もしくは突出して優秀な魔法使いなのだ。
その血縁ということは、イエンスもまた、高位の貴族の家の出であるか、魔法使いとして優秀な一族の者であるということに他ならない。最初の魔女の血に連なると言われるヴェネフィシカの実家・フロース家も、神殿仕えの魔法使いを過去に幾人も輩出しているのだから、ひょっとすると血が近い可能性もある。
――イエンスさんには、わたしがフロース家の娘だと、何が何でもバレないようにしなければ。
「だから堂々と授業を受ければいい。師匠がお前に制服を着てくるようにと言ったのは、多分、この事態を予測していたからではないか?」
ひとり、ブルブルと震えながらも固い決意を胸に秘めたヴェネフィシカにイエンスは畳み掛け、その言葉尻を受け取ったシレオもまた、人外の美貌で微笑んだ。
「ええ、そうです。それに、なにもすべての授業を受けろと言う訳ではありませんよ、ヴェニー。魔術以外の授業は、家庭教師に習っていた程度では追いつけないでしょうし。貴女に受けて欲しいのは、『スキエンティア・ザイン』という教授の授業です」
「ザイン先生……ですか?」
鸚鵡返しに口を開いたヴェネフィシカに、シレオは頷く。
「彼は珍しい、『核』について研究をしている魔術師です。『人間』は他人の『核』を見ることはできませんが、『核』を感知するための魔術の開発などを行っています。私の知る限り、最も『核』について詳しい『人間』は彼です」
「あの、賢者様は、やっぱり……」
「ええ、私はほとんど『人間』ではありません」
ぽかんと間抜け面を晒すヴェネエフィシカを尻目に、シレオは続けた。
「それはさておき。彼は本来『大学』の教授ですが、週に何度か、高等部で出張授業をしています。――先程も言いましたが、私が貴女の『核』を見てあげることはできます。しかし、貴女は人間ですので、それなりに準備が必要です。それは一日や二日で終わるものではありません。ですから、その準備期間、彼の授業を受けて『核』について学び、できるならば自分の『核』を感知できるように鍛錬していらっしゃい、と言うわけなのですよ。とはいえ、週に何時間もある授業ではありませんし、せっかくですから、イエンスと一緒に、幾つか授業を聴講してくれば良いのではと思いましてね」
「……は、はじめからそう、言ってください……!」
ヴェネフィシカはぐったりと脱力し、ソファにべったりと崩れ落ちてしまった。
*
「おーい、イエンス!」
「……なんだ」
「なんでお前真面目に授業出てん……じゃない、誰だよあの子!」
「授業中に無駄話をするな。しゃべるくらいならサボれ。俺は単位は足りている」
さして広くない講義室の窓際で、イエンスは今日5度目の盛大な溜息をついた。窓の外では粉雪が舞っていて、その手前では赤毛の少女が食い入るように黒板を見つめている。
「無駄じゃねえよ気になるんだよ気が散るんだよなああの子誰?」
「……さっきも言ったが俺の妹弟子だよ。師匠の言いつけで、魔術学関連の授業だけ聴講することになったんだ。あと私語は慎め」
「えーだってさあ、かわい……」
「ハンス……お前よっぽどわたしを怒らせたいようだね……? よし分かったお前専用の課題を用意しよう喜ぶがいい!」
「しまったー!!」
騒がしいことこの上ない。イエンスは目を眇め、教員に目を付けられた隣人を見やった。
彼、ハンスはイエンスの同級だ。これでも『学園』の学生だから、頭は決して悪くない。成績も優秀で、将来は魔術の研究者を目指しているのだという。しかし、こんなに魔法使いらしからぬ魔術師候補もそういない、とイエンスは内心毒づいた。
呆れの目を隣人から引き剥がし、イエンスは今度は、左に座る少女を見た。ヴェニーはイエンスの右隣の騒がしさも全く気にならないのか、キラキラと輝く瞳で板書を取り、嬉しげに文字をなぞっている。本来、一学年下の授業を聴講すべき彼女はシレオとの問答の末に、魔術に関する学力に支障なしとされ、イエンスと同じ、最終学年の魔術の授業を受けていた。
赤い前髪は長く、瞳を半分近く隠してしまっているし、表情も決して明るくない――むしろ根暗に見える。引っ込み思案な上に人見知りで、いつも自信なさげに視線をさまよわせている。しかし、気弱な表情と、派手なところの全くない『学園』の制服や深くかぶられたフードは、彼女の造作の良さを隠しきれてはいない。鼻は愛らしく尖っていて、形の良い口唇は柔らかな淡紅色。時々覗く瞳は大粒の緑柱石のごとく輝いている。「かわいい」と言いかけた、ハンスは正しい。
しかし、「かわいい」などと気楽に言っていいものか、とイエンスは目を細めた。ヴェニーは些細な仕草が妙に上品で、紡ぐ言葉は発音が綺麗すぎる。手指や肌に荒れもしみもないし、さらりとこぼれる髪の毛にも傷みや絡みがない。お忍びの、それなりに裕福で格のある家の人間なのだろうと、見る人が見れば即座に分かってしまうだろう。
(――甘い、んだな)
そんな程度の変装で、本当に見抜かれないと思っているのだろうか。世間ずれしていないにも程がある。
(社交界にはまだ出ていないから、仕方ないのか)
夢中で文字を書いている少女の横顔を、チラチラと眺める。魔の森よりも深い、とろりとした緑の瞳は、イエンスの脳裏に、遠くなったはずの古い記憶を蘇らせる。
(でも)
目を閉じて、視界から少女の姿を追い出す。すっと遠くなる思い出に、浅く息をついた。
(……今はまだ、駄目だ)
冒頭の方の切れ目に失敗した感が否めない。