第70話:紅薔薇の癇癪と白百合の誓い
深夜、王女の居室の閂が下りた瞬間、静寂は暴力的な音を立てて砕け散った。
ガシャン!
卓上に置かれていた銀の燭台が床へ薙ぎ払われ、蝋が敷石に白く飛び散る。
フランシアは肩を激しく上下させ、乱れた金髪の隙間から、冷ややかに佇むミシャを射抜くように睨みつけていた。胸元を覆う真紅のガウンが、荒い呼気に合わせて波打っている。
「……何よ、その顔は」
絞り出すような、ひび割れた声だった。
昼間、エレノアたちを短剣と勅許で一蹴した堂々たる王女の仮面は剥ぎ取られ、剥き出しの苛立ちと屈辱がその双眸を濁らせている。
「昼の回廊でもそうよ。兵が踏み込んできた時もそう! お前はいつだってそうやって、眉毛一つ動かさずに涼しい顔をして……! 飾り針を忍ばせていただの、裾の重りを見抜いていただの……全部、一人で片付けられたって言いたいの!?」
フランシアは床に散らばる蝋の破片を革靴で踏み荒らしながら、ミシャの至近距離まで詰め寄った。
細い指先がミシャの灰色の侍女服の胸元を乱暴に掴み、引き寄せる。
「私が必死になって短剣を投げたのも、勅許を叩きつけたのも……全部、一人で空回りして間抜け面を晒しただけじゃない! お前には私なんて必要ないんでしょう!? 私がいなくたって、冷たい顔で針を刺して、誰の手も借りずにすり抜けていく……! 心配して血相を変えた私が、まるで愚鈍な道化じゃないのよ!」
ヒステリックな罵声が、閉ざされた寝室に木霊した。
掴まれた麻布が悲鳴を上げる。
だが、その指先は怒りよりも激しく、小刻みに震えていた。
怒声の下に隠されているのは、「自分などいなくともこの少女は生きていける」という、見捨てられることへの底知れぬ恐怖。外海の漂流と裏切りの中で、孤独に凍え切った魂の悲鳴だった。
(……やれやれ)
ミシャは心の中で微かに息を吐いた。
昼の猛禽のような鋭さはどこへ消えたのか。こうして夜の闇に二人きりになると、この同じ顔をした王女は、針の一刺しで破裂してしまいそうなほど脆い硝子の器に戻ってしまう。
だが、その不器用で身勝手な癇癪が、なぜか胸の奥の冷え切った場所をじんわりと温める。
クロードの重苦しい執着とも、太后の冷酷な悪意とも違う。
ただ自分を必要とし、自分に縋り付きたいと願う、剥き出しの熱。
「……フランシア様」
ミシャは掴まれた胸元の手を払うこともせず、静かに両手を伸ばした。
そして、怒りに震える王女の華奢な身体を、正面からそっと抱き留めた。
「なっ……離しなさ――」
「お茶を淹れ直しましょうか。少し、冷え込んでまいりましたから」
耳元で囁かれた淡々とした声に、フランシアの抵抗がぴたりと止まった。
ミシャの細い腕が、王女の背中を優しく、赤子をあやすようにゆっくりと撫で下ろす。布越しに伝わる体温と、針仕事で荒れた指先の確かな感触。
「盆の裏に針を隠していたのは、貴女様が来られるまでの時間を稼ぐためです。……貴女様が来てくださらなければ、わたくしは一人、近衛の槍に貫かれていたことでしょう」
「……嘘よ。口先ばかりのおためごかしを……」
「嘘ではありませんわ。わたくしが生き延びられるのは、貴女様が短剣を握り、わたくしの前に立ちはだかってくださるからです」
ミシャは腕の力をわずかに強め、王女の冷たい耳たぶに唇を寄せた。
もはや主従でも、偽物と本物でもない。
同じ血の匂い、同じ痛みを分け合う者だけが通わせる、絶対の響き。
「貴女様を道化などと思ったことは、一度たりともございません。……わたくしにとって、この鳥籠の中で唯一の光は、貴女様だけです」
フランシアの喉から、掠れた嗚咽が漏れた。
張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、王女の額がミシャの灰色の肩へと崩れ落ちる。
ミシャの背中に回されたフランシアの腕が、二度と離すまいと骨がきしむほど強く抱きしめ返してきた。
「……嘘つき。絶対に、私を置いていくな」
「ええ、決して」
「私を裏切ったら、その喉笛を私の手で掻き切るわ。……お前が死ぬ時は、私の腕の中よ」
「望むところでございます」
倒れた燭台の薄明かりの中、二人は互いの体温を貪るように抱き合い、言葉にならない生涯の契りを結んだ。
歪んでいようと、血に塗れていようと、この絆だけは地獄の底まで解けない。
二人の呼吸が重なり、夜の冷気配がゆっくりと溶けていく。
だがその時、扉の鍵穴の向こう、廊下の暗がりで、息を潜めて聞き耳を立てていた「影」が、音もなく身じろぎしたことに、まだ二人は気づいていなかった。




