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血と薔薇の離宮  作者: 秦江湖


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第1話:白百合

深い神聖の森の奥には、人間たちの古い地図から消え去った、忘れられた谷間がある。


石楠花(しゃくなげ)の群生に抱かれたその場所には、苔むした水車小屋と、小さな石造りの機織り

工房がひっそりと息づいていた。


清らかな小川のせせらぎ、朝露を弾く天草の青い匂い、そして規則正しく響く、糸車の乾いた音。


「ミシャ、針の目を落とすんじゃないよ。王都の目利きどもは、裏地の縫い代ひとつで布地の命を見抜くんだからね」


「わかってるわ、セリアお姉ちゃん。ほら、見て。朝露の雫を散らしたみたいに、きれいに揃っているでしょう?」


窓辺の光を浴びながら、ミシャは細い銀の針を小鳥のように躍らせた。


膝の上に広がるのは、蜘蛛の糸より細く、絹よりも滑らかな極上の亜麻レース。


朝陽を浴びて透き通るような白磁の肌と、夜露を含んだ菫(すみれ)色の瞳が、無垢な光を宿して揺れている。


ミシャの傍らでは、三人の小さな妖精姉妹が忙しなく立ち働いていた。


銀髪をきっちりと結い、眼鏡越しに指図を飛ばす長女のセリア。


木の実や樹皮の煮汁でエプロンを染め抜き、新しい染料をかき混ぜる次女のロザリー。


そして、陽だまりの中でパイプをくゆらせ、歌うように糸車を回す末っ子のミネット。


世界に唯一残された「最後のおとぎ話」の生き残りたち。



十九年前の嵐の夜、森の泉の畔に捨てられていた赤子――ミシャを拾い上げ、愛情のすべてを注ぎ

込んで育ててくれた、かけがえのない家族だった。


ミシャは自分がどこから来たのかを知らない。


本当の父母の顔も名も知らず、ただ「森に授けられた娘」として、木々の息づかいと小鳥たちのさえずりを聞いて育った。


けれど、寂しいと思ったことは一度もない。


三姉妹が授けてくれたのは、自然の恵みを美しき布へと昇華させる、神業のような手仕事と、どんな冷たい冬の嵐にも折れない強い心だった。


「はい、染め止めも完璧よ! エデル商会の旦那、これを見たら腰を抜かしてひっくり返るんじゃないかしら」


ロザリーが誇らしげに掲げたショールは、森の朝靄をそのまま織り上げたような、えも言われぬ神秘的な銀白色を放っていた。


「さあミシャ、出かける前に、いつものお花にご挨拶しておいで」


ミネットが穏やかに目を細める。ミシャは「うん!」と天真爛漫に微笑むと、裸足のまま工房の裏手へと駆け出した。


工房の奥、森で最も清らかな泉のほとり。


そこにそびえる苔むした巨木の幹には、信じられない奇跡が根づいていた。


ひとつの幹の裂け目から、季節を問わず、寄り添うように咲き誇る二輪の花。


雨風にも散らず、雪の下でも枯れることのない、純白の百合と、血のように艶やかな紅薔薇。


「おはよう、今日もきれいね」


ミシャは花びらにそっと指先を寄せた。



幼い頃から、この花を眺める時間が何よりも好きだった。


三姉妹は古い歌として、この花にまつわる伝説を語り聞かせてくれたものだ。


『神聖の森の大樹より咲き出ずる、白百合と紅薔薇――並び立つ双星の光が、やがて国を覆う黒き夜を払う』


遠い昔のおとぎ話。自分とは何の関係もない、遥かな星のお話。


けれど、白百合の清らかさに触れるとき、そして隣の紅薔薇の鮮烈な美しさを見つめるとき、なぜかミシャの胸の奥は、まだ見ぬ誰かを恋うるようにきゅっと疼くのだった。


「......王都の、お城にも、こんな綺麗な花が咲いているのかしら」


ふと、行商人から聞いた噂が頭をよぎる。


大湊を擁する王都ルミエール、その奥にそびえる王宮には、外界から閉ざされた「青薔薇の離宮」があり、病弱な王妃アデレイド様が何年も伏せっているのだという。


親の顔を知らないミシャにとって、その哀しい母君の噂は、理由もなく胸を締め付けるものだった。


「ミシャ! 船が出る時間に遅れるよ! 早く靴をお履き!」


「はーい、セリアお姉ちゃん!」


ミシャは雑念を振り払うように頭を振ると、仕上がった特注のショールを丁寧に麻布で包み、背負い籠へと収めた。


三姉妹に手を振り、小鳥のように軽やかな足取りで、森の小道を駆け下りていく。


やがて視界が開け、海風の匂いが鼻腔をくすぐった。



無数の帆船のマストが林立し、活版印刷の香煙と商人の怒号が渦巻く、栄華の王都ルミエール。


――まさか、この街の硝子の向こうで。


自分の運命を根底から引き裂き、塗り替えてしまう「もう一輪の花」が待ち受けているとは、知る由もなかった。


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