◇9.魔族語で完璧な淑女の挨拶
「鬼やばぞよ、魔王様!」
純白もこもこ二頭身のつぶらな瞳の犬っぽい生き物が、短い足で頑張って二足歩行をしながら魔王に駆け寄ってきた。城門付近の可愛い指数が急上昇である。
魔族には人に近い姿の者もいれば、動物に近い姿の者もいるという。この白いもこもこ生物も魔族だろう。しかし可愛いなこいつ。魔族は巷で恐れられる存在だというのに、こいつには塩粒ほどの凶悪さもない。魔王のペットだろうか。この魔族のぬいぐるみを作ったら子どもたちに人気が出そうだ。
「激やば案件ぞよ、魔王様!」
もこもこ魔族が何事かを騒ぎ、魔王がムッと眉根を寄せて、何事かを答える。私に相対した時と違って早口なので、魔族語の聞き取りが初めての私には上手く内容が拾えない。
だが、なんだかまずい事態らしい空気は伝わってくる。不安である。私が魔界に到着して早々に事件だなんて困る。不安である。もこもこ魔族の短い尻尾がぴるぴると動く様が視界に入る。和む。
やがて話し合いは終わったようで、魔王はスンと澄ました無表情で私に向き直った。それは一見すると本当に「人間など下等生物」と思っているかのような冷たい眼差しなのだけれど、威圧的に見えるだけで歓迎はされているらしいという前提で対峙する今は、そんなに怖くはなかった。身体の震えもとっくに治まっている。
スンとした魔王は腕に付けた翻訳魔道具を私に見せ、これこれと言いたげに人差し指で示し、それから両手を頭上に掲げ、大きなバツを作った。
「翻訳魔道具、壊れちった。無理ぽよ」
「……!」
真顔で放たれる無理ぽよ発言の是非はさておき、翻訳魔道具の故障という事実に衝撃が走る。同時に合点がいった。というか最初にそれを疑うべきだった。そんな単純な原因だったのか。しかし、なんと間の悪い。
「なんてことかしら……」
替えの品を持ってくる素振りがないことから、おそらく翻訳システム全体の問題なのだろう。魔道具が大型アップデートで不具合発生というのは度々聞く事案である。つまりこの場ですぐ解消できる問題ではない。
人間が魔王の婚約者として魔界入りするという歴史的にも非常に重要なタイミングで、よりにもよって不具合なんぞ起こしよってこの野郎。だから精密機器は嫌いなのだ。
理不尽な不幸に拳を握りしめたが、ふと、閃いた。
――いや、これはむしろ好機なのでは?
魔王も想定外であろうこの事態。私がしっかり魔族語を話し、ちゃんと語学学習してきた勤勉な姿勢のアピールをし、恙ない会話進行で事態の解消に努めれば、私の株がめちゃくちゃ上がるのでは……?
不幸上等、不具合大いにけっこう。むしろ幸運。よし!
魔王をまっすぐに見て、暗記済みの挨拶を口にした。
『……わたくし、トレイシアと申します。魔王様にお会いできて大変光栄ですわ』
どうだ、この完璧な淑女っぷりは!
魔族語で自己紹介をかますべく一番練習してきた文章なので、なかなかスムーズに話せたと思う。すでに私を「トレイシア」と呼びかけている魔王に、改めて名乗る必要はないとは分かっているが、そこは様式美というやつだ。というかこの文章を練習しすぎて、咄嗟に変えるとか無理だった。
ともあれ、私の魔族語は完璧だったらしい。優雅に一礼して顔を上げれば、魔王は軽く目を見開いていた。よしよし、意表を突かれているな。
『この度は御自らお出迎えいただきまして、大変恐縮でございます』
楚々とした淑女感溢れる言葉を畳みかける。謙虚な微笑みを浮かべて謝辞を述べる私に、魔王は仰け反って驚いていた。表情はあまり動かない割に、身体のリアクションは大きいらしい。
「君、魔族語を喋れちゃう感じぃ?」
もはや魔王の口調など気にするまい。魔王を感心させることができた誇らしい気持ちを抑え、粛々と『はい』と頷く。謙虚アピールは大事である。
『魔界の言語を少しばかり勉強して参りました。嫁ぎ先となる国ですので、取り急ぎ身に着けなくてはと思いまして。まだまだ未熟でお聞き苦しいとは思いますが、どうかご容赦頂けましたら幸いでございます』
「おお……!」
魔王は感嘆の声を上げた。第一印象では、まるで情緒など持ってなさそうに見えたのに、先程の仰け反りリアクションと言い、今の感嘆と言い、むしろ感受性が豊かな方なのだろうか。
「やばたにえん、やばたにえんだねトレイシア。そのアンビシャスを……」
た、大変だ、急に何を言っているのか分からなくなった。
たった二週間で詰め込んだ魔族語の知識なので、早口で長文を話されると途端に聞き取りが難しくなる。
いや、おそらく魔王は早口で話しているつもりではなく、むしろこれが普通の早さなのだろう。
今まで辛うじて魔王の言葉を聞き取れていたのは、彼が意識的にゆったりと話していたからだったのか。初めて顔合わせする私に安心感を与えようと、そうしてくれていたのだと思う。
こんなところからも魔王が私を気遣っていたことが分かって、一言も交わさないうちから「歓迎されていない」なんて決めつけてしまって申し訳なかったなあ……と反省している間に、魔王と純白もこもこ魔族が、何やらこそこそと相談を始めていた。




